竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原

古事記に、イザナギの大神は、亡くなった妻に会いに黄泉の国に行って、妻の亡骸を見てしまいます。

イザナギが黄泉の国から還って来た場面に、

ここでイザナギは「私は、いやな見る目も厭わしい穢れた国に行ったものだ。だから、私はわが身の禊(みそぎ)をしよう」とおっしゃられて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到り着くと、禊ぎ祓いをされた。

その時、投げ捨てた御杖から成った神の名は衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)。

次に、投げ捨てた御帯から成った神の名は道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)

次に、投げ捨てた御袋から成った神の名は、時量師神(ときはかしのかみ)

次に、投げ捨てた御衣から成った神の名は、和豆良比能宇斯能神(わづらひのうしのかみ)

次に、投げ捨てた御袴から成った神の名は、道俣神(ちまたのかみ)

次に、投げ捨てた御冠から成った神の名は、飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)

次に、投げ捨てた左の御手の装身具から成った神の名は、奥疎神(おきざかるのかみ)

次に奥津那藝佐毘古神(おきつなぎさびこのかみ)

次に奥津甲斐辨羅神(おきつかひべらのかみ)

次に、投げ捨てた右の御手の装身具から成った神の名は、邊疎神(へざかるのかみ)
次に邊津那藝佐毘古神(へつなぎさびこのかみ)

次に邊津甲斐辨羅神(へつかひべらのかみ)

右のくだりの船戸神以下、邊津甲斐辨羅神までの十二神は、身に着けた物を脱ぐことによって生まれた神である。

ここで(イザナギ)は「上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れが弱い」とおっしゃられて、初めて中の瀬に潜り降りてすすいだ時、成った神の名は、

八十禍津日神(やそまがつひのかみ)。次に大禍津日神(おほまがつひのかみ)。この二神は、その穢らわしい国にたどり着いた時の穢れによって成った神である。

次に、その禍を直そうとして、成った神の名は、神直毘神(かむなほびのかみ)。
次に大直毘神(おほなほびのかみ)。次に伊豆能賣神(いづのめのかみ)。

日本書紀の海幸・山幸彦の話の橘の小戸

第十段一書(四)−1八尋鰐は鰭背を立てて橘之小戸に
ある書によると……
兄の火酢芹命(ホノスセリノミコト)は山の幸利(サチ)を得ました。弟の火折尊(ホオリノミコト)は海の幸利(サチ)を得ました。云々。
弟は悩み彷徨って、海辺に居ました。そのときに鹽筒老翁(シオツツノオジ)に会いました。老翁(オジ)が尋ねました。
「どうして、あなたはこれほどに困っているのですか?」
火折尊は答えました。云々。
老翁は言いました。
「もう心配することはありません。 わたしがどうにかしましょう」
そして言いました。
「海神が乗る駿馬(=優れた馬)は、八尋鰐(ワヒロワニ=大きな鰐)です。八尋鰐は鰭背(ハタ=背びれ)を立てて橘之小戸(タチバナノオド)にいます。その鰐に相談してみましょう」
火折尊を連れて、鰐に会いに行きました。

一書曰、兄火酢芹命、得山幸利。弟火折尊、得海幸利、云々。弟愁吟在海濱、時遇鹽筒老翁、老翁問曰「何故愁若此乎。」火折尊對曰、云々。老翁曰「勿復憂、吾將計之。」計曰「海神所乘駿馬者、八尋鰐也。是竪其鰭背而在橘之小戸、吾當與彼者共策。」乃將火折尊、共往而見之。

第一の説   宮崎県:小戸大神宮

小戸大神宮は神代の昔、伊邪那伎命が御禊祓(みそぎはらえ)の神事を行われた尊い地であり、皇祖天照皇大神を始め、住吉三神、他神々が御降誕され、神功皇后の御出師および凱旋、上陸された実に由緒深い神社であります。
全国の神社で奏上されております祓詞の中に小戸の地名が入っております。

その祓詞を訳してみると
筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸の阿波岐原で
イザナギの大神が禊祓いをされた時に生まれた大神たちよ。
いろいろな災難や罪や穢れを祓ってください、清めて下さい。

第二の説 志賀海神社の元宮がある所

  1. ここも小戸です。

そこにはイザナギの命が禊をした時に生まれた海の三神がそのまま祀られています。この志賀海神社は博多湾の総鎮守であり、その御祭神の綿津見神はイザナギの大神の禊で生まれています。

志賀海神社

神代より「海神の総本社」「龍の都」と称えられ、玄海灘に臨む海上交通の要衝である博多湾の総鎮守として志賀島に鎮座し、厚く信仰されている志賀海神社は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらい)によって御出生された綿津見三神を奉祭している。

第三の説 阿波の橘湾