蕎麦の歴史、縄文遺跡

日本は元より世界で栽培利用されている蕎麦は、大きく分けて2種類あります。

普通我々が、蕎麦屋で食べている普通のソバ(多くは分類上「普通ソバ」と称しています)と、近年健康食品として注目され、日本、特に北海道で栽培されるようになったダッタンソバの2種類です。

遺伝子からみた起源

20世紀の半ばに、ソバの野生種は、中国南部の四川省、雲南省に分布していることが分かっておりました。植物学者中尾氏は、ソバ野生種が中国南部にしか分布していないことが明らかになった以上、中国北部説を採るのはおかしいと反論した。そして、1990年10月雲南省永勝県五郎河の谷間で、京都大学名誉教授大西近江氏によって、ソバの野生祖先種が発見されます。その後、遺伝子による検査研究を経て、今日、ソバの起源地は東チベット、雲南省と東チベットの境界地域がソバ栽培の起源地であるという定説になっております。
 大西氏は、ダッタンソバについても起源地を探求されておりました。普通ソバと同様に、ダッタンソバの野生祖先種の分布調査、遺伝子調査、そして調査地域の民族学的な考察を重ねられましたが、普通ソバと違って分布地域が、中国甘粛省、青海省、四川省、雲南省、チベット自治区のほか、ネパール、インドのヒマラヤ山岳地帯から北部パキスタンにかけてと非常に広く、また、民俗学的にも特定に至りませんでした。現在でも、この広範囲な地域がダッタンソバの起源地とされています。


縄文遺跡の蕎麦

蕎麦が我が国に登場するのは縄文時代後期の北海道などいくつかの遺跡から出土した蕎麦の花粉としてである。蕎麦以外でこの時代から現在まで続いている穀物は少ない。稲作が我が国に持ち込まれるよりも蕎麦の方が早いと考えられるからである。現在、我が国に残っている稲作以前の古代の穀物はせいぜい粟(アワ)や稗(ヒエ)くらいであろう。今も日常の食品として古代穀物が残っているのは蕎麦であろう。

奈良時代の蕎麦

当然ながら古代の飛鳥時代、奈良時代にも蕎麦は食べられていたはずである。

古事記、日本書紀、万葉集には蕎麦のことが出てこない。「古事記」にはオオゲツヒメが蚕、稲、粟、アズキ、麦、大豆を生んだ、と書かれている。つまりこれら弥生時代と想定される神代の時代に稲や大豆などが我が国へ持ち込まれたことを意味しているのだが、蕎麦についてはどこにも書かれていない。

飛鳥時代に天皇から救荒作物として蕎麦の栽培を奨励するようにとの勅諭が発せられている。

また、古代朝鮮半島の百済から軍事援助を頼まれて赴いた白村江の戦の時の倭国の跡地からも大量の炭化した蕎麦が見つかっているそうです。


トルコ料理と蕎麦


蕎麦粉はトルコ語で”buğday unu”です。トルコではポピュラーな材料だったと思います。
パンやスープに入っている可能性が高いです。舟形のトルコ風ピザ「ピデ」やラマザン中に売っている「ラマザンピデ」なんかには入っていたような。
スープ(トルコ語でチョルバ)にもbuğday unuが入っている物があった。

蕎麦アレルギーの方は、、
“bu içinde Buğday unu var mı?”(この中に蕎麦粉は入っていますか?)
と尋ねると良いかと思います。
たぶん、Var(ある)かYok(ない)で答えてくれると思います。

ちなみにサバサンドに使用されるパンはエキメッキですので、たぶん大丈夫だったとは思いますが、念の為に上記のトルコ語を控えて行って下さい。
では・・・。

チベット蕎麦

トゥクパはチベット蕎麦とも呼ばれている。蕎麦と呼ばれているだけで、実際にはそば粉ではなく小麦粉からつくられる。だから味はうどんに近いように感じることもある。スープはじっくりと出汁がとってあって、薄味ながらうまみがある。


蕎麦の原産地

蕎麦は7000年前から栽培されていた?
ソバの原産地は,バイカル湖付近から中国東北地方に至る冷涼地域だった。またほろ苦い風味があるダッタンソバはヒマラヤ山麓が原産地だという。

日本にソバが伝わった年代は定かでない。

ヒマラヤ山麓では標高2500メートル地点から4000メートルまでの高地でダッタンソバが栽培されている。しかし2000メートル以下には普通ソバという品種がある。この普通ソバが中国を経て、日本に伝わったという。

世界最大のソバの原産地であるシベリアの普通ソバは、日本に伝わらなかったのであろうか。北海道の「はまなす遺跡」は縄文前期のものとみられるが、この遺跡から普通ソバの花粉が出土している。

縄文晩期とみられる青森県田子町の遺跡からもソバの花粉が出土している。信州の野尻湖底からは弥生時代の普通ソバの花粉層が発見されたので、ソバ伝来の歴史は、縄文前期まで遡って考える必要があり、ブリヤート人が日本に渡来してきた時に、シベリアの普通ソバを持ってきた可能性はどうか

また、この一方で、エジプトのナイル河流域をはじめ、バビロニアのユーフラテス・チグリス両河流域、インドのインダス河流域、中国の黄河流域などにははるか古代、そばが栽培されていたとみられる跡や、そばの種子などが考古学的にも発見されています。

これらの地域に氏族社会が形成されていた紀元前4~5000年頃には、すでにそばも麦も食糧として栽培されていたことがわかるのです。

古代、南半球の民族たちは、土壌と気候に恵まれ、多くの食糧を豊富に得ることができました。これに対して北半球に興隆した近代諸国は比較的森林が多い寒冷地帯に広がりました。作物の種類は多かったものの収穫量としては決して多かったとはいえませんでした。

特に中北欧のやせ地などでは、種子をまいてもその3倍くらいしか収穫できず、冬は一家の食糧から家畜のエサまでも確保するには、山野の木の実や草の葉などで補給しなければなりませんでした。

そのような状況のなかで白い小麦粉を使用できるのは特権階級の人びと、王侯貴族に限られていたといわれています。つまり、小麦粉はそれだけ貴重なものだったのです。

中北欧諸国では、つい2~300年前まで蕎麦を常食としていたそうです。当時のヨーロッパではまだ開墾作業が進んでいなかったうえに、土壌がやせ地または荒地で、さらに気候が寒冷という厳しい状況だったため、“どんな荒地でも育つ”蕎麦の特徴ゆえのことだったようです。

日本が、大陸と陸続きであったと推測されるころ、大陸から移り住んできた先住民族は原始的な焼畑農業で、半農半猟の生活を続けていました。
新石器時代に東北地方や信州の高冷地帯などで、大陸系のツングース族が、アジア内陸原産のそばの種子をまいたといわれています。
また『続曰本紀』によると、元正天皇養老六年(722年)のころ、そばは救荒作物として植えつけを勧めたことが記されているのです。