難波根子 建振熊、和邇氏

『日本書紀』『古事記』とも、武振熊について和珥臣(丸邇臣)祖とのみ記しており、系譜の記載はない。

『日本書紀』神功皇后元年3月5日条によると、皇后と皇子(のちの応神天皇)に対して反乱を起こした忍熊王を討つため、武内宿禰とともに遣わされたとする。
また同書仁徳天皇65年条によると、飛騨に「宿儺(すくな)」という体は1つで顔は2つある怪物があり、皇命に従わず人民を苦しめたために武振熊が討伐に遣わされたという。

『古事記』でも、仲哀天皇段において忍熊王討伐に派遣された旨が記和邇氏されている。 『日本書紀』『古事記』とも、武振熊について和珥臣(丸邇臣;和珥氏)の祖と記載する。

   
 

『新撰姓氏録』右京皇別真野臣条では、
「彦国葺命(天足彦国押人命三世孫) – 大口納命 – 難波宿禰 – 大矢田宿禰」
と続く系譜が記されるが、武振熊が「難波根子」と称されたことから、このうちの「難波宿禰」との関連が指摘される。

富士山本宮浅間大社の大宮司家(富士氏)系図では、武振熊は第5代孝昭天皇六世孫とされる。同系図では曾祖父を彦国葺、祖父を大口納、父を大難波宿禰とし、『新撰姓氏録』真野臣条に見える「難波宿禰」の位置に大難波宿禰と難波根子建振熊の2代をあてる。子としては米餅搗大臣、日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰らの名が記載されている。

また籠神社に伝わる海部氏系図では、天火明命を祖として海部氏へと続く系譜の19代目に同名の人物が記載されているが不詳。

海部の系譜に登場する和邇氏の建振熊
『日本書紀』では建振熊を和珥臣(わにおみ)の祖とする。また、建振熊命は和邇氏の系譜上の人物である。

その和邇氏の人物が『勘注系図』では次のように登場する。
十六世孫丹波國造大倉岐命 ― 十七世孫丹波國造明國彦命 ― 十八世孫丹波國造建振熊命
和邇氏の振熊が、海部の系図の中に、丹波国造として登場する

『勘注系図』は建振熊命の注記で次のように述べる。

「息長足姫(神功皇后)、新羅国征伐の時、丹波、但馬、若狭の海人三百人を率い水主(みずぬし)と為って以って使え仕え奉るなり。凱施(凱旋・がいせん)の后勳功により、若狭木津に高向宮(たかむくのみや)を定め海部直の姓を賜う、而(しこう)して楯鉾等を賜う。品田天皇(応神)の御宇(みよ)国造として仕え奉る故に、海部直亦云う丹波直、亦云う但馬直なり。」

建振熊命は神功応神朝成立の功労者である。その功績によって丹波、但馬、若狭の広い範囲の支配者となるのである。もちろんその前に成務の時代、丹波には大倉岐が、但馬には船穂宿禰がそれぞれの国造として任命されている。
建振熊命は丹波、但馬、若狭という広域を支配する上位の国造である。
したがって建振熊命が国造となるのは、一七世孫丹波國造明國彦あたりの時代であろうが、明國彦と建振熊命の間には血縁的な関係は無い。

彦国葺。
アマタラシヒコクニ (春日親君) の曾孫。チチハヤの孫。オケツ(彦姥津命)の子。
シホノリヒコの祖父。和珥臣の先祖。
タケハニヤスの反乱の時、山背のワニタケスキに斎瓮を据え、ハニヤス軍を破る
垂仁天皇25年、阿倍の祖タケヌナガワ・中臣の祖オオカシマ・物部の祖トイチネ・大伴の祖タケヒと共に、厚く神祇を祭祀せよとの詔を賜わる (五大夫)
イセ宮完成の時、内宮(ヒハス姫) の代理として詣でる

天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)、和邇氏の祖
『日本書紀』では「天足彦国押人命」、『古事記』では「天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)」、他文献では「天足彦国忍人命」とも表記される。『日本書紀』『古事記』とも、事績に関する記載はない。

第5代孝昭天皇皇子で、第6代孝安天皇の同母兄、第7代孝霊天皇の外祖父である。和珥氏(和邇氏/丸邇氏)・春日氏・小野氏ら諸氏族の祖とされる。

『日本書紀』『古事記』によれば、第5代孝昭天皇と、世襲足媛(よそたらしひめ、余曽多本毘売命)との間に生まれた第一皇子である。同母弟には日本足彦国押人天皇(大倭帯日子国押人命、第6代孝安天皇)がいる。

子に関して、『日本書紀』では娘の押媛が孝安天皇の皇后となり、孝霊天皇(第7代)を産んだとする。また『和邇系図』では、和邇日子押人命(稚押彦命)の名を挙げる。

和邇下神社

和爾下神社    奈良県天理市和爾町。

祭神:天足彦押人命、彦姥津名、彦国葺命

新撰姓氏録考證(栗田寛著)には「奈良朝神社注進状に據れば和爾下神社の神官は櫟井(イチイ)氏にして祭神は天帯彦国押人命、日本帯彦国押人命の二座なり」とある。共に櫟井臣・和珥(ワニ)臣の祖神であり、明治初年に和爾下神社祠官辰巳筑 前の其筋へ差出した記録には旧祭神として「本社、天足彦国押人命・彦姥津命・彦国葺命・若宮難波根子武振熊命」とある。新撰姓氏録によれば「櫟井臣、和爾部同祖、 彦姥津命の後なり。柿本朝臣、天足彦国押人命の後 なり。和爾部、天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後なり」とある。

孝昭天皇の妃
世襲足媛(よそたらしひめ)は、欠史八代、孝昭天皇の皇后。孝安天皇と天足彦国押人命の生母。
『古事記』では尾張連祖奥津余曾の妹である余曾多本毘娘。『日本書紀』本文では尾張連祖瀛津世襲の娘である世襲足媛である。
なお『日本書紀』第1の一書での皇后は、磯城県主葉江の娘である渟名城津媛、第2の一書では、倭國豊秋狭太媛の娘である大井媛。

孝昭天皇
+ ——————->孝安天皇
世襲足媛(尾張連祖瀛津世襲の娘)

孝昭天皇
+ ——————->天足彦国押人命
世襲足媛(尾張連祖瀛津世襲の娘)

孝安天皇の皇后の押媛(おしひめ):孝霊天皇と大吉備諸進命の生母。

『日本書紀』本文の皇后で天足彦国押人の娘かつ孝安天皇の姪である。『日本書紀』第1の一書での皇后は磯城県主葉江の娘である長媛、第2の一書での皇后は十市県主五十坂彦の娘である五十坂媛。

『古事記』では、孝安天皇は姪忍鹿比売命を娶って、 大吉備諸進命、大倭根子日子賦斗邇命(のちの第七代天皇・孝霊天皇)をもうけた。

倭根子が付く人

孝霊天皇、大倭根子日子賦斗邇命おおやまとねこひこふとにのみこと【父:孝安天皇】【母:押媛】 【子:彦国牽尊(孝元天皇)、千千速比売命、倭迹迹日百襲姫命、日子刺肩別命、吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)、倭迹迹稚屋姫命…】

孝元天皇、大倭根子日子国玖琉命おおやまとねこひこくにくるのみこと【父:孝霊天皇】【母:細媛命】 【子:大彦命、稚日本根子彦大日日尊(開化天皇)、倭迹迹姫命、少彦男心命、彦太忍信命、武埴安彦命】

開化天皇、若倭根子日子大毘毘命 わかやまとねこひこおおびびのみこと【父:孝元天皇】【母:欝色謎命】 【子:彦湯産隅王、御間城入彦尊(崇神天皇)、御真津比売命、彦坐王、建豊波豆羅和気王】

稚倭根子皇子 わかやまとねこのみ【父:景行天皇】【母:八坂入媛命】

『古事記』では、第十二代・景行天皇と、吉備臣の祖・若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女との間に、 櫛角別王、大碓命、小碓命(倭男具那王)、倭根子命、神櫛王の五柱の御子が生まれた。

根子がつく人

大田田根子おおたたねこ【父:大物主神】【母:活玉依媛】

真根子まねこ

難波根子武振熊なにわねこたけふるくま

白髪武広国押稚日本根子天皇しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと【父:雄略天皇】【母:葛城韓媛】

山背根子 やましろのねこ 【子:葉山媛、長媛】

<足>と<根>が同音だという
「根子」は従来のような「ネコ」という発音ではなくて、「定」「帯」と同じく「タリシ」または「タラシ」と読まねばならない

「根子」の漢音は「ニチ」で、『魏書倭人章』の伊都国の最高官の官名『爾支(ニチ)』にも完全に一致する。

壱岐真根子の悲劇

応神9年の夏、4月に武内の宿禰を筑紫に派遣して、百姓(豪族たち)を監察させました。

その留守の間、武内の宿禰の異母弟の甘美内(うましうち)宿禰が、この兄を落とそうとして、天皇に讒言(ざんげん)しました。

「武内の宿禰は常に天下を取ろうと思っています。今聞いたのですが、筑紫に行って、密かにはかりごとをして、『筑紫を分裂させて、三韓の王を呼んで自分に従わせて、天下を取ろう』と言っているそうです。」と申し上げました。

すると、応神天皇はすぐに使者を使わして、武内の宿禰を殺すように命じました。武内の宿禰は嘆いて言いました。

「私はもとより、二心(ふたごころ)は無く、忠義をつくして天皇にお仕えしていた。いったい何のわざわいなのか、罪もないのに死ねというのか。」と。

そこに壱岐直真根子(まねこ)という人がいました。

その人は武内の宿禰と見た目がそっくりでした。武内の宿禰が罪もないのに空しく死ぬのを惜しんで、言いました。

「まさに、大臣は忠義の心で天皇に仕えています。はかりごとなど悪い考えがないのは、天下のすべてが知っています。願わくは、密かにここを去って、朝廷に参内して、自ら罪の無き事を伝えて、それから死んでも遅くはないでしょう。また、誰からも『私めの姿かたちが大臣そっくりだ。』と言われます。だから、私めが大臣に代わって死んで、大臣の清らかな心を明かしましょう。」

と言って、即座に剣で自分を刺して亡くなりました。

武内の宿禰はひとり大変悲しんで、密かに筑紫を去って、船に乗って、南海を廻って、紀水門(きのみなと)に泊まりました。ようやく帝に面会を許されて、罪のない事を弁明しました。応神天皇は武内の宿禰と甘美内の宿禰の言い分の食い違いを尋ねました。すると、二人は自分の言い分を変えずに争いました。

どちらが正しいのか決められませんでした。

そこで応神天皇は天地の神に誓わせて、探湯(くがたち)をさせました。こうして、武内の宿禰と甘美内の宿禰は磯城(しき)川のほとりで、探湯をしました。武内の宿禰が勝ちました。

すると、すぐに太刀を取って、甘美内の宿禰を打ち倒し、ついには殺そうとしました。応神天皇は勅命を出して、許させて、

武内の宿禰の母方の紀の直(あたい)の奴婢にしました。