鳥見山、等彌神社、白庭、桜井市桜井

鳥見山鳥見山は標高245m、面積約50ha余のなだらかな山容で、登るにつれ北に三輪山・南に音羽山系・東に外鎌山や初瀬谷などを眺めながら頂上へと至ります。途中、霊畤拝所(是より160m)、庭殿(同650m)、白庭(同890m)等を通り、山頂(同1,000m)に至ります。
鳥見山登山の所要時間は往復1時間ほど。片道1㎞のハイキングが楽しめるようです。等彌神社の旧社地である庭殿、白山、祭場などはウォーキングの際の見所です。

等彌神社(とみ神社)

等彌神社の等彌は”とみ”と読み、鳥見、登美は全て同じ”とみ”です。

大和での神武軍最後の戦いで、金色の鳶が神武の弓先に止まり、神武軍は勝利し、その地が鳶邑になり、鳥見となったとされます。鳥見は外山(とび)で、桜井市南東の鳥見山山麓のこの地です。

鳥見(登美)の地は神武天皇の土地ではなく先住民の長髄彦・饒速日の本拠地でした。長髄彦は登美毘古とも呼ばれ、妹の登美夜毘売は饒速日と結婚し、物部氏の祖人である宇摩志麻治を産みました。

神武天皇ゆかりの神社。古事記に伝わる東征後、神武天皇は橿原市に於いて初代天皇として即位します。その時の大嘗祭が、意外にも桜井市で行われている。神武天皇が皇祖天津神を祀り、大孝を祈った聖地が鳥見山だった。鳥見山山中は日本初の大嘗祭の場所である。そのことを踏まえると、等彌神社がパワースポットとして名高い。等彌神社(とみじんじゃ)は、奈良県桜井市桜井にある神社。『延喜式神名帳』に掲載されている大和国城上郡等彌神社に比定されている。明治時代までは能登宮と呼ばれていた。本社にあたる上ッ尾社の祭神は大日霊貴命とされるが、饒速日命とする説も存在する。創建年月は不詳であるが、社伝によると当社は古来より鳥見山に鎮座していたとされる。鳥見山は初代天皇とされる神武天皇が皇祖神を祀った場所と伝えられる。天永3年(1112年)、山崩れにより社殿を現在地に移した。昭和15年(1940年)、県社に列格した。
主祭神 大日霊貴命(上ッ尾社)、春日大神、八幡大神(下ッ尾社) 周辺には桜井茶臼山古墳(4世紀初め)など古墳が密集。
神宝の画紋帯神獣鏡
「卑弥呼の鏡」の説がある画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)が、桜井市の等彌(とみ)神社に神宝として所蔵されていることがわかり、調査した桜井市纒向学研究センターが研究紀要で報告した。他にも鉄刀と勾玉(まがたま)が確認されており、古代の遺跡が密集する市内の鳥見山周辺の古墳から出土した可能性があるという。画文帯神獣鏡は破片で、鏡全体の4分1程度が残る。一番外側の文様帯は渦雲文。鋸歯文(きょしもん)帯や半円文などを挟み、一番内側のメーンの文様には神像の黄帝(こうてい)や侍者(じしゃ)が配置されている。復元すると、直径が約21センチの「画文帯環状乳神獣鏡」になる。鋳上がりの良い中国鏡と考えられている。
画文帯神獣鏡は最古級の古墳とされる桜井市のホケノ山古墳や、天理市の黒塚古墳など3世紀代の古い古墳から出土。中国の魏が邪馬台国の女王・卑弥呼に贈ったと魏志倭人伝に記されている銅鏡(百枚)の可能性があるとされる。等彌神社の画文帯神獣鏡についてはこれまで詳しい研究報告がなく、昨年同センターが鏡の拓本などを調査。等彌神社では古墳時代の鉄刀(現存長約93センチ)や大型の勾玉(全長7・6センチ)も所蔵しており、勾玉は滑石製で、色は濃いブルー。表面は光沢を帯びている。
宗像神社と
宗像神社と桜井茶臼山古墳

近鉄桜井駅の東1.3km,桜井茶臼山古墳の近くにあります。

桜井茶臼山古墳は大王の巨大古墳が桜井市の北部に集中するなか、メスリ山古墳と同じく桜井市の南部の磐余(いわれ)に築造された、
古墳時代初期に属する巨大古墳です。
地元では、鳥見山山麓の桜井茶臼山古墳に饒速日が埋葬されているとの伝承があります。

<桜井茶臼山古墳>
形状  :(柄鏡形)前方後円墳
築造 :4世紀中頃
構成 :後円部3段、前方部2段
サイズ :全長200m、後円部径110m、前方部幅60m
被葬者:饒速日説あり。

桜井茶臼山古墳は、市内にある大小五千の古墳の中では第一の前方後円墳で、全長207m、墳頂に底部穿孔壺型土器を並べた後円部を北に、前方部を南に向け南北形式に築造され、昭和24年秋と翌25年夏に県教育委員会が発掘調査をし、内部構造が古墳時代中前期に属する縦穴式の古い形で、全長6mの石室内を天井石まで全て高価な朱を多量に塗って、かなり何回も大規模な盗掘にあっているけど、石室から碧玉(へきぎょく)で作った玉杖や、玉葉、勾玉、五輪形石製品などが相当数出土し、土地では饒速日命の墓と伝えています。

2010年1月8日金曜日の読売新聞の1面のトップに、「邪馬台国と大和王権つなぐ?」「銅鏡81面分の破片出土」という見出しの記事が載っていました。桜井茶臼山古墳で、石室を覆っていた土の中から、少なくとも銅鏡計13種81面分の破片331点が出土し、中には正始元年銘入りの三角縁神獣鏡と同じ鋳型で作った鏡の破片も含まれていたというのです。【参考】 読売新聞 朝日新聞 産経新聞 毎日新聞 時事通信

新聞記事の目玉は、一つの破片に残る文字「是」を3次元計測して、「正始元年」銘三角縁神獣鏡と同じ鋳型で作られた鏡だったことが判明したことです。出土した破片は最大縦11・1センチ、横6・3センチ。3次元(3D)計測などによる分析の結果、三角縁神獣鏡が26面、内行花文鏡ないこうかもんきょうが19面など、計81面以上あることを確認した。破片の中に「是」の銘があり、群馬県高崎市の蟹沢古墳で出土した「正始元年」銘の鏡にある「是」の字と形などが同じだったことが判明。同じ型で作られた鏡とみられる。

忍坂坐生根神社

大和国・城上郡鎮座・月次新嘗とされる式内大社です。

 祭神:天津彦根命、少彦名命

忍坂坐生根神社は額田部氏が祖である天津彦根命を祀ったものか。天津彦根命は天照大神と須佐之男の誓約の際に、天照大神の御統の珠(みすまる)から生まれた五柱の男神のうちの一柱です。

忍坂は出雲系の氏族である額田部氏が居住していた地で、飛鳥時代の歌人額田王や鏡王女の生育地との伝承があります。忍坂坐生根神社の東400mには額田王の母とも姉ともされる鏡女王押坂墓があります。鏡女王や額田王の父は鏡王と称される鏡の製作・鋳造を行う額田部氏の首長と思われます。

鏡女王は、近江国野洲郡鏡里の豪族・鏡王の娘で、万葉歌人として有名な額田王の姉にあたるとされています。はじめ天智天皇の妃で、のちに藤原鎌足の奥さんになった方と言われています。 奈良・興福寺の起源となる山階寺(やましなじ)は、藤原鎌足が病気のとき、鏡女王によって建立されたと伝えられています。「日本書記」によれば、天武12年(683年)7月4日、天武天皇は鏡女王の宮へ行き、見舞ったが、彼女はその翌日に亡くなったと記されています。鎌足は、天智天皇から鏡女王を譲り受けることになり、鏡女王と互いに熱愛していた鎌足は、たいそう喜んだそうで・・・・鎌足と鏡女王の相思相愛・・・恋の成就の神とされる。