国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、各国における政治的中心都市であるとともに司法・軍事・宗教の中心部であった。
県名・県主名は継体朝以前のみ集中し、大化前代以降は遺制として表われるにすぎない。また、御県坐神社は奈良などでは、県ごとに設置されるなど最も古い時代の神社と言えよう。
日本神話に記される、大国主命が自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山に鎮められ、大物主神の名をもって祀りされたという話や大和朝廷創始から存在する理由などから「大神(おおみわ)神社」が「日本最古の神社」と言われています。
大和国
坂上田村麻呂の祖父である坂上犬養が大和守(やまとのかみ知事)に任命され、この大和国府に赴任し、故郷の高取町に錦をかざりました。国府の所在地は、奈良県高市郡役所が出している「奈良県高市郡志料」によると、「大和志」に「国府神社在土佐村」とあり、またその拝殿に掲げる扁額は「国府宮」の三字を表していたとあります。平城京遷都とともに現在の大和郡山市今国府町に移りました。
国府神社
奈良県高市郡高取町下土佐字ナマコ山
ご祭神 主神 応神天皇配祀 天児屋根命 事代主命
山城国
- 茨田勝―――――景行天皇皇子、息長彦人大兄瑞城命の後―――――山城国皇別
- 間人造―――――間人宿祢同祖、誉屋別命の後――――――――――山城国皇別
- 布勢公―――――仲哀天皇皇子、忍稚命の後―――――――――――山城国皇別
- 息長竹原公―――応神天皇三世孫、阿古乃王の後―――――――――山城国皇別
- 三国真人――――継体皇子、椀子王の後―――――――――――――山城国皇別
- 小野朝臣――――孝昭天皇皇子、天足彦国押人命の後―――――――山城国皇別
- 小野臣―――――同命七世孫、人花命の後――――――――――――山城国皇別
- 和邇部―――――小野朝臣同祖、米餅搗大使主の後――――――――山城国皇別
- 村公――――――天足彦国押人命の後――――――――――――――山城国皇別
- 渡守首―――――村公同祖―――――――――――――――――――山城国皇別
最初の国府は、相楽郡
8世紀前半まで。京都府木津川市山城町上狛(かみこま)と推定。当地には山城国分寺も所在。当時の総社は、なんと不明。
離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)は京都府乙訓郡大山崎町にある神社。この近くに国府が置かれた。
離宮八幡宮
石清水八幡宮の元社にあたる神社
京都府乙訓郡大山崎町大山崎西谷21-1
主祭神 応神天皇、神功皇后、酒解大神、比売三神
武内社、天照皇太神社、蛭子神社、鹿島神社、気比宮、 高天宮神社、小禅師宮、勝手神社、腰掛天神社、高良社など
和泉国
- 和気公―――――犬上朝臣同祖、倭建尊の後―――――――――――和泉国皇別
- 県主――――――和気公同祖、日本武尊の後―――――――――――和泉国皇別
- 聟木――――――倭建尊三世孫大荒田別命の後――――――――――和泉国皇別
- 酒部公―――――讃岐公同祖、神櫛別命の後―――――――――――和泉国皇別
国府は 志紀郡、大県郡 大阪府藤井寺市国府・惣社
泉井上神社(いずみいのうえじんじゃ)は、大阪府和泉市にある神社である。境内には和泉国の総社である和泉五社総社も鎮座する。
創建は不詳。社伝によれば、200年(仲哀天皇9年)に神功皇后が三韓征伐へ出発する途上、当地を行啓した際に突如として泉が湧き出、凱旋後に霊泉として社を築いて祀ったという。本殿脇にあるこの霊泉は「和泉清水」と呼ばれ、和泉国の国名の起源とされる。
のちに、当社を中心に和泉国の国府が置かれ、国内の
大鳥大社(一宮)、泉穴師神社(二宮)、聖神社(三宮)、積川神社(四宮)、日根神社(五宮)
の祭神を勧請した総社が築かれた。
泉井上神社
独化天神(天之御中主神・高産巣日神・神産巣日神) –
主祭神 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 他、三韓征伐武勲従者45柱
(総社)
天照大日霊貴尊 – 大鳥大社
天忍穂耳尊 – 泉穴師神社
天瓊瓊杵尊 – 聖神社
彦火火出見尊 – 積川神社
鸕鷀草葺不合尊 – 日根神社
大鳥神社の祭神の推移
現在の祭神は次の2柱。
日本武尊(やまとたけるのみこと)
大鳥連祖神(おおとりのむらじのおやがみ)
元来の祭神は大鳥連の祖神であるらしかったが、一時期天照大神が祭神とされるようになった。「和泉国大鳥五社大明神并府中惣社八幡宮縁起」によると本地仏は釈迦如来となっている。その後、日本武尊が祭神と考えられるようになり、これが定着した。これは大鳥神社の「大鳥」という名称と日本武尊の魂が「白鳥」となって飛び立ったという神話が結び付けられたために起こった習合であると考えられる。以来、長い間にわたって日本武尊を祭神としてきたが、明治29年(1896年)に政府の祭神考証の結果を受け内務省の指示により、大鳥連祖神に祭神を変更した。その後、昭和36年(1961年)に大鳥連祖神にくわえて、日本武尊を祀った。
氏神さんを、政府が指図して変えさせたようです!
河内国
- 佐伯直―――――大足彦忍代別天皇皇子、稲背入彦命の後―――――河内国皇別
- 蘇宜部首――――仲哀天皇皇子誉屋別命の後―――――――――――河内国皇別
- 磯部臣―――――仲哀天皇皇子誉屋別命の後―――――――――――河内国皇別
- 蓁原――――――誉田天皇皇子、大山守命の後――――――――――河内国皇別
- 大宅臣―――――大春日同祖、天足彦国押人命の後――――――――河内国皇別
- 阿閇朝臣――――阿閇朝臣同祖、孝元天皇皇子大彦命の後―――――河内国皇別
- 阿閇臣―――――阿閇朝臣同氏、大彦命男瀬立大稲起命の後――――河内国皇別
- 日下連―――――阿倍朝臣同氏、大彦命男紐結命の後―――――――河内国皇別
- 大戸首―――――阿倍朝臣同祖、大彦命男比毛由比命の後―――――河内国皇別
- 難波忌寸――――大彦命の後――――――――――――――――――河内国皇別
- 難波――――――難波忌寸同祖、大彦命孫波多武彦命の後―――――河内国皇別
- 日下部連――――彦坐命子狭穂彦命の後―――――――――――――河内国皇別
- 日下部―――――日下部連同祖―――――――――――――――――河内国皇別
- 川俣公―――――日下部連同祖、彦坐命の後―――――――――――河内国皇別
- 豊階公―――――河俣公同祖、彦坐命男沢道彦命の後―――――――河内国皇別
- 酒人造―――――日下部同祖――――――――――――――――――河内国皇別
- 忍海部―――――開化天皇皇子、比古由牟須美命の後―――――――河内国皇別
- 茨田宿祢――――多朝臣同祖、彦八井耳命の後――――――――――河内国皇別
- 志紀首―――――志紀県主同祖、神八井耳命の後―――――――――河内国皇別
- 志紀県主――――多朝臣同祖、神八井耳命の後――――――――――河内国皇別
- 下家連―――――彦八井耳命の後――――――――――――――――河内国皇別
- 江首――――――彦八井耳命七世孫久米津彦大雨宿祢命の後――――河内国皇別
- 尾張部―――――彦八井耳命の後――――――――――――――――河内国皇別
- 物部依羅連―――神饒速日命の後――――――――――――――――河内国神別
- 物部首―――――同神子、味嶋乳命の後―――――――――――――河内国神別
- 物部――――――同神十三世孫、物部布都久呂大連の後――――――河内国神別
- 物部飛鳥――――同神六世孫、伊我色雄命の後――――――――――河内国神別
- 高橋連―――――同神十四世孫、伊己布都大連――――――――――河内国神別
- 宇治部連――――同神六世孫、伊香我色乎命の後―――――――――河内国神別
- 高屋連―――――速日神十世孫、伊己止足尼大連の後――――――――河内国神別
- 積組造―――――阿刀宿祢同祖、神子、于摩志摩治命の後―――――河内国神別
- 日下部―――――神饒速日命孫、比古由支命の後―――――――――河内国神別
- 栗栖連―――――同神子、于摩志摩治命の後―――――――――――河内国神別
- 勇山連―――――神饒速日命三世孫、出雲醜大使主命の後―――――河内国神別
- 津首――――――同神六世孫、伊香我色雄命の後―――――――――河内国神別
- 笛吹――――――火明命の後――――――――――――――――――河内国神別
- 吹田連―――――火明命皃、天香山命の後――――――――――――河内国神別
- 五百木部連―――火明命の後――――――――――――――――――河内国神別
- 額田部湯坐連――天津彦根命五世孫、乎田部連の後――――――――河内国神別
- 凡河内忌寸―――天津彦根命の後――――――――――――――――河内国神別
- 津夫江連――――天津彦根命の後――――――――――――――――河内国神別
- 大県主―――――天津彦根命の後――――――――――――――――河内国神別
- 宗形君―――――大国主命孫、吾田片隅命の後――――――――――河内国神別
- 玉祖宿祢――――同神十三世孫、建荒木命の後――――――――――河内国神別
- 林宿祢―――――大伴宿祢同祖、室屋大連公男、御物宿祢の後―――河内国神別
- 家内連―――――高魂命五世孫、天忍日命の後――――――――――河内国神別
- 葛木直―――――高魂五世孫、剣根命の後――――――――――――河内国神別
- 役直――――――高御魂命孫、天神立命の後―――――――――――河内国神別
- 恩智神主――――高魂命皃、伊久魂命の後――――――――――――河内国神別
- 安曇連―――――綿積神命皃、高見命の後――――――――――――河内国神別
- 鳥取――――――同神三世孫、天湯川桁命の後――――――――――河内国神別
- 倭文宿祢――――角凝魂命の後―――――――――――――――――河内国神別
- 美努連―――――同神四世孫、天川田奈命の後――――――――――河内国神別
- 水海連―――――百済国人、努理使主の後――――――――――――河内国諸蕃
- 調曰佐―――――百済国人、努理使主の後――――――――――――河内国諸蕃
- 河内連―――――百済国、都慕王男陰太貴首王より出る――――――河内国諸蕃
- 佐良連―――――同国人、久米都彦の後―――――――――――――河内国諸蕃
- 錦部連―――――三善宿祢同祖、百済国王速古太王の後――――――河内国諸蕃
- 錦部連―――――三善宿祢同祖―――――――――――――――――和泉国諸蕃
- 依羅連―――――百済国人、素彌志夜麻美乃君の後――――――――河内国諸蕃
- 山河連―――――百済国人、素彌志夜麻美乃君の後――――――――河内国諸蕃
- 岡原連―――――百済国、辰斯王子、知宗の後――――――――――河内国諸蕃
- 呉服造―――――同国、阿漏史の後―――――――――――――――河内国諸蕃
- 宇努造―――――同国人、彌那子富意彌の後―――――――――――河内国諸蕃
- 古市村主――――同国虎王の後―――――――――――――――――河内国諸蕃
- 上曰佐―――――同国人、久爾能古使主の後―――――――――――河内国諸蕃
- 中臣連―――――同神十四世孫、雷大臣命の後――――――――――河内国神別
- 中臣酒屋連―――同神十九世孫、真人連公の後――――――――――河内国神別
- 中臣高良比連――津速魂命十三世孫、臣狭山命の後――――――――河内国神別
- 中臣連―――――天皃屋根命の後――――――――――――――――河内国神別
- 中臣――――――中臣高良比連同祖―――――――――――――――河内国神別
- 菅生朝臣――――大中臣朝臣同祖津速魂命三世孫天皃屋根命の後――河内国神別
- 村山連―――――中臣連同祖――――――――――――――――――河内国神別
- 平岡連―――――同神十四世孫、鯛身臣の後―――――――――――河内国神別
- 川跨連―――――同神九世孫、梨富命の後――――――――――――河内国神別
- 秦宿祢―――――秦始皇五世孫、融通王の後―――――――――――河内国諸蕃
- 秦忌寸―――――秦宿祢同祖、融通王の後――――――――――――河内国諸蕃
- 秦人――――――同祖、弓月王の後―――――――――――――――河内国諸蕃
- 秦公――――――始皇帝孫、孝徳王の後―――――――――――――河内国諸蕃
- 秦姓――――――同帝十三世孫、然能觧公の後――――――――――河内国諸蕃
國府八幡神社
由緒に「藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂八幡神社の四社です。」とあった。
志貴縣主神社
別称は「総社そうしゃ」または「惣社そうしゃ」という呼称で親しまれているようです。
志貴縣主神社は、河内古市より国府に至る南北約五粁(km)に亘って連なる洪積層の「国府・古市台地」の北端に鎮座する延喜式内社えんぎしきないしゃ(延喜式に記されている古社)である。祭人は、神武天皇の長子と伝えられる神八井耳命(綏靖天皇(すいぜい:第二代)の兄に当る)を主神とし、天照大神、春日大神、武甕槌命、天児屋根命、比咩大神、表筒男、中筒男と底筒男のいわゆる住吉三神と神功皇后の各神を合祀している河内でも由緒ある神社であった。
大和時代初期の頃、柏原付近から道明寺付近にかけての肥沃な水田地帯は、大和朝廷の直轄地として「河内志貴の県」といわれ、これを管理する豪族は神武の長子、神八井耳命を始祖にする志貴縣主及びその同族である志貴首であったため、これらの豪族たちが本貴地に祖神を祭る氏神として創建したものが、この神社であったと考えられる。
三代実録の清和天皇の貞観四年(862)二月の記録によると
「河内国志紀郡の人、外従五位下、行木三助(木工寮の次官)兼右大臣(藤原元経)家令 支配人 志貴縣主福祓ら三人に姓として、「宿弥」を賜い、即ち本居(本籍地)を改め、左京職(平安京の左京)に隷す。志貴宿弥は、神八井耳命の後(子孫)、多朝臣と同じ祖なり。」という内容が記されており、平安初期の八百六十二年の二月に本籍を志紀郡から平安京の左京へ転じたことが判るのである。
その後、村上天皇の天歴年間(950ころ)諸国の諸経費を節減するために設けられた。惣社の剣により、各国々の国府(国を治める役所)に最寄りの有名社を「惣社そうしゃ」に充当して、その国内の有名祭神を一ヵ所に集めて祭祀されることになったため、この神社を「河内の惣社そうしゃの宮」と呼称することになり、近隣の集落をも「惣社そうしゃ」と称するようになった。
韓國神社
由緒
当神社の創設は古く、今から約千五百年前の雄略天皇の時代に創設された式内社しきないしゃであります。
日本書紀に「雄略天皇十三年春三月、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とあり、この地方を収めることとなった物部氏が、その祖神饒速日命いざはやひのみことを祀り神社を創設したのが当社の始まりです。社名の由来は異説種々ありますが、物部氏の没後、同氏一族の辛國連が、当社に深くかかわることとなり、辛國神社と称するようになったと伝えられています。
当宗神社の由緒 『日本の神々3』によれば、誉田の辺りは、景行天皇の皇子で成務天皇の弟である五百城入彦命一族の土地であるとともに、五世紀頃の楽浪郡からの渡来人である当宗直一族の居住地であったとしている。
系譜 桓武天皇ー仲野親王(妃:当宗氏)ー斑子女王(光孝天皇妃)ー宇多天皇
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
大阪府羽曳野市にある神社である。旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の八幡宮を称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建された。永承6年(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座した。
廣幡八幡皇大神 、帶中彦命、息長足姫命、住吉大神、八后神彦
誉田八幡宮の地名の誉田は息長誉田真若王のから仲津媛へ継承された古代氏族の旧地と『日本の神々3』で古田実氏は述べておられる。 社伝によれば欽明天皇が新羅に滅ぼされた任那の再興を祈念して、後円部頂上に小社殿を造営したのを創始としている。八幡社の多くは欽明天皇の時代の創建と伝えられているが、平安中期の永承六年(1051年)前九年の役の早期平定を祈念して現在地に社殿を新築したのを始まりとしている。 応神八幡社が全国的に祀られるのはこの時期以降であり、源氏の守護神として鎌倉時代の勧請に続く。
大津神社(おおつじんじゃ)
大阪府羽曳野市高鷲にある神社で、延喜式神名帳に記載されている、河内国丹比郡の式内社。 醍醐天皇(885~930)の御代に編纂された『延喜式』(927)に 「大津神社三座鍬・靱」と明記されている由緒の古い神社で、「丹下の郷の大宮」と称えられていた。 応仁天皇(4 – 5世紀はじめ)の御代に、文字をはじめ各種の大陸文化が朝鮮半島を経由して我国に伝来した際、当河内地方は難波の港と大和を結ぶ要路であったことから渡来人が土着し、荒地を開拓し産業を興して、遂に河内文化の繁栄を見ることに至った。 当時、この地方には、百済貴須王(近仇首王)の子孫といわれる「葛井氏・船氏・津氏」の三氏が勢力を張っており、この三氏のうち津氏一族がこの地をトして「大宮山」と称し、自分達の守護神を奉斎したことが「大津神社」の発祥だろうと云うのが古来からの定説である。
祭神 素盞嗚尊 奇稻田姫命 天日鷲命 配祀 大山咋命 菅原道真公
摂津国
- 榛原公―――――息長真人同祖、大山守命の後――――――――――摂津国皇別
- 為名真人――――宣化皇子、火焔王の後―――――――――――――摂津国皇別
- 川原公―――――為名真人同祖、火焔親王の後――――――――――摂津国皇別
- 山辺君―――――和気朝臣同祖、大鐸石和居命の後――――――――摂津国皇別
- 山守――――――垂仁天皇皇子、五十日足彦命の後――――――――摂津国皇別
- 榛原公―――――息長真人同祖、大山守命の後――――――――――摂津国皇別
- 為名真人――――宣化皇子、火焔王の後―――――――――――――摂津国皇別
- 川原公―――――為名真人同祖、火焔親王の後――――――――――摂津国皇別
- 和邇部―――――大春日朝臣同祖、天足彦国忍人命の後――――――摂津国皇別
- 物部首―――――大春日朝臣同祖――――――――――――――――摂津国皇別
- 物部――――――物部首同祖、米餅搗大使主の後―――――――――摂津国皇別
- 井代臣―――――大春日朝臣同祖、米餅搗大使主命の後――――――摂津国皇別
- 津門首―――――櫟井臣同祖、米餅搗大使主命の後――――――――摂津国皇別
- 羽束首―――――天足彦国押人命男彦姥津命の後―――――――――摂津国皇別
- 高橋朝臣――――阿倍朝臣同祖、大彦命の後―――――――――――摂津国皇別
- 佐々木山君―――阿倍朝臣同祖、大彦命の後―――――――――――摂津国皇別
- 伊賀水取――――阿倍朝臣同祖、大彦命の後―――――――――――摂津国皇別
- 坂合部―――――同大彦命の後―――――――――――――――――摂津国皇別
- 久々智―――――阿倍朝臣同祖、大彦命の後―――――――――――摂津国皇別
- 三宅人―――――大彦命男、波多武日子命の後――――――――――摂津国皇別
- 吉志――――――難波忌寸同祖、大彦命の後―――――――――――摂津国皇別
- 道守臣―――――道守朝臣同祖、武葉頬別命の後―――――――――摂津国皇別
- 鴨君――――――日下部宿祢同祖、彦坐命の後――――――――――摂津国皇別
- 日下部宿祢―――開化天皇皇子、彦坐命より出る―――――――――摂津国皇別
- 依羅宿祢――――日下部宿祢同祖、彦坐命の後――――――――――摂津国皇別
- 豊嶋連―――――多朝臣同祖、彦八井耳命の後――――――――――摂津国皇別
- 松津首―――――豊島連同祖――――――――――――――――――摂津国皇別
- 阿刀連―――――神饒速日命の後――――――――――――――――摂津国神別
- 若湯坐宿祢―――石上朝臣同祖神饒速日命六世孫伊香我色雄命の後―摂津国神別
- 矢田部造――――伊香我色雄命の後―――――――――――――――摂津国神別
- 物部韓国連―――伊香我色雄命の後―――――――――――――――摂津国神別
- 巫部宿祢――――石上朝臣同祖神饒速日命六世孫伊香我色雄命の後―摂津国神別
- 内田臣―――――石上朝臣同祖神饒速日命六世孫伊香我色雄命の後―摂津国神別
- 佐夜部首――――伊香我色雄命の後―――――――――――――――摂津国神別
- 小山連―――――高魂命子、櫛玉命の後―――――――――――――摂津国神別
- 石作連―――――同神六世孫、椀根命の後――――――――――――摂津国神別
- 刑部首―――――同神十七世孫、屋主宿祢の後――――――――――摂津国神別
- 六人部連――――同神五世孫、建刀米命の後―――――――――――摂津国神別
- 津守宿祢――――尾張宿祢同祖、火明命八世孫、大御日足尼の後――摂津国神別
- 津守――――――火明命の後――――――――――――――――――摂津国神別
- 日下部―――――阿多御手犬食同祖、火闌降命の後――――――――摂津国神別
- 凡河内忌寸―――額田部湯坐連同祖―――――――――――――――摂津国神別
- (摂津)国造――天津彦根命男、天戸間見命の後―――――――――摂津国神別
- 山直――――――天御影命十一世孫、山代根子の後――――――――摂津国神別
- 神人――――――大国主命五世孫、大田々根子命の後―――――――摂津国神別
- 神人――――――大国主命五世孫、大田々根子命の後―――――――摂津国神別
- 鴨部祝―――――賀茂朝臣同祖、大国主神の後――――――――――摂津国神別
- 我孫――――――大己貴命孫、天八現津彦命の後―――――――――摂津国神
- 安曇犬養連―――海神大和多罪命三世孫、穂己都久命の後―――――摂津国神別
- 凡海連―――――安曇宿祢同祖、綿積命六世孫、小栲梨命の後―――摂津国神別
- 倭文連―――――角凝魂命男、伊佐布魂命の後――――――――――摂津国神別
- 竹原――――――角凝魂命男、伊佐布魂命の後――――――――――摂津国神別
- 額田部宿祢―――同神男、五十狭経魂命の後―――――――――――摂津国神別
- 額田部―――――額田部宿祢同祖、明日名門命の後――――――――摂津国神別
- 船連――――――菅野朝臣同祖、大阿郎王の後――――――――――摂津国諸蕃
- 勝―――――――神勝同祖、多利須々の後――――――――――――摂津国諸蕃
- 広井連―――――百済国、避流王の後――――――――――――――摂津国諸蕃
- 為奈部首――――同国人、中津波手の後―――――――――――――摂津国諸蕃
- 牟古首―――――同国人、片禮吉志の後―――――――――――――摂津国諸蕃
- 三野造―――――百済国人、布須麻乃古意彌の後―――――――――摂津国諸蕃
- 坂本臣―――――紀朝臣同祖、彦太忍信命孫武内宿祢命の後――――摂津国皇別
- 雀部朝臣――――巨勢朝臣同祖、建内宿祢命の後―――――――――摂津国皇別
- 阿支奈臣――――玉手朝臣同祖武内宿祢男葛城曽豆比古命の後―――摂津国皇別
- 車持公―――――同豊城入彦命の後―――――――――――――――摂津国皇別
- 韓矢田部造―――上毛野朝臣同祖、豊城入彦命の後――――――――摂津国皇別
- 中臣東連――――天皃屋根命九世孫、鯛身命の後―――――――――摂津国神別
- 中臣藍連――――同神十二世孫、大江臣の後―――――――――――摂津国神別
- 中臣大田連―――同神十三世孫、御身宿祢の後――――――――――摂津国神別
- 津嶋朝臣――――大中臣朝臣同祖津速魂命三世孫天皃屋根命の後――摂津国神別
- 津嶋直―――――天皃屋根命十四世孫、雷大臣の後―不見―――――未定雑姓摂津国
- 掠垣朝臣――――大中臣朝臣同祖津速魂命三世孫天皃屋根命の後――摂津国神別
- 荒城朝臣――――大中臣朝臣同祖津速魂命三世孫天皃屋根命の後――摂津国神別
- 神奴連―――――同神十世孫、雷大臣命の後―――――――――――摂津国神別
- 生田首―――――同神九世孫、雷大臣の後――――――――――――摂津国神別
- 多米連―――――神魂命五世孫、天比和志命の後―――――――――摂津国神別
- 土師連―――――天穂日命十二世孫、飯入根命の後――――――――摂津国神別
- 物忌直―――――椎根津彦命九世孫、矢代宿祢の後――――――――摂津国神別
- 大和連―――――神知津彦命十一世孫、御物足尼の後―――――――摂津国神別
- 服部連―――――熯之速日命十二世孫、麻羅宿祢の後―――――――摂津国神別
- 秦忌寸―――――大秦公宿祢同祖、功満王の後――――――――――摂津国諸蕃
- 秦人――――――秦忌寸同祖、弓月王の後――――――――――――摂津国諸蕃
- 日置造―――――鳥井宿祢同祖、伊利須使主の後―――――――――摂津国諸蕃
- 三宅連―――――新羅国王子、天日桙命の後―――――――――――摂津国諸蕃
- 豊津造―――――任那国人、左李金の後―――――――――――――摂津国諸蕃
- 韓人――――――任那国人、左李金の後―――――――――――――摂津国諸蕃
- 荒々公―――――任那国、豊貴王の後――――――――――――――摂津国諸蕃
難波神社
由緒
反正天皇が河内国丹比柴籬宮に都を構えた時、同地に父帝仁徳天皇を偲んで建立したのを創祀とする。 943年、朱雀天皇の時代に、天皇の命令で大江坂平野郷(天王寺区)に遷座、摂津国の総社として難波大宮、平野神社とも呼ばれた。延久三年(1071)後三条天皇が住吉に行幸の途中、夢のお告げにより、万民の病疫をすくわれる素盞嗚尊と五穀豊穣を誓われる倉稲魂尊を一緒に祀ることになった。 現在地に遷されたのは1583年で、秀吉が大坂城をたてた時である。
本社 仁徳天皇 配祀 素盞嗚尊、倉稲魂尊
摂社 稲荷神社「倉稲魂尊」金刀比羅神社「大物主大神」 十四柱相殿神社「天照皇大神 ほか」
丹波国
総社 宗神社(そうじんじゃ)
京都府南丹市八木町にある神社。旧称は宗社大明神または宗社。『延喜式神名帳』にある「三縣神社 三県神社(丹波国・桑田郡)」に比定される式内社(小社)の参考地で、丹波国総社推定地。御朱印の有無は不明。
御祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)。鎮座地の南丹市八木町屋賀は、丹波国府推定地の一つ。この説の中で、当社は丹波国の総社(惣社)であったと考えられている。また、『延喜式神名帳』に記載された「三縣神社」の比定地がなく、当社のことではないかと推測されている。積極的な比定というよりは、消去法に近いため、参考社。
境内は屋賀の集落の南部に位置する。集落に向かって本殿が北面する北面神社である。現在の本殿は寛永15年(1638年)の建立。当社の南東ほど近くに丹波国一宮である出雲大神宮が鎮座する。
境内社に昭和33年(1958年)に創建された三輪大神神社(御祭神:大物主命)がある。丹波一之宮は出雲大神宮
延喜式で神宮号を許されたのは、伊勢は別格として関東の鹿島、香取、九州の筥崎、宇佐の四宮に限られ、明治になってもその格式は変わらなかった。
戦後それがフリーになったので、この宮も神宮号を称するようになった。それというのも、島根県の出雲大社に祀られる大国主命が最初に鎮座したのがこの宮であり、和銅年間に出雲国へ遷座したという。従ってこの宮を元出雲と呼ぶというのだ。出雲大社の源なら神宮号を自称するのもうなずける。
祭神は、その大国主命と后神三穂津姫であるが、不思議なことに三殿あるうちの左右は、その二柱の夫婦神だが、中央に祀られる神が不明である。背後の御影山がそもそものご神体とされ、国常立神だという説もあるが、とにかく中央神が明確に伝わっていないのだ。
いずれにしても一之宮を出雲神としていることは、この地に出雲からの移住民が数多く住み着いた証拠でもあろう。
播磨国
射楯兵主神社
当社は、総社さん、と呼ばれていますが、正式な神社名は射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)と云い、射楯大神(いたてのおおかみ)と兵主大神(ひょうずのおおかみ)を御祭神としてお祀りしています。 境内には、総社の名の由来になっている播磨国内の大小明神をはじめ、摂末社の神々を合わせ祀っています。由緒
欽明天皇25年(564)6月11日に影向があり、飾磨郡伊和里水尾山に、大己貴命(兵主の神)を祀ると伝えられています。
また、播磨国風土記に「因達と称ふは 息長帯比売命(中略) 渡りましし時 御船前に御しし伊太代の神(射楯の神)此処に在す 故 神のみ名に因りて 里の名と為す」と記されているところから、8世紀以前には、射楯の神が飾磨郡因達里に祀られていたことがわかります。
二神をいつ合座したのかについては、明確な資料が存在しませんが、927年に編纂された延喜式神明帳に「射楯兵主神社二座」とあり、式内社として少なくとも9世紀後半には合座されていました。
その後、安徳天皇養和元年(1181)には、播磨国内の大小明神百七十四座の神々を合わせ祀って「播磨国総社」と称し、三日潮「播磨国総鎮守の神社」として広く知られるようになりました。え
昭和23年、市民により復興奉賛会が結成され、昭和40年に昭和の大復興を達成し、また、平成の大造営を氏子・崇敬者と共に行い、多くのご奉賛を賜って、平成19年総社御門を復興しました。
年表
射楯大神が飾磨郡因達里(現姫路市新在家本町)に御鎮座。
坂上田村麻呂が兵主大神を国衙荘小野江の梛本に還座。
藤原純友反逆の御祈のため奉幣。天神地祇祭(てんしんちぎさい)「一ツ山大祭」の起源とする。
射楯神を併せ合わせ祀り、式内社の射楯兵主神社と号す。
播磨国16郡の名高い174座の大小明神を合わせ祀り、総社と称す。
赤松晴政、はじめて臨時祭(三ツ山大祭)を斎行。
府中惣社(ふちゅうそうしゃ)、国衙惣社(こくがそうしゃ)又は総社伊和大明神・軍八頭正一総社伊和大明神と称され、射楯兵主神社という名が表に出なくなる。