隅田八幡神社人物画像鏡(すだはちまんじんじゃじんぶつがぞうきょう)は、和歌山県橋本市に所在する隅田八幡神社が所蔵する5 – 6世紀頃製作の銅鏡。鏡背の48字の金石文は、日本古代史、考古学、日本語史上の貴重な資料である。国宝に指定されている。
人物画像鏡は青銅製で径19.9cm。正確な出土年代や出土地は定かでない。鏡背は円形の鈕を中心に、内区には古代中国の伝説上の人物である東王父・西王母(とうおうふ・せいおうぼ)など9名の人物を表し、その周囲には半円形と方形からなる文様帯、その外側には鋸歯文を表し、周縁部には漢字48字からなる銘を左回りに鋳出する。
この鏡の原鏡(母鏡)となった画像鏡は、大阪府八尾市の郡川車塚古墳、同藤井寺市の長持山古墳、京都府京田辺市のトツカ古墳、福井県若狭町の西塚古墳、東京都狛江市の亀塚古墳などで、同型鏡または踏み返し鏡が知られている。しかし、手本となった鏡と本鏡とでは、東王父、西王母を中心として描かれた文様がすべてが逆に鋳造されている。
金石文:銘文と読み下し
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
(大意)癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月十日大王年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。
諸説
「癸未年」がいつに当たるかについては多くの説があるが、西暦443年とする説、503年とする説が有力である。
443年説にたてば第19代允恭天皇(5世紀中頃没)の皇后である忍坂大中姫の忍坂宮である可能性を示し503年説の場合は継体天皇が即位前に、忍阪にいたことになるのです。
443年とすると、倭王済が宋に使いを遣わして「安東将軍倭国王」の称号を得た年であるから、大王は、允恭天皇を指すものと解釈できる。また、意柴沙加宮は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)皇后と何らなの関係があるとみられる。男弟王は誰であるまだ分かっていない。
地名の固有名詞が音がなで意柴沙加宮(おしさかのみや)、人名は、斯麻(しま、人名)、開中費直(かわちのあたい、河内直『百済本記』云、加不至(カフチ))、今州利などの二人の名が記されている。
「日十」を「日下」と読み日下大王、即ち大草香皇子のことではないかとの説もある。(森浩一)
503年説においては、当時倭国と緊密な外交関係をもち、大陸の文物を大量に輸出していた百済武寧王(在位:502年 – 523年)の諱が「斯麻王」であることから、鏡の作者「斯麻」を武寧王と推定する解釈が有力である。
「古田氏」によれば「日十」は「十日」のことではないし、「大王年」は「大王」の年(年次)を示すものではなく中国風「一字名称」であり、また「男弟王」は「魏志倭人伝」の出現例と意味は同じとされています。それによれば「男性の王」の弟は単に「弟王」と表記するのに対して「女性王」の弟は「男弟王」と表記する例が見られるとされ、(典型的なものが「卑弥呼」と「男弟王」とされるが他にも例を提示されています)この「日十大王」と「男弟王」の場合にも当てはまる可能性があるとされるのです。つまり「日十大王」は「女性」である可能性が高いというわけです
意柴沙加宮
忍阪が近江の豪族、息長氏の大和における拠点だったのではないかとの考えは息長氏の血を引いているという忍坂大中姫、そして妹の衣通姫(そとおりひめ)の出生地が近江である事、舒明の父、忍坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)は非蘇我氏系皇族「忍阪王家」の祖であり母(広姫)も息長氏の出身、舒明天皇の和風諡号は「息長足日広額」(おきながたらしひひろぬか)、また舒明が忍阪に改葬されるに際しては息長山田公という人物がしのびごと(死者に対して慰めの言葉をかける事)を述べているという事実等、忍阪と息長氏との深い繋がりがうかがえます。
503年説
西暦503年八月 意柴沙加宮に在った男弟王の長寿を念じて [百済王]斯麻が 開中費直と穢人今州利の二人を遣わし この鏡を造らせた
と読むことも可能になる訳ですが、この鏡の造りはとても粗雑で、とても百済の王様が態々部下の二人を現地に送り込んでまで造らせた一級の贈答品と言うにはかけ離れた模造品の一つに過ぎません。また、西暦521年、中国の高祖から「使持節・都督百済諸軍事・寧東大将軍」の爵位を授けられた百済王朝二十五代武寧王の諱が斯摩(しま)であり、日本側資料の日本書紀・武烈紀四年是年条に、
百済の末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王(せまきし)を立つ。これを武寧王とす。
当時、大和で大王を称していた人物は、第25代武烈帝(489~507)という事になります。次に「男弟」ですが、系譜を信じるなら仁賢帝(449~498)には武烈の他に男子は授かっていませんから、この「男弟」は、武烈の「姉妹の配偶者」の一人だと考える他はありません。それが継体・安閑の親子二人ということです。つまり武烈の跡を襲った継体帝の皇后が仁賢の娘・手白香皇女であり、継体の長子、安閑帝の皇后が春日山田皇女の姉妹ですから、若し既に輿入れしていたと仮定するなら、503年当時「大王」の「弟」と称することが出来るのは、この親子だけだった事になります。つまり「男弟王」を「ヲオト・ヲホド」と読むことにより、継体の諱「乎富等、袁本杼」にも合致しているとする訳です。
しかし、そうすると、義理の兄にあたる武烈帝が「日十(ヒト・ヒソ)大王」その人でなければなりませんが、彼を、そのように書き記した文献はこれまでに見つかっていません。そこで、この「大王」は大和朝を治めているのではなく、別の王朝が六世紀当時大和以外の地にあったのだとする説も登場することになるのですが…、それ以前に、記紀が何れも手白香皇女を武烈の「姉」だと記録していますから、503年説をとるとしても全く別に該当者を見つける必要があります。更に、皮肉なことに武烈手白香たちの父である仁賢帝の字が「嶋郎・しまのいらつこ)であることは研究者たちの口から洩れることは殆どありませんが、武寧王の故事にもあるように「島(嶋)」という土地で幼い頃をすごした有力者の子弟に、その土地そのものの名称が与えられた例として「斯麻」は捉えるべきなのかも知れません(時代は相当下りますが、飛鳥の地で蘇我氏の棟梁馬子も嶋大臣と呼ばれました。尤も、彼の場合は自宅の池の中に趣向で島を拵えたからなのですが、嶋は洲でもあり勢力圏の意でもあるのです)。
濊?
半島内における諸民族の消長には詳しくありませんが、濊(東濊)の不耐王が魏に降伏したのが正始六年(245)、不耐濊王の爵位を得たのが二年後の247年、更に下って高句麗と馬韓、濊、貊が帯方郡を滅ぼしたのが西暦314年の事ですから、濊という一つの民族が半島内で独自の立場を主張しえたのは三世紀から四世紀にかけての時期だと考えられます
開中?
「開中」の「ひらく」という字そのものにも異論が存在するのです。上・右の画像を参考にしてもらうと分かりやすいのですが、若し、この文字が「開」という漢字であるのなら、当然、部首は「門構え」でなければなりません。しかし、良く見てみると「門」ではなく「止めへん」の「歸」を略した字ではないのかとも思えます。つまり「阜」の上半分に「帚」を組み合わせた文字の様にも見えるということです。若し、このような見方が出来るのであれば、ここは「開中」ではなく「歸中」という文言になる
大正十一年に刊行された『大阪府全志』は、元々、河内の豪族であった息長氏に日本武尊(ヤマトタケル)の子・息長田別王が入り婿として入り、更には、その後、応神帝の息子・若沼毛二俣王が養子となって息長家を継いだ(『北村某の家記』)と大王家と息長一族との密接で複雑な関係を詳述していますが、応神即位を凡そ西暦400年前後とみなせば、ほぼ二世代後の大王・允恭に嫁いだ忍坂大中媛の兄弟・大郎子が443年当時、息長氏の拠点である「忍
坂宮」に居た可能性があります。また大郎子の諱「意富富等(オオホド)」が「袁本杼(ヲホド)」に対応した名前であるという見方にも一理はあるか
記紀および『一、上宮記』(「釈日本紀」)などの記述から品陀和気命(ホンダワケ、応神)と息長真若中比売の間に産まれた若野毛二俣王(ワカヌケフタマタ)は、
① 大郎子(一名、意富富等王)、② 忍坂大中姫(オシサカノオオナカツヒメ)、③ 田井之中比売、④ 田宮之中比売 、⑤ 藤原之琴節郎女、⑥ 沙禰王
嶋
顕宗は諱を弘計(をけ)といい、嶋稚子ともいった。その父は市辺押磐、母は葛城蟻臣の女である。顕宗が嶋の名をもつのは、その母の地に由来するかも知れない。
葛城が嶋すなわち斯摩なら、隅田八幡社画像鏡の斯麻念長なる人物もまた、葛城の一族であろう。そして神功紀に「その何姓の人かを知らず」という斯摩宿禰は必ず葛城宿禰に違いない。
神功紀にあり、実は時に太子であった景行に随行して戦い、その後更なる利権を求めて半島に渡った人物は、要するに葛城の豪族、あるいは豪族とならんとした氏族の突出した最初の一人であったと思う。 葛城の姓はおおくの氏族の姓と同じく、後世の付会なのであろう。
それがいつごろなのかは分からない。もと斯摩で、その後葛城と称し、或はこれを並行して呼称してきたのなら、その由来も明らかに思える。すなわち加羅城の意味であり、その始めも半島に交渉をもった斯摩宿禰に由来するのであろう。加羅はもと弁韓また弁羅といい、弁はカルと訓む。カルラであろう。カルラギのギは新羅をシラギと訓むのに等しい。
葛城の一族は知られている限り葛城襲津彦を始祖とする。それ以前には前後の関連なく、気長足姫の母という葛城高額媛と、古事記の開化記にいう葛城垂水宿禰、そしてもうひとり、武内宿禰の弟とする甘美内宿禰の母、葛城高千那毘売がある。書紀の襲津彦は古事記には葛城長江襲津彦とある。その女磐之媛は仁徳の后であり、履中・反正・允恭を生んだ。
古代その地は斯摩(嶋)と呼ばれてきた。神武が大和に入った時から、その本拠とした畝傍周辺から見て、東に磯城、西に斯摩の勢力があったのである。