中国文明が青銅器時代に入ったのはエジプトや西アジアに比べてかなり遅く、紀元前2000年紀前半の二里頭文化期からである。それ以前、新石器文化に属する甘粛省・青海省の斉家文化(紀元前2200年頃 – 紀元前1600年頃)でも銅製の刀子、錐、鑿(のみ)などの小型の道具がすでに製作されていたが、この文化は金石併用段階とみられる。
中国が金石併用文化から青銅器文化の段階に入るのは、河南省偃師市の二里頭遺跡を標識遺跡とする二里頭上層文化期(二里頭3・4期)である。この文化の実年代は論者によって異なり、正確には決めがたいが、おおよそ紀元前1700年頃と考えられている。この二里頭上層文化の遺物については、これを中国最古の夏王朝の文化とみなす見方と、殷(商)の初期に属するとする見方とがある。
中国の青銅器時代は殷(紀元前1600年頃 – 紀元前1050年頃)から西周時代(紀元前1050年頃 – 紀元前771年)を経て、春秋時代(紀元前770年 – 紀元前453年/403年)まで継続し、春秋時代と次の戦国時代の交代期あたりに鉄器時代に入ったとみなされている。青銅製の器物はその後も秦・漢時代までは引き続き製作されるが、中国を統一した秦は、周の制度を徹底的に否定したため、従来のような礼器の製作は終わり、青銅で作られる器物は燭台、香炉といった日常生活用品が主体となった。
前1200年のカタストロフとは地中海東部を席巻した出来事のこと。この出来事の後、当時、ヒッタイトのみが所有していた鉄器の生産技術が地中海東部の各地や西アジアに広がることにより青銅器時代は終焉を迎える事になり鉄器時代が始まった。
秦漢時代以降、青銅製の祭器・礼器の製作はとだえたが、儒教思想が周の時代を理想としたことから、古代の青銅器は中華精神を体現する霊器として、珍重された。前漢時代には周の青銅器である鼎が出土したことを記念して年号を「宝鼎」と改号したことがあり、古代青銅器の発見は瑞祥とされた。『洞天清禄集』(宋・趙希鵠著)という書物には、「古代の青銅器を家に飾れば祟りを避けることができ、花を活ければ、花が長持ちする」という意味のことが書いてある。宋時代以降は古代青銅器を愛玩・収集し研究することも行われた。倣古銅器といって、古代の青銅器の形態を模倣した作品が作られるようになり、仏具、磁器などにも尊、鼎などの古代の器の形を取り入れたものが登場した。
日本
弥生時代の銅矛(九州出土、1–2世紀)
本格的に青銅器が日本(倭)にもたらされたのはおよそ紀元前2世紀であり、生産もその後すぐおこなわれた可能性が高い。主な青銅器は、鏡・矛・剣・戈(か)の武器類と銅鐸、やりがんな等である。武器類は、初めごろは実戦に使えるものであったが[注釈 1]、日本ではほぼ同時期に鉄器や製鉄技術も伝来しており、武器や実用道具は性能に優れた鉄器にとって代えられた。
鉛同位体比の測定による銅産出地説
東京国立文化財研究所の馬淵久夫(保存科学部長)により2,500点もの銅器の鉛同位体比が測定され、弥生期の鉛(銅の産地と一致すると仮定した上で)の素材供給地の変遷が調べられた。その結果、弥生初期では朝鮮半島から供給され、やがて中国・華北地方へと移行したと結論。その境界は前108年(紀元前1世紀)、漢の武帝による楽浪郡の設置に当たった時期としている。華中・華南の原料が使用されるようになったのは古墳時代からであり、この時代となると、華北原料は全く認められなくなる。この見解に従うなら、弥生中期から後期にかけての日本の銅器原料は中国華北地域ということになる。
2007年に韓国立慶尚大学招聘教授の新井宏が発表した研究結果では、弥生前期末から中期初めのものとされる青銅器は、中国最古の王朝とされる商(殷、紀元前17~11世紀)や西周(紀元前12~8世紀)の時代に多く見られる青銅器と、鉛同位体比が一致することが判明し、極めて特殊な鉛の種類が含まれていたという。
琵琶形銅剣(びわがたどうけん)
青銅器の一種である。遼寧式銅剣(りょうねいしきどうけん)の名もある。
満州から朝鮮半島、遼寧地方にかけて出土している銅剣。最も古いものは遼西地域の小黒石溝の石郭墓で西周後期の青銅器と共伴したもので、紀元前9世紀頃に比定されている。朝鮮半島からの出土は紀元前7世紀前後からである。韓国国定国史教科書では琵琶形銅剣と北方式支石墓、美松里式土器が一緒に出土される地域を古朝鮮の勢力圏として教えている。
銅戈(どうか)は青銅で作られた戈である。
元来は戦車などでの戦闘で適した形状として発達した武器であるが、日本や朝鮮半島では刃部のみが大型化した形態として発掘される。日本における銅戈はその形状や使用痕が殆んどないことから、戦闘用ではなく祭礼用であろうと推測される。
日本では、基本的に九州地方北部に多い綾杉紋のはいったタイプと、大阪府・兵庫県・和歌山県に限定されて見られる鋸歯状紋の入った大阪湾型のタイプがある。
2007年(平成19年)10月に、長野県の中野市の柳沢遺跡で七本の銅戈が発見され、これが北限となる。大阪湾型と九州型が同時に出土したが、これは他に類を見ない。さらに銅鐸と同時に発見されたのは東日本初である。
銅戈には鹿の絵が陽刻が施されたものがまれに存在する。鹿の絵が見られるものは銅鐸には多いが銅戈には殆ど見られない。現在確認されるだけで福岡県小郡市、春日市、筑紫野市と長野県大町市のものを含め4例のみである。
銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。
1世紀末ごろを境にして急に大型化する(IV式:突線紐式)。この大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の二種がある[8]。近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されている。近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地方に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布する。それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られた。2世紀末葉になると近畿式のみとなる。銅鐸はさらに大型化するが、3世紀になると突然造られなくなる。
銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年(668年)、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうという。ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていない。『続日本紀』には、和銅6年(713年)、大和宇波郷の人が長岡野において発見した記事があり、『日本紀略』には、弘仁12年(821年)、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとある。