九州の吉備、前期古墳、豊後、日向、肥後

記紀の初出は、景行天皇、日本武尊の九州遠征
吉備と九州の関係は、どのように進められたか。
吉備津彦命・稚武彦命兄弟の実際の系譜は不明な点が多いが、淡路の御井宮に坐したという和知都美命(安寧天皇記に皇子の子とされる)を外祖父とし、能登・毛野氏族や彦坐王と近い親族関係があったものとみられる。この氏族が大王族・磯城県主族と密接な親姻族関係をもったという事情から見て、四道将軍伝承はともかく、大和から播磨西部を基地として進出した氏族とみるほうが妥当と思われる。
この氏族は吉備・西播磨地方中心の地方豪族であり、日本武尊の遠征に随行した吉備武彦命兄弟等の業績もあって、応神天皇などの后妃を輩出し、吉備国造となって大いに栄えた。

吉備国造一族は瀬戸内の要衝を押さえ、塩・鉄の生産を基盤に巨大な諸古墳を築造し、朝鮮外交にも活躍したが、五世紀中葉以降には大和朝廷に対する叛乱を数度起して敗れ、吉備氏の勢力は大きく衰え、系譜も下道系統のものへ一本化されてしまった。吉備国造自体も五つの小国造(上道、下道、三野、加夜、笠)に細分化された。
九州の吉備一族
三井根子命後裔と称する国前国造及び葦分国造の関係姓氏があり、景行天皇の九州巡狩等に随行して来住したものか。これらは、多氏族と称する肥国造や宇佐氏族とも密接な関係を有した模様である。

景行天皇の遠征
景行天皇12年 山口県ー豊前ー大分ー日向
・熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)から豊前(行橋市)に渡り、行宮(かりみや)を設ける。神夏磯媛(かむなつそひめ)から賊の情報を得て誅殺。碩田(おおきた、大分市)からで土蜘蛛を誅して、日向国に入る。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、熊襲を平定した。日向高屋宮に留まること6年。

速来津姫、速津媛、
豊後國海部郡 早吸日女神社
御祭神 八十枉津日神 大直日神 底筒男神 中筒男神 表筒男神 大地海原諸神
本来は 早吸日女神 のはず

『肥前国風土記』彼杵郡に
天皇が熊襲親征で宇佐宮にあった時、 陪従(みとも)の神代直に命じて、速来村の土蜘蛛を捕らへさせた。 この時速来津姫が来て、自分の弟の建津三間が石上神之木蓮子玉といふ美しい玉を秘蔵していることを奏上した。 神代直は、その弟を探し出し、石上の神の木蓮子玉と白珠玉の二種類の玉を献上させた。また速来津姫は、川岸の村に住む箆簗(のやな)も美しい玉をもっていると奏上した。 神代直は、箆簗を捕らえ、その玉を献上させた。
神代直は、手に入れた三種の玉を景行天皇に献じたところ、 景行天皇は「この国は具足玉(そないだま)の国というがよい」とおっしやった。 それが訛って彼杵(そのぎ)郡という、。

日向の高屋行宮
高屋(たかや)神社(宮崎市)
景行天皇、ホオリノミコト(山幸彦)、トヨタマヒメを祀り、黒貫寺と同様に景行天皇が滞在した「高屋宮」の跡と伝えられています。神社の西側に小高い丘があり、日本書紀で記されている山幸彦の御陵の「日向の高屋山上陵」はこの地であると伝えられています。

高屋神社はホホデミの山陵伝承の他に、景行天皇の高屋行宮跡ともいわれている。都於郡城跡の近くにも高屋神社があり、道を隔てた黒貫寺にも景行天皇高屋行宮址がある。また内之浦町の高屋神社はもともと国見山山頂にあったといい、現在地の東南二十間ばかりのところにある天子山といわれるところは、景行天皇の御所であるという。地元の伝承では、もともとこの地はクマソタケルの居城があったところで、景行天皇がクマソ征伐した際、国見山の高屋陵を遥拝するために創建したともいわれている。
吉備系国造

盧原国造 志賀高穴穂朝代。以二池田坂井君祖吉備武彦命児思加部彦命_定二賜国造_。
角鹿国造 志賀高穴穂朝御代。吉備臣祖若武彦命孫建功狭日命。定二賜国造_。
上道国造 軽嶋豊明朝御世。元封二中彦命児多佐臣_始国造。
三野国造 軽嶋豊明朝御世。元封二弟彦命_次定二賜国造_。
下道国造 軽嶋豊明朝御世。元封二兄彦命亦名稲建別一定二賜国造_。
加夜国造 軽嶋豊明朝御世。上道国造同祖。元封二中彦命_改定二賜国造_。
笠臣国造 軽嶋豊明朝御世。元封二鴨別命_八世孫笠三枝臣。定二賜国造_。
国前国造 志賀高穴穂朝。吉備臣同祖吉備都命六世孫午佐自命。定二賜国造_。
葦分国造 纒向日代朝御代。吉備津彦命児三井根子命。定二賜国造_。
これらの9国造はいずれも吉備氏系であるが,まず吉備地方の5国造(上道・三野・下道・加 夜・笠臣)についてみてみると,その伝文は,日本書紀の応神天皇22年条の記事と対応することが明らかである。そこには,吉備に行幸した応神天皇が,吉備臣の祖の御友別が一族を率い て食膳奉仕したことをよろこび,吉備国を割いて御友別の子・兄弟に分封したとある。

西都市の3世紀中頃の古墳
西都原(さいとばる)81号墳
宮崎県西都市の西都原古墳群で2005年5月に、奈良県の向(まきむく)古墳群と並んで全国でも最古級の3世紀中ごろ(古墳時代前期)築造の前方後円墳。長さ52mで、卵形の後円部と短いバチ形をした前方部で築造された「向型」と呼ばれる特徴のある型式で、堀の一部も分かった。古墳開始期の重要な発見という。

女狭穂塚(めさほづか)は、宮崎県西都市大字三宅にある前方後円墳。

全長約180メートル、後円部直径約96メートル、後円部高さ15メートルで、九州地方最大の前方後円墳である。墳丘は三段築成で造られ葺石をともない、周囲には周濠がある。また、くびれ部には造出を持っているため、この特徴から畿内式前方後円墳であることがわかる。築造方法などから、およそ5世紀前半中頃に造られたと推定されている。

男狭穂塚(おさほづか)は、宮崎県西都市にある帆立貝形古墳。西都原古墳群に属し、帆立貝形古墳では日本最大の古墳である。

被葬者は、木花咲耶姫、瓊瓊杵命などといわれてい

九州の古墳の状況から、非常に興味深い意見が、下記のホームページにあったので、抜粋要約させて頂きます。

北部九州~中九州にかけて、装飾を持たない大型古墳と、装飾を持つ在地人的古墳がつかず離れず混在する

    福岡県吉井町の月の岡古墳と日ノ岡古墳が隣り合う
    中九州熊本でも江田船山古墳・井寺古墳などと装飾古墳が隣りあう
    筑紫君の八女では石人山古墳がそうであり、少し離れた周囲には装飾古墳がある。

大型古墳は吉備系氏族のものであろうと推測している。
装飾がなく、家型や箱型、横口式の石棺を持ち、直弧文や同心円紋のレリーフがそこにはほどこされている。さらにその装飾古墳氏族の部民や人クラスだろう横穴墓も点在する。
この様式は、北部九州が首長と海人族家臣団との二頭体制であったことを証明している。
大和では卑弥呼の時代には吉備系埴輪による祭祀が起こり、そこに全国から人が集まった形跡が出る。

九州=装飾古墳で明快にくくりたいところに、装飾のない古墳が出てきて、しかもそっちの方が古墳も、出土品も立派。

一方、装飾の分析では、その被葬者はどうやら中央から派遣された靫負(ゆげい)氏族のものもあるらしい。複雑な氏族の混在が時代を追って起きている。
だから九州だけでものを考えていたらこの問題は解けないのは当然である。大和や吉備をからめて、『日本書紀』の嘘ではないところを見出し、さらに大陸事情とつき合わせていかねばわかるはずがない。

    岡山県吉備の造山古墳群千足古墳仕切り石の直弧文と肥後型石室
    肥後北部に多い肥後型石室と直弧文
    九州式の石室で5~6世紀最も隆盛するのが石床・石障という独特のスタイルと、直弧文(ちょっこもん)。

九州有明海沿岸部の墓とまったく同じ様式の墓が、海で離れた吉備地方にも存在(千足古墳など)し、そこが吉備王家の大型古墳であろう造山古墳がある地域であるということ、そしてその造山の中から阿蘇凝灰岩製の石の破片(灰色とピンク)が出ていることから、九州と吉備の深い関係が見えることになる。

筆者が考えるのは、まず吉備王同族の隆盛が3世紀前にあり、それが纏向へと移住した痕跡があること。それが盾築遺跡で出る吉備型円筒埴輪=特殊器台と特殊壷であり、弧帯文~纏向の弧文への変化に見て取れることであるが、吉備隆盛時代には彼らが肥後・八女地域ですでに国造のような存在になっていた可能性が高いということである。
大和では3世紀以降移住しただろう吉備氏一族が、葛城氏とともに河内の王家によって弾圧を受けていくのが5世紀あたりで、この頃には半島で葛城氏らが管理していた伽耶(任那日本府)が葛城ソツヒコの奮闘むなしく新羅によって滅びたと『日本書紀』が言っており、考古学とよく符合する流れになっている。
その葛城氏の古墳からも直弧文が描かれた靫埴輪が出ている。こうして考えれば、直弧文が敗者に貼られたレッテルだろうとうすうす感じてくるのである。吉備、葛城、そして肥後・筑紫の順である。

6世紀、継体大王がそれまでの河内王家の後を引き継ぐ格好で大和に招請されて、筑紫君の反乱と書かれた動乱が突如九州の筑後地域で起きたらしい。うまくできすぎた流れになっている。ところがその継体の墓であろうとされる摂津の今城塚古墳からも、なんと阿蘇ピンク石の破片が出てきた。摂津はもともと紫金山古墳から直弧文のある鹿のあご骨が出ていて、では継体とは本当に北陸や近江から来た人なのか、筑紫にゆえんのある人なのではないのか?という大逆転の発想が、筑後の人々から出てくるのである。

時代は何百年も離れているが、顔のある石製品が筑後と吉備から出ている。筑後のは筑紫君磐井の墓であろうという岩戸山古墳から出た武装石人の顔面部分だと思われる。吉備の弧帯文石の顔は、まわりをすべて弧帯文という×のない渦巻きで張り巡らされている。この渦巻きは再生と永遠を現す模様で、吉備王家の存続の願いがこめられていると思われるが、ここに×を書き加えれば、その再生願望の遮断となるのではないかというのが筆者の持論だ。
以下 略する。

継体の墓である今城塚と磐井の墓である岩戸山は、実は相似形のそっくりさん古墳で、しかも今城塚の鶏埴輪などと岩戸山の鶏型石製品はそっくりであり、ほとんど埴輪が出てこない九州の古墳では岩戸山周辺の八女古墳群だけから円筒埴輪が出る。また岩戸山の別区は今城塚にもあり、頂上に同じように裁判などの事跡が置かれていた。どちらかが実在し、どちらかが二人にされて、同時に滅ぼされた・・・!?
継体は死後、子どもが継ぐが、『百済本紀』はそれを「天皇と皇太子二人とともに死んだ」と書くのである。
磐井の死のすぐあとの出来事なのである。そして登場したのが欽明と蘇我稲目である。ここからが飛鳥時代となるのだ。
できすぎだと思いませんか?諸君。
出典 http://germanophobic10.rssing.com/chan-6309980/all_p50.html