阿自岐神社、阿知吉師、和邇吉師

阿直岐(あちき)は、記紀によれば、百済から日本に派遣されたとされる人物。阿自岐神社の祭神であり、子孫が始祖を祀ったとも考えられている、また彼は同時代の人物の阿知使主と同一人物だったのではないかとも言われている。

阿直岐は、阿直岐史の祖、とされますが、阿直岐という氏族は、見当たりません。

亦、百濟國主照古王、以牡馬壹疋・牝馬壹疋付阿知吉師以貢上。〔此阿知吉師者 阿直史等之祖〕

現代語訳: また、百済国王の照国王は、牡馬一匹、雌馬一匹を阿知吉師につけて、献上した。

— 『古事記』中巻, 応神天皇

『古事記』では照古王(近肖古王)から、雄馬雌馬各一匹と共に献上されたという。『日本書紀』では、良馬二匹を貢ぐための使者として遣わさたという。

十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直岐、貢良馬二匹。即養於輕阪上廄。因以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰廄阪也。阿直岐亦能讀經典。及太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰、如勝汝博士亦有耶。對曰、有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者阿直岐史之始祖也。

十五年(404年)秋八月、壬戌朔の丁卯(6日)に、百済王は阿直岐を遣わして、良馬二匹を貢いだ。そこで、軽(現在の奈良県橿原市大軽町の辺り)の坂の上の厩で飼わせた。そうして阿直岐に任せて飼わせた。それゆえ、その馬を飼った所を名付けて厩坂という。阿直岐はまた、経典をよく読んだ。それで、太子・菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)は、阿直岐を師とされた。ここに、[応神]天皇は阿直岐に問うて言われた。「もしや、お前に勝る学者は他にいるのか」。答えて言った。「王仁という人がいます。すぐれた人です」。そこで上毛野君祖(かみつけのきみがおや、)荒田別(あらたわけ)、巫別(かむなぎわけ)を百済に遣わせ、王仁を召しださせた。その阿直岐は、阿直岐史(あちきのふびと)の始祖である。
— 『日本書紀』 巻第十(応神紀)

滋賀県豊郷町 阿自岐神社
豊郷町安食西663

祭 神:味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)・道主貴神(みちぬしむちのかみ)
配祭神:天児屋根命 保食神 須佐之男命 天照大神 應神天皇 宇迦之御魂神 大巳貴命 猿田彦神 植山姫神

庭園は池泉多島式と呼ばれる洋式で、日本最古の庭園といわれる。
神社の味耜高彦根神は百済からの渡来人阿自岐氏とされている。
社殿は信長の兵火で焼かれたが江戸時代に再興され、神明造りの本殿は寛文4年(1664)の建築といわれ、県の重要文化財である。
拝殿・本殿の他に、幣殿・中門・神輿庫・手水舎・社務所がある。
神域は約5700坪でほぼ全域が庭園となっており、出島・中の島を浮かべる珍しい様式で、県の名勝に指定されている。

和邇吉師

『古事記』中巻・応神天皇二十年己酉
天皇はまた百済国に「もし賢人がいるのであれば、献上せよ」と仰せになった。それで、その命を受けて〔百済が〕献上した人の名は和邇吉師(わにきし)という。『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻を、この人に附けて献上した。〔この和邇吉師が、文首(ふみのおびと)の始祖である〕

和邇吉師によって『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。『論語』は註解書を含めて10巻と考えればおかしくはないが、『千字文』は和邇吉師の生存時はまだ編集されておらず、この記述から和邇吉師の実在には疑問符がつけられることも少なくない。
帰化した複数の帰化人学者が、『古事記』編纂の際にひとりの存在にまとめられたのではないかとされる説もある。

『古事記』では、応神天皇の治世に百済王照古王が馬1つがいと『論語』『千字文』を応神天皇に献上し、阿知吉師(あちきし)と和邇吉師(わにきし)を使者として日本に遣わした、とされている。
この照古王のことを『日本書紀』では肖古王としていて、年代や系譜関係からみて近肖古王に比定されている

『三国史記』百済本紀によると、それまで百済に文字はなかったが、近肖古王の時代に高興という人物がやってきて漢字を伝えたので、この時より百済に初めて「書き記すということ」が始まったという。百済は初めて伝来したばかりの『論語』『千字文』をほぼ即時に日本に献上したことになる。
第5代が肖古王である。第6代仇首王と区別して第14代近仇首王