大井神社、意富比神社、大炊

意富比神社、船橋大神宮

船橋大神宮
千葉県船橋市宮本(JR総武線の船橋駅の東南方近隣で、京成電鉄の大神宮下駅の北東隣)にある古社で、旧社格は県社であり、『延喜式』には下総国葛餝郡の意富比神社の名で掲載される。『三代実録』には、貞観年間に神階が従五位下から従四位下まで昇位している記事がある。
祭神は、天照皇大御神を主祭神とし、万幡豊秋津姫命・天手力雄命が配祀される。

この宮司家が当地の千葉氏系の豪族富氏であり、現在でも千葉姓に改名し、同族が宮司をつとめている。
この系図が先にあげた「下総船橋神家冨氏系図  伴冨宿禰」ということになる。
「同神宮には中世の文書が多数保持されていたが、明治維新時における船橋の戦いで社殿と共に焼失してしまい、現存しているのは……数点のみである」という。

この富氏は、「千葉氏系」とは言っても、頼朝創業に大きな力となった千葉介常胤を出して桓武平氏を称した千葉氏ではなかった。
古代の千葉国造の流れということである。千葉国造は「国造本紀」には記載がないが、下記六国史や真年・憲信関係の系図には見えている。

その系図には初代国造は武多乃直で、応神朝に千葉国造に定められたとある。房総一帯に同族が多く分布する海上国造の祖、五十狭茅宿祢(神功皇后紀に見える)の子ないし孫と位置づけられる。武多乃直の後裔は大私部直・大伴直となったと見える。

大私部直の流れでは、延暦廿四年十月紀に外従五位下の叙位が見える「千葉国造大私部直善人」がおり、大同元年正月には上総大掾に任じている(ともに『日本後紀』)。その子孫から武蔵の検非違使となって大里郡に住んだ幹成が出て、子孫は武蔵七党にも数える私市党(私党)となった。源平争乱期以降に活動が見える私市、熊谷、河原、久下などの中小武家集団であり、系図は『百家系図稿』などに見える。

大伴直のほうの流れが伴富宿祢で、後の富氏になった。『日本後紀』弘仁二年三月六日条には、「安房国人正六位下大伴直勝麻呂に姓を大伴登美宿祢と賜ふ」とあり、この記事の「安房」が正確な表記ならば、下総のと同族であったのであろう(「登美」の地名は房総には見当たらないが、下総国印幡郡言美郷が登美郷の誤記という説がある)。武多乃直の兄の長止古直の系統たる上海上国造の流れにも、「大伴登美宿祢」が系図にあげられる。

ともあれ、五十狭茅宿祢の後裔の二系統に「大伴」を名乗る氏が出たことに留意される。

意富比神社の由来について社伝では、倭建命東征のおりに創祀で、景行天皇東国へ御巡幸の折には、旱天時の慈雨を倭建命が祈願して成果を得たという事績を御追憾なされて「意富比神社」の御社号を賜ったといわれる。
古代の大伴部には、軍事奉仕の靱負大伴部(大伴連など)と供膳奉仕の膳大伴部とがあって、東国に大伴部が多いのは、『高橋氏文』にも見える安房での景行天皇に対する服属儀礼の一つ、供膳奉仕儀礼に由来する。海上国造の同族の安房国造の初代大滝直にも、膳大伴直を負うと系図に見える。あるいは、上記の勝麻呂は、大滝直の後裔にあたるものか。

武蔵国造一族では膳大伴部となって奉仕した八背直が「大部直」(オホトモの直)の祖となり(「丈部」と混同するが、職掌が別物で明らかに別氏であり、誤り)、同様な知々夫国造の一族にも大伴部があった。

沼津の高屋山古墳の被葬者
最近、沼津で高尾山古墳が発掘された。
この古墳被葬者こそ『高橋氏文』に記載の物部氏一族の意富売布であり(駿河国造、遠江国造の祖でもある)、その子の豊日乃連(親子で同氏文に登場して、景行巡狩の随行が記される)の子孫には、常陸の久自国造(久慈郡が領域)とか膳大伴部となって奉仕した大部造、大部首(『姓氏録』未定雑姓和泉)がある(中田憲信編『各家系譜』第六冊などに系図が所収)。
大部造の流れからは、支族が武蔵北部に分かれて、武蔵七党の有道宿祢姓児玉党が出た。支流は武蔵から安芸国豊田郡、次いで防長に遷住して毛利家臣になっており、明治に華族に列した児玉源太郎家など二家も、その末流であって、宮内省に先祖からの系譜を提出した。

こうした経緯を鑑みると、上記「意富比神社」の「意富比(オホヒ)」の原義は、「大炊」に違いない。「大炊の意で御饌都神、御食津神(食物神)とする説」(『下総荘園考』や菱沼勇氏の『房総の古社』)が妥当である。
常陸や房総にも分布が見える「意富氏(多氏)の氏神とする説」(大場磐雄説)は誤りである。

東国諸国造のうち、武蔵国造や海上国造などは天孫族の出雲国造の分流という系譜を伝えており、正確には出雲国造の同族、物部氏の初期分流であった。天孫族の遠祖神は太陽神でもあり、日神祭祀があったから、「大日神」でも間違いではないかもしれない。意富比神社は永禄十年(1567)の禁制に船橋の天照大神宮と見え、『類聚三代格』巻十六所載の承和二年(835)六月廿九日の太政官符には「下総の太日河に渡船を増置」と見える事情もある。渡船は浮船であり、これがすなわち船橋で、地名の起源になったとみられると菱沼氏は指摘するから(渡船が船橋に代わったともいう)、太日と船橋のつながりがわかる。『東鑑』文治二年(1186)三月条に「船橋御厨」の名が見え、これは「夏見(夏目)御厨」ともいわれたが、「夏見」は「菜摘」の意といわれるのも、「大炊」につながる。