筑前の三輪大明神、甘木・朝倉

 大己貴神社 おおなむちじんじゃ 

福岡県朝倉郡筑前町弥永697-3
朝倉郡筑前町(旧三輪町)にあり大神神宮とも云われる。鳥居の扁額には「大神大明神」とあり、「三輪大明神」とも呼ばれる。近隣では「おんがさま」と親しまれている。

大己貴神社 夜須郡弥永村(朝倉郡三輪町弥永)にある。
 祭神一座 大己貴神〔即ち三輪大明神〕相殿〔東は天照太神、西は春日明神〕

 神功皇后元年九月に新羅を征した時に、諸国に船舶を集め、甲兵を練ばしめたが、軍卒が集まらなかった。皇后は、必ず神の心である、と言って大三輪社を立て、刀矛を奉らしめた。すると軍衆は自ら聚まった。

大己貴神社  筑前国続風土記によれば、「大神大明神は弥永村にあり、<延喜式神名帳>に 「夜須郡於保奈牟智神社小一座とあるはこれなり。祭るところの神は大己貴命なり。 今は大神大明神と称す。御社は南に向かえり。東の間に天照大神、西の 間に春日大明神を合わせ祭る。宮所神さびて、境地ことに勝れたり」

<日本書紀>に「仲哀天皇九年秋九月・庚午朔己卯(の日)、(神功皇后) 諸国に令して船舶を集めて、兵甲を練らんとせし時、軍卒集い難し、皇后曰く 必ず神の心ならんとて、大三輪社を立て、刀矛を奉りたまいしかば、軍衆 自ずと聚る」とあり、九月二十三日(旧暦ゆえ、現在の十月)祭礼ありて、この日神輿 御幸あり。御旅所は村の西・十町ばかりの処にさやのもとというところあり、これなり。 その他、年中の祭礼たびたび有りしとか。いまはかかる儀式も絶えはてぬ。 然れども夜須郡の惣社なれば、その敷地広く、産子(氏子のこと)殊に多くして、人の 尊敬浅からず」との記載がみられる。

筑前国続風土記附録にも次の記録がみられる。「神殿一間半・ 二間半、拝殿二間半・四間、(中略)この村(弥永)及び甘木・隈江・楢原・甘水・ 持丸・菩提寺・千代丸・牛水・馬田・野町・高田・依井・大塚すべて 十四村の産土神にして、夜須郡の惣社なり。頓宮地は本社の西南、八町 ばかりにあり。東南十間余り、周りに松杉植わり、中に礎石あり。神幸の 時は、ここに仮殿をも葺く。また町の中に浮殿の地あり。切り石ありて里人は 神輿林と云う。

社内に祇園社・黒殿社・八幡宮・現人社・水神・神池あり」

  

昔の地名

  

甕棺がおこなわれた地域

旧甕棺墓地域では、西暦180年頃から箱式石棺に変わるわけです。卑弥呼の時代は、箱式石棺の時代です。図は箱式石棺から出た主な遺跡、遺物です。旧甕棺墓地域において、箱式石棺がおこなわれた卑弥呼時代のものにしぼってその分布を書いたもの。

四つの中心地がある。

  

1、福岡県前原市の平原(ひらばる)のあたり。ここから非常にたくさんの遺物が出ています

2、福岡市のあたりにひとつの中心があることがおわかりいただけるでしょう。

3、甘木、朝倉のあたり

4、吉野ケ里のちょっと北側、北背振村のあたりに中心地がある。

鉄の遺跡、遺物となりますと、これは甘木、朝倉あたりが中心的になります。

装飾古墳
装飾古墳のほとんどが、熊本県の菊池川流域もしくは筑後川流域などの北部九州に集中している
さらに不思議なことには、筑後川流域には確かに装飾古墳が多いのですが、なぜか左岸、すなわち耳納連山側に限られていて、右岸、甘木・朝倉地方ではほとんど見られず、長い間、大きな謎のひとつとして注目を集めてきました。というのも、筑豊や北九州地域では早くから幾つかの装飾古墳が発見ざれていて、〃装飾古墳の連鎖〃が、甘木・朝倉地方で断ち切られてしまっていると考えられていたからです。
だが、やがて、朝倉町の宮地獄古墳や三輪町の仙道古墳、夜須町の観音塚古墳が装飾古墳であることが広く知られるようになり、装節古墳の連鎖をめぐる論議は一応の終止符を打つことになりました。しかし、いずれにしても、甘木・朝倉地方に装飾古墳が少ないことは事実です。そこで、裏返えしに推論されるのは、装飾古墳が造られた当時、甘木・朝倉地方にはそれらの勢力を全く寄せつけないほどの、強力な勢力が存在していたのではなかったかということです。甘木・朝倉地方の朝もやは濃く深く、時に風景を墨絵のように変えてしまうほど。古代史のロマンを追う人の多くは、その朝もやと古代史の幾つかの謎を重複させて、甘木・朝倉地方の当時の歴史はまだ、もやの中、だからこそ魅力があるのだと語っています。


 この域は筑前と筑後の境界あたり、「隈(くま)」地名が無数に集中する、隈の神祇の地。

 「隈(くま)」とは忌避された氏族の住地に与えられた「穢(けがれ)」なる名。「球磨(くま)」を中枢として、肥(火)に隈庄、隈部、隈府。隈本はのちの熊本。 佐嘉平野や日田には「隈」の山が並ぶ神祇。そして山隈山を神奈備としたこの夜須、三輪のあたり。

この地は神功皇后が「羽白熊鷲(はしろくまわし)」を討った地でもある。羽白熊鷲は荷持(のとり、野鳥)を拠に、夜須一帯に勢力を有していたとされる賊。また、羽白熊鷲は「熊襲」であるともされる。

 神功皇后がこの地で集めた軍勢とは、自身が滅ぼした羽白熊鷲の旧兵ではなかったか。三韓征伐では「御手長」とされた蛮夷の兵が皇后軍に従っている。

大己貴神社の異称、「おんが様」とは、大神(おおが)の意であろう

 その時代、山向こうの遠賀川河口域の水軍を率いたのは、熊襲ともされる「熊鷲」と同じく「熊」の字を冠する崗の県主の祖、「熊鰐(くまわに)」であった。

 熊鰐(くまわに)は、仲哀天皇と神功皇后の筑紫への行幸を、周芳の沙麼(さば)の浦に出迎えた族。洞海湾域の八幡、岡田神社の「熊手宮」に大国主神とともに祀られている。

大国主命裔とされる和邇(わに)氏の存在がある。新撰姓氏録は、大国主命六世孫の「吾田片隅命」を、この和邇(わに)氏と宗像氏の祖であるとする。宗像に隣接する「熊鰐」とは、この和邇氏と拘わる族ではなかったか。熊鰐の域、遠賀(おんが)とは大国主神(大神、おおが)に由来する。

吾田(あた)は、薩摩半島の隼人域、阿多海人の中枢、「阿多」を想起させる。神話における和邇(鰐)とは「鮫」であり、同族とされる宗像(胸形)氏の名が胸の入墨に起因し、隼人に纏わる狗人が入墨を習俗とする。

宗像大社の対岸、多礼の「指來神社(孔大寺神社)」の縁起は、神功皇后の三韓征伐において御旗を司った指來(さしたり)明神とは「阿蘇津彦命」であると伝える

宗像大社の傍、九州最北の装飾古墳「桜京古墳」石室の赤、青の鮮烈な色彩の顔料で塗り分けられた「連続三角文」などは、狗人の域、肥(火)の系譜を継ぐもの。隼人の楯や、免田式土器あたりにみる南方系の鋸歯紋。

日向国一ノ宮、都農神社の祭神が「大巳貴神(大国主神)」であり、天孫の本地、日向の国魂が出雲の主神であった

太宰府天満宮の本殿の東、鬱蒼とした樹叢に覆われた域に摂社、末社群が鎮座している。
 最も奥の山中には、櫛田の大幡主神、武内宿禰、玉依姫命、素盞雄命などの祠、天穂日命、天照大神のやや大きな社(やしろ)が並ぶのであるが、中央の一際、大きな社には「大物主神(大国主命)」が祀られている。殊に、この末社群の「主神」の扱い。

 最高神たる皇祖、天照大神を差し置いての大国主神のこの扱いは、太古の信仰の痕跡ともみえる。

大和国一宮が「大物主神(大国主神)」を祀る大神神社であり、神無月の大国主神の許に、日本中の神が集まるというのであれば、正しく、大国主神の出雲は太古の或る時代、この列島を統治していたのであろう。

羽白熊鷲の碑
仲哀天皇御代、木免(きづ)の国(筑紫の国)に未だ皇命を奏ぜぬ部族あり。その長(おさ)を羽白熊鷲(はじろくまわし)という。荷持田(のとりだ)に盤拠し権力遥かに想像を絶す。
 
神功皇后 新羅征討の途次、橿日宮(かしいのみや・香椎宮)に出陣中なりしが、かかる形勢を関知し、まず内患を断つ事の急務なるを悟り、従駕の臣・武内宿禰(たけうちのすくね)等と審議の末、巨魁羽白熊鷲を征討する事に決せり。

神功皇后ただちに軍容を整え、仲哀天皇9年(西暦391年)3月橿日宮を経て松峡宮に至り、激戦死闘の結果、ついに層増岐野において強敵羽白熊鷲の軍勢を殲滅(せんめつ)、この時聡明かつ沈着な神功皇后、左右を頼み「熊鷲を収得し我が心即ち安し」とのたまう。

羽白熊鷲の覇権の強大さここに歴然たり。
おもうに古代、我が郷土に一世を風靡せし人物を知らず。いま彷彿として羽白熊鷲の勇姿脳裏に去来す。われらはここに永遠に不滅の羽白熊鷲をねんごろに顕彰し碑を建立して辞となす。
平成14年12月  山本辰雄 謹選