遼河文明(りょうがぶんめい)とは、満州南部、中国東北の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。紀元前6200年ごろから存在したと考えられている。
1908年に考古学者の鳥居龍蔵が遼河文明の一つである紅山文化を発見したことから始まる。
ここはもともとモンゴル語でウラーン・ハダ(Ulaγan qada)と呼ばれ、「紅い山」とい う意味だ。事実、市街地の東北部には紅い花崗岩の岩肌が露出している山があり、その山
が地名の由来となっている。
18 世紀頃になると、この付近に移民してきた漢人を管理するために県が設置され、その
県は「赤峰県」と命名された。「赤峰」とは「ウラーン・ハダ」の漢語訳だ。さらに漢人
は、地名の由来となった山に対しては「紅山」と名付け、市街地と山を呼び分けた。
1935 年に京都帝国大学の考古学者の浜田耕作や水野清一らによって初
の本格的調査が行なわれた。この調査結果は、濱田耕作・水野清一『赤峰紅山後 満洲国熱河省赤峰紅山後先史遺蹟』(東亜考古学学会、1938 年)
としてまとめられている。彼らは「紅山後遺跡」が二つの異なる時代の遺
跡であることを明らかにし、新石器時代のものを「赤峰第一文化」、青銅器時代のものを「赤峰第二文化」と名付けた。のちの中国人考古学者尹達によって「紅山文化」と命名されるのは、これらのうち前者の「赤峰第一
文化」の方である。
彼らは「赤峰第一次文化」の担い手たちは、農耕と牧畜を行なういわゆ
る「半農半牧」民族であったと理解していた。農耕用石器の出土から「穀
物の栽培者であった」と指摘しつつも、一方で「牛・馬・羊・豕の骨」のヤジリの出土から牧畜にも従事していた、ともいう。さらに石の 鏃 も発見から、狩猟民としての性質についても論じている。
ただし、この調査に同行した理学系研究者たちが「紅山後遺跡」出土の人骨を分析し「現代の人種では北中國人、満洲撫順中國人(殆んど全部山
東省出身と推定される)に強い類似を示してゐる」という意見を提起していた。
「紅山文化」遺跡が多数確認されている内モンゴル中南部は、内モンゴル自治区分割によって 1969 年 7 月に遼寧省へ組み込まれ、内モンゴル自治区の所属ではなくなる。つまり遼寧省昭烏達盟(現在の赤峰市)となり、省という行政単位に属することになる。言い換えれば、「紅山文化」地域は完全に「モンゴル」という名の行政単位から切り離され、南の「漢人的行政単位」 に飲み込まれてしまったのだ。
紅山文化の遺跡からは風水の原型と見られるものも出土している。 興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されている。また最古の遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)や櫛目文土器などが出土している。
内モンゴル自治区東部の渾善達克砂丘地帯の堆積物の検討によれば、従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、のちの中国文化へと発達した可能性が指摘されている。
遼河地域における紀元前6500年から紀元前2700年にかけての遺跡の古人骨のY染色体ハプログループ分析では、ウラル系諸族やヤクート人で高頻度に観察されるハプログループNが約70%の高頻度で認められた。遼河文明を担った集団はウラル語族やヤクート族と近縁であった可能性も考えられる。
- 紅山文化(こうさんぶんか) 紀元前4700年頃-紀元前2900年頃
- 夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか) 紀元前2000年頃-紀元前1500年頃
- 夏家店上層文化(かかてんじょうそうぶんか) 紀元前1100年頃-紀元前500年頃
紅山文化の墳墓からは、ヒスイなどの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。ブタ、トラ、鳥のほか、龍を刻んだものも見つかっている。工芸の水準は高く、紅山文化の大きな特徴となっている。「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」と呼ばれる紅山文化の玉龍(龍を彫った玉)の造形は単純であり、龍が円形になっているものが多いが、後期になると盤龍・紋龍などの区別がはっきりとしてくる。考古学者の中には、後に中原で始まった龍への崇拝は、紅山文化にその源を発するという見方もある
牛河梁遺跡など、紅山文化の祭祀遺跡にみられる円形や方形は、天円地方の宇宙観がすでに存在していたことを示唆している。
中国最古の玉器:C14年代測定
長江流域の河姆渡遺跡のもので紀元前 4800 年前後といわれてきたが、遼寧省阜新市から北東へ約五十kmの沙垃郷査海遺跡から紀 元前 5900 年頃のものが発見され、「紅山文化」は一躍中国史上最古の玉器を有する考古 学的発見となる。
1971 年:遼寧省昭烏達盟(現内モンゴル自治区赤峰市)翁牛特旗賽沁搭拉村における龍形玉器の発見、1975 年に孫・郭によって再発見
1973 年:遼寧省阜新モンゴル族自治県の住民が石棺を見つけ、数多くの玉器が出土
1979 年:遼寧省朝陽市の「三官甸子城子山遺跡」の発見、多数の玉器が出土し、「紅山文化」に玉器文化が存在することが認識されるようになる
蘇秉琦は 1960 年代から東方や南方の先史文化の中には中原に影響を与えたものがあったと説き、一元論に異議を唱えていた人物である。 文化大革命後の 1981 年殷瑋 璋 と連名で「区系類型(六大考古文化区系)」概念を公にし、「中原からの一元的拡大論の放棄」を主張する。これとともに蘇秉琦は「紅山文化」についても本格
的に論じるようになる
遼寧省西部の興隆窪(こうりゅうわ)文化
遺跡の一つ、査海遺跡(7,000年前)の墓地から、全く予想外のことだが、耳に玉ケツを着けた遺体が発見された。それだけではなく、玉匕(ぎょくひ)や玉斧などの玉製品が発見された。
長江流域における最古の玉は、6,500年前 まで遡るのがせいぜいであり、7,000年前の査海遺跡の玉は、正しく中国最古の玉であることが明確となった。
日本の玉のケツ状耳飾り
この査海遺跡の玉ケツ(ケツ状耳飾り)や玉匕とよく似ている遺物が、福井県金津町の縄文早期末~前期(6,000年前)の桑野遺跡から出土していた。
桑野遺跡だけではなく、類似したケツ状耳飾は、前節の鳥浜貝塚をはじめ、新潟県清水上遺跡、京都府浦入遺跡など日本海側の遺跡 を中心に全国に分布している。
このことから
「列島の縄文人と大陸の中国東北部の人々が日本海を挟んで、黒曜石などを通じて旧石器時代から続けてきた日本海圏の交流を、縄文時代に入っても途切れることなく続けていた」
ことが判る。