『魏略』
著者は魚豢(ぎょかん)である。魚豢については事績が伝わっていない。
『三国志』の裴松之注に引用され残る文により、劉表と面識があったこと、その後魏に仕えたことが記述されている程度である。
成立年代は魏末から晋初の時期と考えられるが具体的には諸説ある
…….
魏略 (逸文1)前漢書 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注(原文)
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
(読み下し)
倭は帯方東南大海の中に在り。山島に依て國を爲す。渡海千里にしてまた國有り。皆
魏略 (逸文2)翰苑 卷三十(原文)
従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里
始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴
南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里
(読み下し)
帯方より倭に至るには海岸に循いて水行し、韓國を歴て拘邪韓國に至る。七十里。
はじめて一海を度る千余里。対馬國に至る。其の大官を卑狗と曰い、副を卑奴と曰う。良田無く南北に市糴す。
南に海を渡り一支國に至る。官を置くこと対に同じ。地の方三百里。
魏略 (逸文3)翰苑 卷三十(原文)
又度海千余里 至末廬國 人善捕魚 能浮没水取之
東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓 柄渠 其國王皆属女王也
(読み下し)
また海をわたること千余里。 末廬國に至る。 人、よく魚を捕え、よく水に浮没して之を取る。
東南五百里にして伊都國に到る。 戸は万余。 官を置くに爾支といい、副を洩渓、柄渠という。 その國王、皆女王に属する也。
魏略 (逸文4)翰苑 卷三十(原文)
女王之南又有狗奴國 以男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
(読み下し)
女王の南、また狗奴國あり。 男子を以って王と爲す。 其の官を拘右智卑狗という。 女王に属さぬなり。
魏略 (逸文5)翰苑 卷三十(原文)
自帯方至女國万二千余里
其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後
昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
(読み下し)
帯方より女國に至るには万二千余里。
その俗、男子は皆、黥而(面)文(身)す。 その旧語を聞くに、自ら太伯のすえという。
昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し、以って蛟龍の害を避く。 今、倭人また文身し以って水害を厭わす也。
魏略(逸文6)北戸録 卷二 鶏卵卜(原文)
倭國大事輒灼骨以卜 先如中州令亀 視占吉凶也
(読み下し)
倭國、大事には輒ち骨を灼き以って卜う。 先ず中州の令亀の如し。 を視て吉凶を占う也。
魏略 (逸文7)三國志 魏書 東夷伝 倭人 裴松之注(原文)
其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀
(読み下し)
その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収をはかり年紀となす
魏略 (逸文8) 法苑珠林 魏略輯本 所引(原文)
倭南有侏儒國 其人長三四尺 去女王國四千余里
(読み下し)
倭の南に侏儒國有り。 その人のたけ三、四尺。 女王國を去ること四千余里。
翰苑 巻30の逸文に、倭人の出自について
「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」
と、自ら太伯(たいはく)の後と称していたとある。
<三国志・呉書・呉主伝・孫権条>
黄竜二(230)年の春三月、(中略)、孫権は将軍・衛温、諸葛直ら将兵万人を遣わし、海に出て夷洲および亶洲を求めさせた。亶洲は海の中にあり、長老は伝えて(次のように)言っている。
「秦の始皇帝は、神仙の術を持つ徐福に、童男童女数千人を連れて海に出でて、蓬莱の神山と仙薬を求めさせたが、(徐福一行は)この島に留まって帰らなかった。代々続いて数万家にもなり、そこの人民は、時に会稽に来て取り引きをすることがある。会稽の東の県人は海に出て風に流され、(そのまま)移って亶洲に行った者もいる」
その住んでいる所は果てしなく遠く、将軍らはついに亶洲には行きつけなかった。だが、夷洲には行くことができ、数千人が帰ってきた。
「呉書」においては「倭人」の登場はなく、ただ「呉主伝」の中の「孫権伝」に「夷洲、壇洲へ将兵万人を送り、調査させた」という記事があるだけである
(注)孫権・・・そんけん。三国時代の呉(222~280)の初代。孫堅の子。孫(まご)の烏程公・皓の時、晋の武帝(司馬炎)に降伏した。
夷洲および亶洲・・・いしゅう及びたんしゅう。
夷洲は台湾説が有力だが、上の条では、亶洲だけが海中にあり、夷洲はそうではないように読み取れないこともない。となると東夷の意味の夷洲と考えて、論語で孔子が言ったという「九夷」の内の「山東半島以東の夷人」すなわち朝鮮半島を指すとしてもよい。そこなら中国大陸とは地続きであり島ではない。
上の条の最後の部分「夷洲には行き付いて、数千人が帰って来た」とあるのは、呉が半島の公孫氏の許へ一大水軍を送ったが、失敗して帰還したことと符合する。
亶洲は明確に島であるとしてあるから、九州島をはじめ日本列島を指しているのだろう。九州島の南海にある種子島を「たん=たね」の発音の類似と、大陸の隷書の文字に似た模様を刻んだ「貝符」がたくさん発見されていることなどから亶洲だとする説が強いが、「代々続いて数万家になった」との記述を信じるとすれば種子島では収まりきらず、倭人列島の海沿いの地域、少なくとも九州島がそれに該当すると考えた方がよいと思う。
<魏略(逸文)>
「魏略」は魏志の種本といわれている。陳寿とはぼ同時代に生き、先に死んだ魚豢(ぎょけん)の著述。原本は伝わらず、いろいろな書に引用されているので、わずかにその存在が知れるという書である。
倭は帯方の東南大海中に在り、山島に依って国を為す。海を渡ること千里、また国を有す。皆、倭種なり。 (漢書・地理志・燕地・顔師古引用の注)
(前略)
女王の南、また狗奴国有り。男子を以って王と為す。その官、狗右智卑狗(くうちひく)といい、女王に属せず。帯方より女(王)国に至る、万二千余里。その俗、男子みな面文を點ず。その旧語を聞くに、自ら太白の後という。むかし、夏后小康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身し、以って蛟龍の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以って水害を厭うなり。 (翰苑・巻30において引用)
(注)
海を渡ること千里・・・倭人の中心地が九州島か畿内かで大きく分かれているが、この表現からも九州島であったことが分かろう。畿内からは東は地続きで海を渡る必要はないのだから。もっとも、魏志倭人伝をどう読んでも「女王国(邪馬台国)」が畿内にあるはずはないが――。
自ら太白の後という・・・ここでは「呉の太白の後裔」と言わず、「呉の」が無いことに注意しなければならない。この「呉の太白の後裔」を解釈して「倭人は呉国(呉人)の後裔だ」と考える向きがあるが、魏略はそうは言っていない。あくまでも呉の祖である「太白」の後、すなわち「呉人と同様に、倭人も太白の末裔なのだ」と言っているというのだ。これを逆に倭人を中心に解釈すると「太白は倭人の祖、つまり、太白は倭人なのだ」となる。
そんなこと有り得ぬ、と言われるだろうが、『史記』「周本紀」によると太白・虞仲・季歴の三兄弟のうち周王朝の祖となったのは末っ子の季歴であり、上の二人は南方に逃れ、太白は呉の祖になった。しかし実は子供がいなかったので、一緒にやって来た弟の虞仲の血筋が呉を継いでいくのであり、「呉の太白」と『史記』「呉太白世家」にあるにしても、実質上は「虞仲の呉」だったのである。子供がいなかった太白から子孫が続くはずはなく、したがって「太白の後」という表現は「太白の子孫だ」ということにはならないということである。
そのことで注目しなければならないのはこれら三兄弟の父の「古公亶父(ここうたんぷ)」である。「古公」は「遠い昔の人」という意味だから除外してみると残りは「亶父」つまり「亶洲の父」であり、「亶洲」を先述のように倭人列島のこととすると「倭人の父」と解釈することができる。その亶父の子である三兄弟も当然倭人でなければおかしいであろう。
夏后小康・・・夏王朝(BC1800頃~1500頃)の6代目。倭人伝にも同じ表現がある。一読して、倭人の文身が小康の子に倣ったと解釈されがちだが、この条でも倭人伝でもそんな事は一言もいっていない。小康の子が行ったとされる会稽の習俗と倭人のこの習俗とはそっくりだと言っているだけで、どちらが先に取り入れたというような、先後関係を見ることはできないことに留意しなければならない。
<廣志(逸文)・・・翰苑の引用による>
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)が引用している「廣志」には倭人伝には見られない倭人の国が登場する。
倭国の東南陸行五百里、伊都国にいたる。又、南、邪馬台国に至る。女(王)国より以北はその戸数道里の略載を得べし。次に斯馬国、次に己百支国、次に伊邪国。案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分国あり。布巾無く、革を以って衣と為す。けだし伊耶国ならんか。
(注)
伊邪分国・・・「分」は「久」の誤り。隋書の「流求国伝」に登場する「夷邪久国」のことであろう。倭国の遣使の際に布甲(布製のヨロイ)を示したところ、倭国の使いが「それは夷邪久国人の用いているものです」と答えている。「いやく国」は現在の屋久島を指すとされている。
ただ、隋書の「夷邪久国」には布製の甲があるくらいだから、当然「布巾」は存在するはずで、この翰苑の
「布が無いので革を衣服の代用としている」という表現が何を根拠にしているのか、首を傾げる。最後の「伊耶国」は「伊邪国」の誤記だろう。倭人伝には無い国名である。
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『史記』「周本紀」によると太白・虞仲・季歴の三兄弟のうち周王朝の祖となったのは末っ子の季歴であり、上の二人は南方に逃れ、太白は呉の祖になった。しかし実は子供がいなかったので、一緒にやって来た弟の虞仲の血筋が呉を継いでいくのであり、「呉の太白」と『史記』「呉太白世家」にあるにしても、実質上は「虞仲の呉」だったのである。子供がいなかった太白から子孫が続くはずはなく、したがって「太白の後」という表現は「太白の子孫だ」ということにはならないということ。
そのことで注目しなければならないのはこれら三兄弟の父の「古公亶父(ここうたんぷ)」である。「古公」は「遠い昔の人」という意味だから除外してみると残りは「亶父」つまり「亶洲の父」であり、「亶洲」を倭人列島のこととすると「倭人の父」と解釈することができる。その亶父の子である三兄弟も当然倭人でなければおかしいであろう。
<廣志(逸文)・・翰苑の引用による>
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)が引用している「廣志」には倭人伝には見られない倭人の国が登場する。
倭国の東南陸行五百里、伊都国にいたる。又、南、邪馬台国に至る。女(王)国より以北はその戸数道里の略載を得べし。次に斯馬国、次に己百支国、次に伊邪国。案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分国あり。布巾無く、革を以って衣と為す。けだし伊耶国ならんか。
(注)
伊邪分国・・・「分」は「久」の誤り。隋書の「流求国伝」に登場する「夷邪久国」のことであろう。倭国の遣使の際に布甲(布製のヨロイ)を示したところ、倭国の使いが「それは夷邪久国人の用いているものです」と答えている。「いやく国」は現在の屋久島を指すとされている。
ただ、隋書の「夷邪久国」には布製の甲があるくらいだから、当然「布巾」は存在するはずで、この翰苑の
「布が無いので革を衣服の代用としている」という表現が何を根拠にしているのか、首を傾げる。最後の「伊耶国」は「伊邪国」の誤記?。倭人伝には無い国名である。
(三国志・呉書の項終り)