五十瓊敷入彦命

五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)
垂仁天皇の第2皇子(第1皇子は垂仁天皇と狭穂姫の子、誉津別命(ほむつわけのみこと))。五十瓊敷命、印色入日子命(『古事記』)とも。

垂仁と後の皇后・日葉酢媛命との間に産まれた長子が五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)という名の皇子でした。彼は、次男の大足彦尊(オオタラシヒコ、景行帝)と共に、垂仁三十年正月、天皇から『汝等、各、情願しき物を言せ』と尋ねられた時『弓矢を得んと欲ふ』と答え、天皇から「弓矢」を賜ったとされる人物なのですが、その名前に「瓊(に=玉)」の字が含まれている事、血筋が正統な長子である事、天皇から「弓矢(軍事力)」を与えられている事、畿内において四か所もの池を築造している事(広大な領地の所有者)などを考え合わせると、最も皇太子(次の大王)の地位に近い皇子であったと思われ、垂仁紀三十九年冬十月条の、

  五十瓊敷命、茅渟の菟砥河上宮に居しまして、剱一千口を作る。因りて其の剱を名付けて、川上部と謂う。亦の名は裸伴(あかはだかとも)という。
  石上神宮に蔵む。是の後、五十瓊敷命に命せて、石上神宮の神宝を主らしむ。
  一に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥の河上に居します。鍛名は川上を召して、太刀一千口を作らしむ。この時に、楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、
  大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、太刀佩部合わせて十箇の品部をもて、五十瓊敷皇子に賜う。
  その一千口の太刀をば、忍坂邑に蔵む。しかして後に、忍坂より移して、石上神宮に蔵む。この時、神、乞して言はく『春日臣の族、名は市河をして治めしめよ』
  とのたまう。因りて市河に命せて治めしむ。これ、今の物部首が始祖なり。

とある

大阪府の南海本線淡輪駅のすぐそばに、宮内庁が垂仁天皇の皇子「五十瓊敷入彦命」の墓「宇度墓」として管理している淡輪ニサンザイ古墳があります。
盾形の周濠がめぐり、6基の陪塚を従えています。前方後円墳で墳丘の長さは、170mもあります。規模からいいますと、天皇級。

周濠の外側に、後円部を取り囲むように7基の円墳と方墳の陪冢が巡っており、これらの内の1基から刀剣が発見されたと伝えられるほか、埴輪の散布もみられるが、内部構造や副葬品はほとんど解っていない。この古墳は西陵古墳に続いて築造されたと考えられ、被葬者は紀伊を本貫地とする人物が葬られているのではないかと想定されている。

命を祀った神社
1.男乃宇刀神社 大阪府和泉市仏並町1740 彦五瀬命 神日本磐余彦尊 五十瓊敷入彦命
2.金神社  岐阜市金町5丁目3番地 
渟熨斗姫命(景行天皇第六皇女 一云う 五十瓊敷入彦命の妃
日葉酢姫命(垂仁天皇皇后 五十瓊敷入彦命の妃の母)
五十瓊敷入彦命
市隼雄命(五十瓊敷入彦命の御子)

3.伊奈波神社 岐阜県岐阜市伊奈波通1-1 五十瓊敷入彦命

武光誠氏は、「物語の起こりに関する言いつたえは、長い期間にわたって語りつがれることが多い」としたうえで、「五十瓊入彦が石上神宮の宝剣をつくった」話は、「きわめて古い時代につくられた可能性が高い」とされています。

雄略紀にある紀小弓の墓の記述には、妻の大海が、大伴室屋大連を通じて、わざわざ天皇に墓所とすべき地を請うて、はじめて墓を造ることが許されたとしています。

西陵古墳
この古墳を、雄略紀に見える「紀小弓宿禰」の墓とみる説がありました。
雄略九年三月条に、紀小弓は新羅征討将軍として朝鮮に派遣されましたが、病を得て陣中で没し、その後、田身輪(淡輪)邑に葬られたとあります。

築造は5世紀前半と見らる