三内丸山遺跡

八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。

縄文の気候変動

青森県で人類の生活痕跡が発見されているのは、約2万年前の地層からである。この頃は氷河期で、日本全体で気温は現在よりも7~10度低く、水位は百数十メートル低かったと考えられている。青森県も北海道と陸続きで、さらに大陸とも陸続きであった。旧石器時代の人類は、大型の動物を追いながら大陸から日本に、そして青森県に渡来し、氷河期の終わりとともにこの地に住み着いたと考えられる。気候の温暖化は、今から1万2千年前位からはじまり現在も続いている。現在は、次の氷河期との間に訪れている間氷期(かんぴょうき)なのである。第4間氷期とよばれている。 この1万2千年前位からを、時代区分では縄文時代と呼んでいる。温暖化はこの頃から徐々に進み、約6千年前位にそのピークに達したと考えられている。溶け出した氷河の氷は水位を押し上げ、日本列島全体で今より5m程水位が高く、海が各地で内陸部まで浸水していた。この三内丸山遺跡も、この近くまで海が入り込んでいたと言われている。

三内丸山遺跡は今から約5500年前位か人々が生活を始め、約1500年の間続いた一大縄文集落の跡である

C14による年代測定


住居

遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。

大型竪穴式住居跡

三内丸山では幅10メートル以上の大型竪穴式住居跡がいくつも検出されているが、その中でも最大なものは長さ32メートル、幅10メートルのもので、これが復元されている。内部の見学も可能である。

  

板状土偶

他の遺跡に比べて土偶の出土が多く、板のように薄く造られていて板状土偶と呼ばれる。次の縄文後期や晩期の立体的に体の各部を表現した土偶とは大きく異なっている

  

栽培植物

多数の堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。栗、豆、ゴボウなどを栽培していたらしい。縄文時代といっても、狩猟一辺倒ではなかったわけだ。

交易品

交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土している

翡翠は糸魚川でしか産出されないので、翡翠の産出は上越地域との交易が証明される。また平底の円筒土器やけつ状耳飾りなどは遼河文明(興隆窪文化)との類似が指摘されている。

漆器

赤色の椀

  

5000年以上前にすでに漆の技術があったのである

狩猟

出土した動物の骨の7割弱がノウサギとムササビの骨であり、縄文人がノウサギやムササビの肉を食料としていたと推察できる。

漁労:鯛の骨

 

 縄文時代人の生活は、我々が今までに想像していたものより遙かに豊かな生活だった可能性もある。写真は体長1mの
マダイの骨である。三内丸山遺跡は海岸線に隣接しており、釣り針やモリ等の骨器の他に1mのオールも出土している事か
ら、丸木舟で沖へ出て大型の魚を捕獲していたと考えられる。タイの他にも、マグロ、ブリ、ヒラメ、メバル等の骨が出土
している。

黒曜石

 北海道の白滝遺跡群からは、赤石山から採種した黒曜石を原料とした様々な石器が大量に発見され、この一帯が石器の製造場だったと思われる。白滝産黒曜石は、南は三内丸山遺跡を含む北東北、北はサハリンやシベリアの遺跡からも発見され、本州・大陸と交易が行われていたことを物語っている。


三内丸山遺跡から出土した土偶は、1,600点にのぼり日本最多である。

ちなみに第2位は、山梨県の釈迦堂遺跡だ。何らかの祭祀が行われていたのだろう。

土器

三内丸山遺跡出土の土器は地味だが、口縁上に波形が施され、胴部の文様も力強い。