継体天皇 楠葉と三島郡

樟葉
地名ですが、淀川の上流域で切り出され流れに浮かべて運ばれるクスノキ(樟・楠)に因むものと思われます。クスノキは古代、船材として非常に重宝された用材であり、樟葉が水運にゆかりの深い地名であることを示しています。

楠葉は、木津川を遡って奈良山を越えれば大和に入り、巨椋池から山科を通り琵琶湖を経由して越前につながり、淀川を下り瀬戸内海を通って筑紫に至り、半 島へと通じて行く交通の要衝に当たる。この地を熟知している荒籠 が、自らの勢力下にある楠葉での即位を進言したものと思われる。

和銅4年には「楠葉駅」が置かれており、『古事記』に「久須婆之度(くすばのわたり)」、「玖須婆之河」の記述がみえることから、古来より渡し場があった。

また、中世の樟葉には、摂関家領の「楠葉牧」があった。古代樟葉の馬牧は、継体とゆかりの深い河内馬飼首荒籠の一族の管理下にあったのではないでしょうか?
もともと樟葉は河内馬飼首一族の勢力圈だった可能性もあります。

樟葉の対岸にある摂津国三嶋郡は、継体が自身の奥津城たる今城塚古墳を構えた地
樟葉に隣接する茨田郡も、継体の后妃を出した茨田連の本拠地であり、王権の直轄地である茨田屯倉がありました。

このように、継体が樟葉に宮を置いたのには、淀川南岸地域の水運・馬牧・屯倉を一手に確実に掌握する狙いがあった?

欽明天皇が行幸したという「樟勾宮(くすのまがりのみや)」。継体の樟葉宮をそのまま伝領したか、同じ場所に建て直された宮と考えてよいと思います。

樟勾宮の名は、樟葉宮同様、上流から運ばれるクスノキ、そして河川の屈曲部を意味する「勾」から名付けられたと考えられています。おそらく樟勾宮付近の淀川屈曲部には、クス材が多数貯め置かれたのでしょう。

『書紀』には、樟勾宮において欽明天皇は蘇我稲目に命じて王辰爾に「船賦」を数え記録させたとあります。船賦は外国から船で運ばれた貢納物ないし贈答品と考えられており、港津をおさえる樟勾宮=樟葉宮は倭国の外交上、大きな意味をもっていたといえます。

大連大伴金村が越前に赴いて男大迹王を招請するが、その時仲を取り持ったのが河内馬飼首荒籠 だった。その名の通り河内の馬飼の首領である。馬飼は馬を飼育するだけでなく運搬業者であり、万一 のときの戦闘要員でもある。荒籠という名は、半島伽耶の一国であ る「安羅の人」という意味を示している。安羅はいわゆる任那日本 府があったところで倭人も多くいた。荒籠は、日本海を挟んで半島 と交易していた男大迹王と旧知の仲だった。また、振姫の里高向に は多くの古墳があって、その出土品から半島との交流が深かったこ とが知られている。男大迹王は河内国交野郡葛葉(楠葉)に進出しそこで即位の礼を行った