跡部、阿刀氏、物部氏、穂積氏、日下部君

水陸交通の要衝に位置した。河内国渋川郡五郷の一に跡部郷(訓は「阿止倍」)があり、『延喜式』神名帳に載る渋川郡跡部神社は、この郷に祀られていた。

延喜式神名帳に、『河内国渋川郡 跡部神社』とある式内社。
主祭神は阿刀連の祖神・阿刀連大神。
祭神 天照皇大神・阿刀連大神・八王子大神

「この地、古の跡部郷にして、物部守屋の阿都の第は此地なるべし。されば物部氏と同祖なる阿都連がその祖神を祀れるならん」--大阪府史蹟名勝天然記念物

河内の阿都・澁河あるいは当地南方の太子堂・木本町といった八尾市西南部一帯は、物部氏の本拠地、特に守屋の館があった地といわれ、物部氏にかかわる神社(跡部神社・澁川神社・樟本神社)・寺院(大聖勝軍寺)・史蹟(守屋の墓・稲城趾)などが集まっていて、当社もそのひとつである

渋川神社
大阪府八尾市植松町3丁目
祭神--天忍穂耳尊・饒速日命
併祭神--国狭槌尊・日高大神・菅原道真
ニギハヤヒは天孫とはいうものの皇統譜には見えず、アメノオシホミミとのつながりはない(書紀・一書8にいう、ホノニニギの兄・天照国照彦火明命をニギハヤヒに当てる説もある)。
しかし、物部氏系の史書・先代旧事本紀(天神本紀)では、アメノオシホミミの御子(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)とされることから、これをうけて、両神ともに物部氏の遠祖として祀ったのであろう。

書紀・用明天皇2年(586)条に、
「守屋が、別業のある河内の阿都(阿刀・当社の西約1.8km・現跡部本町・亀井町付近)にしりぞいて人を集めた」
とある阿刀(当地の西約1km強の辺り)がこれに当たるともいう。

大阪府誌(1903)など明治中期以降の史料は、祭神・アメノオシホミミ・ニギハヤヒとする。
併祭神3座は、いずれも明治5年(1872)4月に合祀されたもの。

称徳天皇が重用した弓削道鏡の本拠地(現弓削町付近-由義は弓削の佳字)に設けた宮で、西京とも呼ばれ何度か行幸されているが、天皇の逝去と道鏡の失脚により廃されたという。当社の東約1.6kmにある由義神社(八尾木北5丁目)がその跡とされる。

石切劔箭神社
本社 大阪府東大阪市東石切1丁目
上之社 同   上石切1丁目
祭神 饒速日尊・可美真手命
ニギハヤヒ命が、トミピコ(ナガスネヒコ)の妹・トミヤヒメを娶って生んだ子が宇麻志麻遅命(ウマシマジ)で、ウマシマジは物部連・穂積臣らの祖先である

先代旧事本紀
  アマテラスは御子・アメノオシホミミ尊の御子・天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコホアカリクシタマニギハヤヒのミコト)に、天孫の爾である瑞宝を授けて葦原中国に天降らせた。ニギハヤヒは、天磐船に乗って河内国の河上の哮峰(イカルガノミネ)に天降り、さらに大和国の鳥見(登美・トミ)の白山に遷った。尊と鳥見の豪族・ナガスネヒコの妹・ミカシキヤヒメとの間に御子・ウマシマジ命(又の名:ウマシマデ、ウマシマミ)が生まれたが、尊自身はその誕生前に死んでしまわれた。御子・ウマシマジは、神武天皇に抵抗する舅・ナガスネヒコに従わず、これを殺し、衆を率いて帰順した。天皇は、その忠誠を喜び、神剣・フツノミタマの剣を与えられた。
ウマシマジは、父ニギハヤヒから受け継いだ天爾瑞宝十種を天皇に奉り、天物部を率いて逆賊を斬り従え海内を平定した。

記紀と旧事本紀とでは次の点が異なる。
ニギハヤヒの出自について、記紀では天神とはするものの皇統譜には出てこないが、旧事本紀ではアマテラス直系の皇孫とする(記紀にいう皇孫ニニギ尊は出てこない)。
天孫降臨の主体を、記紀にいうニニギ尊ではなく、旧事本紀ではニギハヤヒとする。
神武に抵抗するナガスネヒコを討ったのは、書紀ではニギハヤヒとするが、旧事本紀では御子・ウマシマジとする。
物部氏の祖を、書紀はニギハヤヒとするが、古事記・旧事本紀ではウマシマジとする。

式内社調査報告(1979)によれば、河内国式神私考(刊行時期不明)には、
 「伊耶那岐命伊都之尾羽根之命(古事記では伊都之尾羽張・イツノオハバリ)・迦具土神磐裂根裂之神」
とあるという。ここにいうイツノオハバリとは、イザナギがイザナミ逝去の原因となったカグツチを斬った剣(十拳剱)の別名で、イワサク・ネサクとは斬られたカグツチの血から生まれた神をいう。当社社名の“剣”に因む神名であろうが、イザナギあるいはカグツチと当社との関係はみえず、祭神をイツノオハバリなどとするのは疑問。。

当社の神職は、代々物部氏の支族・穂積氏の後裔である木積氏が務めてきたという(今の神職は不明)。
穂積氏は、古事記・孝元天皇条に、
 「天皇 穂積臣等の祖内色許男命(ウツシコヲ)の妹、内色許売命(ウツシコメ)を娶して云々」
とあるのが初見(孝元の死後、開化に再嫁して崇神を生んだという)で、新撰姓氏禄・左京神別条に
 「天孫 穂積朝臣 石上同祖 神饒速日命五世孫伊香色雄命之後也」
 「天孫 穂積臣 伊香色雄男大水口宿禰之後也」
とある物部氏系の有力支族で(但し、河内国にはみえない)。

当社は、現八尾市(旧若江郡・渋川郡)を中心として分布する物部氏の神社のひとつ。

劔箭の“劔”は、遠祖・ウマシマテが神武から賜ったとされる神剣・フツノミタマに、“箭”はニギハヤヒが神武に示した天つ神の子の証・天羽羽矢(アマノハハヤ・蛇の呪力を負った矢)に因むものとも考えられる。

大水口宿禰

『日本書紀』では、大水口宿禰について穂積臣遠祖としている。
また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
左京神別 天神 穂積臣 – 伊香賀色雄男の大水口宿禰の後。
右京神別 天神 采女朝臣 – 石上朝臣同祖。神饒速日命六世孫の大水口宿禰の後。

『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条によると、大水口宿禰は倭迹速神浅茅原目妙姫(倭迹迹日百襲姫命)・伊勢麻績君(いせのおみのきみ)とともに同じ夢を見て、大物主神(のちの大神神社祭神)と倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられた旨を天皇に奏上した。

また、同書垂仁天皇25年3月条では「一云」の中で、倭大神が大水口宿禰に神憑り、倭大神を祀ることを告げたことが記されている。

末羅国造 – 志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に穂積臣同祖の大水口足尼の孫の矢田稲吉を国造に定める。のちの肥前国松浦郡周辺にあたる
矢田稲吉
肥前風土記に出る同じ唐津地方の土蜘妹を討滅した
大屋田子(風土記では日下部君らの祖とらの祖とある)
と同一人物ではないか。
とすれば、築紫の日下部君は、物部の本宗家の九州分流である。

肥前国風土記

鏡の渡 郡役所の北にある。

昔、檜隈の盧入野の宮に天の下を治められた武少広国押楯(宣化天皇)のみ世に、大伴の狭手彦連を派遣して、任那の国を鎮めさせ、かたがた百済の国を救援させ給うた。狭手彦は命を奉じてこの村まで来て、篠原の村の弟日姫子を妻問いして結婚した《日下部君らの祖である》。

日下部氏は大伴氏を統率者とする朝廷の軍事団である靭負部に属するものといわれるが、靭負部は大伴氏だけが終始統率者でなかった
その時代と系譜には問題が存するが、稲吉を稲置と同一と見た場合には重要な問題となる。
稲置は県主に比べて極端に少なく、畿内・東海の両地方に出雲・讃岐を加えて九か国に十四例しかなく、九州には全くないといわれてきた。稲置は屯倉に関する税長のような職名の性格が強いものである。