継体天皇
男大迹尊(書紀)、哀本杼命(古事記)
生没年: ?~継体天皇25年 42歳(古事記)、82歳(日本書紀)
在位期間 武烈8年+?(継体元年)~継体25年
父:彦主人王(応神天皇5世の孫)
母:振媛(垂仁天皇7世の孫)
皇后: 手白香皇女(仁賢天皇皇女・武烈の妹)
皇妃: 目子媛、稚子媛、広媛、麻績娘子、関媛、倭媛、夷媛、広媛2
皇子皇女: 天国排開広庭尊(欽明天皇:母は手白香皇女)、
勾大兄皇子(広国排武金日尊:安閑天皇:母は目子媛)、
檜隈高田皇子(武小広国排盾尊:宣化天皇:母は目子媛)、他皇妃との間に18人
宮:樟葉宮(大阪府枚方市楠葉)→ 筒城宮(京都府京田辺市)→
乙訓宮(大阪府三島郡)→ 磐余玉穂宮(奈良県櫻井市)
陵墓: 三島藍野陵(大阪府高槻市)
今城塚古墳
所在地 大阪府高槻市郡家新町
形状 前方後円墳
規模 墳丘長約190m/総長約350m・総幅約340m
築造年代 6世紀(古墳時代後期)
被葬者 第26代継体天皇説が有力
出土品 家形埴輪や武人埴輪等
二重の濠を区分する内堤から形象埴輪や埴輪祭祀(はにわさいし)区が出土し、出土点数や埴輪祭祀区の規模が日本最大のものである。埴輪祭祀区は、東西62-65m、南北約6mの広さで、家形15、柵形25、蓋形4、大刀形14、楯形1、靱(ゆき)形1、武人形2、鷹匠(たかしょう)形2、力士形2、冠帽男子1、座像男子4、巫女(みこ)形7、四足動物(馬形など)18、鶏形4、水鳥形13の合わせて113点以上が出土した
1847年、飛騨高山の国学者・田中大秀の起案を受けて門弟・橘曙覧、池田武万侶、山口春村、足羽神社神主・馬来田善包らにより継体天皇御世系碑が足羽神社境内に建立されている。この碑文には、大秀の研究による応神天皇から継体天皇までの系図が彫り込まれている。
これには「玉穂宮天皇大御世系」とあり、その下に「品陀和気命(御諡 応人天皇) ─ 若沼毛二俣王 ─ 大郎子(亦名 意本杼王) ─ 宇斐王 ─ 汙斯王(書記云 彦主人王)─ 袁本杼命(書記云 更名 彦太尊 御諡 継体天皇)」と彫り込まれている。
継体天皇が即位した場所は現在の大阪府枚方市楠葉で、 それまで都が営まれてきた大和や河内から遠く離れている。
しかも継体が大和に入ったのは即位から20年後(「日本書紀」別記では7年後)である。
継体という諡号(しごう)は跡継ぎの意味だが、「日嗣の皇子(ひつぎのみこ)」の嗣の字には血縁関係のある継承の意味があっても、継の字にはそれがない。つまり継体天応は前天皇と 血のつながりがないとの説がある。
別資料によれば、武烈天皇の崩御後、越前三国の王であった継体を臣下達が探し出し中央に招いたと言う。既に継体は幾人もの妃を持ち57歳であった。生前に位を譲る 譲位を日本で初めて行ったとされる継体は、皇子(安閑天皇)が即位したその日に崩御している。
一説には、継体は近江出身の豪族で、北陸・東海の豪族と連合して自力で大王の地位を獲得し、天皇の系譜を継いだ、とも言う。
継体天皇の時代には、日本は百済と関係を保っていたが、百済は任那四県の割譲を日本に要求してくる。神功皇后が新羅征伐で勝ち取って応神天皇に与えられたそれらの土地を容易く与えてしまう事に対しては、相当な抵抗勢力があったものと思われるが、結局日本はその要求を受諾してしまう。しかし、決定した大伴金村は、512年、任那4県を百済に割譲したことで、物部尾輿らの弾劾を受け失脚した。
現在の歴史学界では継体が応神の5世孫であるという点の真偽はさておき、彼が「ヤマト王権の大王位を簒奪した訳ではなく、ヤマト王権中枢の豪族の支持を得て即位した」とする説が有力である。なお継体天皇以降の天皇系譜については、『記紀』以外に根拠ある史料はない。
今日では、こうした継体天皇の出自を疑う諸説はほとんど否定されているといってよい。
それは、用語・文体などから推古天皇朝前後の時期(おそくとも7世紀末まで)に成立したと推定される『釈日本紀』所引の「上宮記曰一云(じょうぐうきいわくいちにいう)」に、応神天皇から継体天皇に至る系譜が記されているからである。 『釈日本紀』に引用されたこの文章の文字の使い方を見ると、「ひこ」を「比古」で表したり、「ひめ」を「比弥」で表したり記紀よりも古い形を残していることから、その内容も古い伝承を伝えているものと思われる。
「上宮記曰一云」の内容によると、継体天皇は応神天皇の4世の孫、汗斯王(うしのみこ)を父とし、垂仁天皇の7世の孫、布利比弥命(ふりひめのみこと)を母とする天皇家の血筋である。
そして、若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)など応神天皇の子供や孫として記紀に記される名前と一致する人名がこの系図にはいくつか記されている。
忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)
第19代允恭天皇の皇后であり、木梨軽皇子(允恭天皇の皇太子)・第20代安康天皇・第21代雄略天皇の母。父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)。母は弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)。意富富杼王(継体天皇の曾祖父)の同母妹。
日本書紀允恭紀に、允恭天皇2年春2月14日(413年3月31日)立后され、名代部として刑部(おっさかべ)が設定されたとある。このとき設定された名代部の一つが火葦北国(ひのあしきたのくに。熊本県八代・葦北地方)であるとする説がある。当地から阿蘇ピンク石という石材が産出しており、河内平野の古墳の石棺にこの石材が用いられていることから、何らかの関係があるとする見方もある。
阿蘇ピンク石製の棺材が今城塚古墳から出土したため、一般的にはピンク石の石棺そのものを継体大王の生涯と絡めて推理する論説が多いのですが、最も古い形態を残している長持山古墳石棺は「五世紀半ば」、瀬戸内市にある築山古墳石棺は「五世紀末」そして今城塚に次ぐ大きさ(墳長96m)で副葬品の豊かさから「大王級」の被葬者が想定されている峯ケ塚古墳、桜井市の兜塚古墳、奈良市の野神古墳はいずれも「五世紀末から六世紀初め」にかけての年代に築造されたと見られています。つまり、継体帝の陵墓を作る一世紀近くも前から阿蘇ピンク石は続々と「石棺材」として波頭を超えて瀬戸内回廊を運び込まれていたのです。
父:稚野毛二派皇子
母:弟日売真若比売命
同母兄:意富富杼王
同母妹:衣通姫
夫:允恭天皇
子:木梨軽皇子・名形大娘皇女・境黒彦皇子・安康天皇・軽大娘皇女・八釣白彦皇子・雄略天皇・但馬橘大娘皇女・酒見皇女
今城塚古墳から西に1.5キロメートルほどのところにある継体天皇陵は、考古学の世界では、太田茶臼山古墳と呼ばれています。墳丘の全長は226メートル。今城塚古墳よりもさらに巨大な前方後円墳ですが、発掘された埴輪の分析から、5世紀の半ばに築かれたと考えられています。つまり、継体天皇の活躍した6世紀前半よりも、半世紀以上も昔の古墳なのです。この築造年代の違いも、今城塚古墳が継体天皇の真の陵墓であると考えられている理由の一つです