卑弥呼の後継の壹與に比定する人もいる
世田姫は與止姫、淀姫と同一人物である
九州王朝始源の人物であること。
甕依姫の説話と類似。
海神を従えた人物である
與止日女神社
式内社、肥前国一宮で、旧社格は県社。「淀姫神社」とも書き、別称として「河上神社」、通称として「淀姫さん」とも呼ばれている。
通説による神武系図によれば、ニニギの子であるホオリ=山幸彦の妃がトヨタマヒメであり、その子がウガヤになるのだが、豊玉姫は子育を放棄し竜宮に帰ってしまう。その代わりに送られてきたのが妹のタマヨリヒメで、その育ての母とウガヤが結婚し生まれたのがカムヤマトイワレヒコ=神武天皇である。
従って、神武天皇から見れば豊玉姫は祖母にあたり(大分熊本県境に聳える祖母山の名はその裾野にその祖母を奉祭する大神一族がいたことから付された)、玉依姫は乳母と言えないこともないのである。
淀姫の変遷
740年 世田姫(ヨタヒメ) 『肥前国風土記』
901年 豫等比咩神(ヨトヒメ) 『三代実録』
927年 與止日女(ヨトヒメ) 『延喜式神名帳』
961年 豊玉姫(トヨタマヒメ) 『與杼神社由緒』
1193年 「当宮(與止日女神社)は一国無雙の霊神、三韓征伐の尊社なり」 『河上神社文書』
1503年 「豊姫一名淀姫は八幡宗廟(応神天皇)の叔母、神功皇后の妹也」 『神名帳頭註』
1547年 瀬織津姫(川の神) 『川上神社由緒』
1609年 與止日女大明神は神功皇后の御妹 『河上由緒差出諸』
明治期 淀姫命 (ヨドヒメ)『特撰神名牒』(延喜式神名帳の注釈書)
與止比女神(ヨドヒメ) 『明治神社誌料』
京都市伏見区淀の「與杼神社」の由緒
この神社は肥前一ノ宮與止日女神社からの勧請ですが、「応和年間(961年~963年)に肥前国佐賀郡河上村に鎮座の與止日女神社より、淀大明神として勧請したのに始まる(神社自体はそれ以前に鎮座しており、主祭神がいたと思われる)」とあり、祭神は豊玉姫命、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)です。
平安後期の頃の肥前一宮與止日女神社の祭神は豊玉姫と認識されていたということになります
「高良玉垂宮神秘書」では、神功皇后の妹が淀姫神社の祭神、淀姫=豊(ユタ)姫としている
佐賀郡大和町大字川上一番地
御祭神 與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられている。
『肥前国風土記』逸文(神名帳頭注)には、「與止姫神」のまたの名を「豊姫」「淀姫」というとある。また、同書佐嘉郡条には「世田姫」の説話が載り、同一神と見られている。
由緒 欽明天皇二十五年(五六四)創祀され、延喜式内社で、のち肥前国一の宮と崇められ、弘長元年(一二六一)正一位を授けられた。朝廷の御崇敬あり、また、鎌倉幕府をはじめ武門、領主、藩主の尊信を受けた。
與止日女命を祀る主要な神社に、佐賀市大和町「與止日女神社」、同与賀町の「与賀神社」、伊万里市大川町の「淀姫神社」、長崎県松浦市志佐町の「淀姫神社」、九州以外では京都市伏見区淀の「與杼(よど)神社」などがあります。
天世手命 あめのよてのみこと
別名 天世乎命:あめのせおのみこと
久我直らの祖
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
善通寺市の大麻神社にも祀られる。
主祭神は天太玉命
天太玉命は、天孫・瓊瓊杵尊と共に降臨した32神の一で、五伴緒神の一柱でもある。よって、当社には、瓊瓊杵尊と、その他の31柱の神々が配祀されている
境内には、「弟橘媛命を祀る」と書かれた境内社・白玖祖霊社がある。白玖氏は、代々当社の神主を勤める家系で、その祖、穂積忍山彦根は、景行天皇の御代、その皇子・神櫛皇子命の勅により、当社を祭祀したという。
山城(乙訓郡)の式内社/久何神社
久我神社
京都市伏見区久我森の宮町
別雷神・建角身命・玉依比売命
社名・久何は“クカ”又は“コガ”と訓む。
延喜式には“久何”とあるが、今、当社では“久我”と表記し、“コガ”と訓んでいる。
※由緒
社頭に掲げる由緒によれば、
「当社は8世紀末、平安遷都に先立ち、桓武天皇が長岡に遷都された頃(784・延歴3年)、王城の艮角(ウシトラノスミ・北東-鬼門の方角)の守護神として御鎮座になったものと伝えられる由緒深い延喜式内社である」(秘伝神書抄-年代不詳-によるものらしいが確認不能)とある。
異説として
北山城一帯に盤踞していた久我氏が、その祖神・輿我萬代継神(コガ ヨロヅヨツグノカミ)を祀ったのが当社の創祀で、久我氏衰頽後、賀茂氏がこれに代わってその始祖を祀ったのではないか。
山城国風土記にいう賀茂氏が、大和から木津川を経て、この久我国(葛野・乙訓地方の古称)に居をすえ祖神を祀ったのが当社で、更に賀茂川を北上して今の賀茂の地に鎮まった。
がある。
輿我萬代継神とは、三代実録(901)に
貞観8年(866)8月14日丙戌山城国正六位上輿我萬代継神に従五位下を授く
貞観16年(874)潤4月7日乙丑山城国従五位下輿我万代継神に従五位上を授く
とあり、山城国に坐したことは確認できるが、その出自・神格など不明。
ニギハヤヒの降臨に供奉して天降った神々の中に
「天神立命(アメノカムタチ)--山代久我直等の祖 或云、天背男命」
「天世平命(アメノヨムケ)--久我直等の祖」
高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命-剣根命-夜麻都俾命-久多美命
神代本紀「天神立命、山城久我直等祖」とあるが、神立命は摂津雑姓に「葛城直、天神立命之後者、不見」とあり、河内神別に「役直、高御魂命孫天神(○ 一作押)立命後也」とあって、葛城国造の系である。(高群逸枝「母系制の研究」)
天背男は神代紀に見える反逆者香香背男であろう。
倭文神建 葉槌命を遣して征服したとあるが、右は「葛木倭文天羽雷命神」(三代実録) である。葛城にいます神で、同地に式社もある。思うに香香背男は此神のため に葛城より駆逐されれ、母系の族を頼って山城愛宕の地に移住したのであろう。 蓋し、葛城直家の元系母族が出雲神系であり、香香背男 の叛心は、母族の血に依存するものであろう。(高群逸枝「母系制の研究」)
與杼神社(淀姫さん)
京都市伏見区淀本町167
京阪淀駅
祭神
高皇産靈神、豐玉姫命、速秋津姫神
由緒
山城国乙訓郡の式内社。
元は桂川の対岸の水垂町に鎮座していたが、淀川改宗工事に際して淀城跡北の現在地に移転。
淀姫社、水垂社、大荒木神社とも呼ばれていた。
『三代実録』に、貞観元年(859)に、正六位上与度神を従五位下の叙したとある。
『寺院神社大事典山城編』には、旧鎮座地は『和名抄』の乙訓郡榎本郷の地であったと云われ、従って豪族榎本連の居住地と思われ、一族の祖神として祀られたとの説があるとしている。『姓氏録』によれば、左京神別に榎本連があり、道臣命十世孫佐弖彦之後也とある。大伴氏の系統だと高皇産靈神より発していることになる。
社伝によれば、応和年中(961~964)千観内供が肥前国佐賀郡の河上神を勧請したことに始まるとされている。祭神の一の豊玉姫の説明であろう。
『平成祭礼データ』
與杼神社 由緒・沿革
社伝によると当社の創始は、応和年中(961から963)に僧千観内供が佐賀県(肥前国)佐賀郡河上神(与度日女神)を勧請したのに由来するといわれている。しかし実際にはそれより古く、「三代実録」に貞観元年(859)従五位下の神位を賜ったことがみえ、また延喜の制には小社となっていることから千観が勧請する以前よりあったものと考えられる。旧地は乙訓郡淀村大荒木ノ森、俗に西淀といわれたところで、当社はこの地に古くから住んでいた大与等何々などという住民の祖神を祀ったものと思われる。
肥前国風土記
佐嘉の郡
(前略)郡の西に川あり。名を佐嘉川といふ。年魚あり。其の源は郡の北の山より出て、南に流れて海に入る。此の川上に荒ぶる神ありて、往来の人、半ばを生かし、半ばを殺しき。ここに、縣主等の祖大荒田占問ひき。時に、土蜘蛛、大山田女・狭山田女といふものあり。二の女子云ひしく、「下田の村の土を取りて、人形・馬形を作りて、此の神を祭祀らば、必ず應和ぎなむ」といひき。大荒田、即ち其の辭の随に、此の神を祭るに、神、此の祭りをうけて、逐に應和ぎき。ここに、大荒田いひしく「此の婦は、如是、實に賢女(さかしめ)なり。故、賢女を以ちて、國の名と為むと欲ふ」といひき。因りて賢女の郡といひき。今、佐嘉の郡と謂ふは、訛れるなり。又、此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。海の神・・・鰐魚を謂ふ・・・年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従う。或は、人、其の魚を畏めば殃なく、或は、人、捕り食へば死ぬることもあり。凡て、此の魚等、二三日住まり、還りて海に入る。(『風土記』日本古典文学大系2より)
干珠満珠とは
『八幡愚童訓』『河上文書』には干珠は白珠、満珠を青珠と記している。
『魏志倭人伝』には倭国の産物として「真珠」「青玉」をあげ、次のような記事をのせている。
壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等を送りて還らしむ。因りて臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す
上無津呂、下無津呂に豊玉姫、玉依姫が祀られ、淀姫神社と乳母神社がある
神武天皇の直系の一族か?
淀姫の古代の読みである豊(ユタ)姫(百嶋神代系図では玉姫とも記されている)が、豊玉姫、玉依姫と理解された、もしくは、淀姫神社の祭神が入れ替えられたと考えられる。それを行なったのは「佐賀県神社誌要」の上無津呂の淀姫神社にも顔を出す神代(クマシロ)勝利の一族ではないだろうか?
肥前の名族神代氏は、後には鍋島の同族とまでなり維新まで生き延びるが、戦国期は肥前山内(サンナイ)を拠点に龍造寺一族と覇を競った戦国武将であり、川上の淀姫神社(の庇護)を背にして一大決戦を行ったが、裏切りがあり敗北し無念にも上無津呂まで落ち延びたが、在地庄屋の嘉村一族に匿われている。
神代氏にとって上無津呂の淀姫神社は一族の守護神になったのである。
神代一族は、古くは「鏡山」と称し高良大社の大祝職であった宮司家一族であり、高良玉垂命の、即ち神武天皇の直系、第七代孝元天皇の子彦太忍信命の子屋主忍信武雄心命の子武内宿禰の後裔と自認していたのである。
従って、「宮神秘書」にある神功皇后の二人の妹の一人が「河上大明神トナリ玉フ」の記述を知らなかったとは考えられず、その後も続く龍造寺氏との一大決戦に際し、さらに遡る神武天皇の母(乳母)祖母神である二神を祀った(淀姫の庇護を受け闘い敗北したことから、逆に嘉村一族の側から申出したものかも知れない)のか
その証拠に、社殿の欄干には今も高良大社の神紋左三つ巴と木瓜紋が確認できる。
それまで淀姫を奉祭していたのは神代を匿った嘉村一族であったはずで、自らの氏神を淀姫(豊姫)としていたものと考えられる。
誅殺された逆賊川上タケルと安曇磯良の妃となったその妹豊(ユタ)姫が祀られ、神功皇后が主役の時代には神功皇后の二人の妹が祀られ、近畿王権の時代には掻き消され、室町、戦国期を向かえ、江戸期の仏教上位の時代を向かえたのではないだろうか?