神武、綏靖、安寧天皇

天 皇 名  初 代 神 武天皇
御 陵 名  畝 傍 山 東 北 陵
御名・異称 彦 火 々 出 見
      神 日 本 磐 余 彦 尊
      始 馭 天 下 之 天 皇
       宇禰備能可志婆良能宮御宇天皇
生誕~崩御 ? ~ 神 武76年3月11日
即 位   神 武 元年1月1日
皇 居   畝 傍 橿 原 宮
御 父   彦波瀲武盧鳥茲鳥草葺不合尊
御 母   玉 依 姫 命
皇 后   媛 蹈 鞴 五 十 鈴 媛 命
所 在 地  奈良県橿原市大久保町字ミサンザイ
古 墳 名   ミ サ ン ザ イ 古 墳
墳   形   円   墳
日本書紀によると

神武天皇には、
彦五瀬命(ひこいつせ)、
稲飯命(いなひ)、
三毛入野命(みけいりの)という兄弟がいた。
神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇は、諱が彦火々出見で、彦波瀲武盧鳥茲鳥草葺不合尊の第四子である。母は玉依姫といい、海童(わたつみ)の妺娘である。
天皇は、生まれつき明らかに道理に通じ、意思が確固としていた。年十五で太子となった。長じて日向の国の吾田邑の吾平津媛(あひらつひめ)を娶って妃とした。
手研耳命(たぎしみみのみこと)を生んだ。
年45歳になって、兄たちと子供たちにこう言った「昔、わが天神、高皇産霊尊、大日孁尊は、この豊葦原の瑞穂の国をすっかり、わが天祖の彦火瓊瓊杵尊にさずけた。そこで火瓊瓊杵尊は、天の関〔所〕を開き、雲の路をおしわけ、〔遠く〕駆けて行幸し、瑞穂国に到着した。この時、世の運行は、太古に属し、時は、草創の闇に集まっていた。それで蒙(くら)いなか正を養い、この西の偏〔土〕を治めた。皇祖、皇孝〔父〕は、神聖で、善政を積み、恩沢の光を重ねて、多くの年が経った。天祖が降ってから、今まで179万2470余年。しかるに、遼遠の地は、いまなお皇化の恩恵を受けていない。あげく邑に君がいて、村に長がいて、各自境を分って、たがいに侵犯している。さてまた、塩土老翁に聞くと、『東に美しい地がある。青い山が四周して、その中にまた天磐船に乗って飛び降りる者がいる』という。余が思うに、その地は必ず大業をひろめ、天下に〔天子の徳を〕及ぼすのに十分な地である。およそ六合の中心であろう。その飛び降りる者とは、饒速日というのか。なんとしても〔そこへ〕行き都としなければならぬ」云々・・・。
そして神武天皇は即位前紀1年の冬10月5日に水軍を率いて東征に発進しました。
速水門(はやすいのと)⇒筑紫国の菟狭(うさ)⇒筑紫国の岡の水門⇒安芸国の埃(え)の宮⇒吉備国の高島宮⇒そして河内国の草香邑(くさかむら)に着き進軍し、生駒山を越えて孔舎衛坂(くさえざか)で長髄彦(ながすねひこ)の軍勢と合戦し、彦五瀬命に矢が当たり負傷し、神武天皇の軍は形勢不利となり、一旦退却して、紀伊半島を南下し、熊野の地に上陸して、再び都と成す地へ向かって進軍していきました。
辛酉(かのととり)の年、春正月1日、天皇は橿原の宮で帝位についた。この年を天皇の元年とする。

古事記によると
 神武天皇には、父の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえず)と、母の玉依毘売命から生まれた、五瀬命(いつせ)、稲氷命(いなひ)、御毛沼命(みけぬ)、の兄弟がいた。 神武天皇は末弟で、若御毛沼命(わかみけぬ)、またの名は豊御毛沼命(とよみけぬの)、またの名は神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこ)という。
御毛沼命は、波の穂を踏んで常世の国に渡って行き、稲氷命は、妣の国へと言って、海原に入ってしまった。
 
神倭伊波礼毘古命と、五瀬命との二柱の御子は、高千穂の宮に坐して話し合い、神倭伊波礼毘古命は、兄の五瀬命にいった。「いかなる地に住まいすれば、平らかに天の下のまつりごとを治める事ができましょうか。ここから出て東に行きませんか」。そして、二人はすぐさま日向の高千穂の宮を発って筑紫に向かったのだ。
高千穂の宮⇒豊の国の宇沙⇒筑紫の岡田の宮⇒安芸の国の多祁理の宮⇒吉備の高島の宮⇒速吸の門⇒波速(なみはや)の渡りを経て、青雲のきれいな白肩(しらかた)の津に泊(は)てた。 するとこの時に、登美に住む那賀須泥毘古が、軍の備えをして待ち迎えて挑んできたのだ。云々・・・。

天 皇 名    第 2 代 綏 靖 天 皇
御 陵 名   桃 花 鳥 田 丘 上 陵
御名・異称  神 渟 名 川 耳 尊
生誕~崩御 ? ~ 綏 靖33年5月10日
即  位    綏 靖 元 年 1 月 8 日
皇  居    葛 城 高 丘 宮
御  父    神 武 天 皇           
御  母    媛 蹈 鞴 五 十 鈴 媛 命
皇  后    五 十 鈴 依 媛 命
所 在 地    奈 良 県 橿 原 市 四 条 町
古 墳 名    塚 山 古 墳
墳  形    円  墳

日本書紀によると
 
庚申の年〔神武天皇即位前紀7年〕、秋8月16日、天皇は正妃を立てようとした。 あらためてひろく貴族の子女を求めた。 ときにある人が奏した、「事代主神が、三嶋溝橛耳神の娘・玉櫛媛と共〔寝〕して生まれた子で、媛 蹈 鞴 五 十 鈴 媛 命といいますが、国中でいちばん美しい」と。 天皇はよろこんだ。 9月24日媛 蹈 鞴 五 十 鈴 媛 命を正妃にむかえた。
辛酉の年〔神武天皇元年〕、正妃を尊んで皇后とした。 
皇子の神八井命と、神渟名川耳尊を生む。
神武天皇42年、春正月3日、皇子、神渟名川耳尊を、皇太子に立てた。
神渟名川耳天皇は、神日本磐余彦天皇〔神武天皇〕の第3子だ。天皇は風姿が幼いときから秀でていた。 少年にして雄々しく抜きでた気力があった。 壮年になると容貌が堂々と立派だった。 武芸は人にすぐれて、志は高くおちついて動じることがなかった。 48歳になって、神日本磐余彦天皇〔神武天皇〕が崩じた。 
その庶兄、手研耳命は、すでに高年で、久しく政にあずかってきた。 しかしその王は、…邪心をつつみかくして、二人の弟を殺そうとはかった。 ときに、太歳は己卯。
冬11月、神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命と、ひそかにその〔手研耳命の〕意図を知り、善く防いだ。…。
綏靖天皇元年、、春正月8日、神渟名川耳尊は天皇位に即いた。 葛城に都した。 高岡の宮といった。…。
綏靖天皇2年、春正月、五十鈴依媛(いすずよりひめ)を皇后にした。…・
綏靖天皇33年、夏5月、天皇が病気になった。 癸酉(みずのととり)〔の日に〕崩じた。 ときに年は84〔歳〕だった。

古事記によると

神沼河耳命は、葛城の高岡の宮に坐して天の下を治めたもうた。 この大君は、師木の県主の祖の河俣毘売を妻として、生んだ御子は師木津日子玉手見命、一柱である。
大君の御年は、四十あまり五歳〔45歳〕、御陵は衝田(つきた)の岡にある

第 3 代 安 寧 天 皇
畝 傍 山 西 南 御 陰 井 上 陵

御名・異称  磯 城 津 彦 玉 手 看 尊
生誕~崩御 ?~安寧38年12月6日
即  位    綏 靖33年7月3日
皇  居    片 塩 浮 穴 宮
御  父    綏 靖 天 皇
御  母    五 十 鈴 依 媛 命
皇  后    淳 名 底 仲 津 媛 命
奈 良 県 橿 原 市 吉 田 町
墳  形    山  形

日本書紀によると

磯城津彦玉手看天皇は、神渟名川耳天皇の太子である。母は五十鈴依媛命(いすずより)といい、事代主神(ことしろぬし)の少女(次女)である。
天皇は、神渟名川耳天皇の25年に、皇太子となった。年は21歳だった。33年の夏5月、神渟名川耳天皇が死んだ。その年の7月3日に、太子は天皇位に即いた。
元年、冬10月11日、神渟名川耳天皇を倭(やまと)の桃花鳥田(つきだ)の丘(岡)の上(ほとり)の陵に葬った。皇后(五十鈴依媛命)を尊び皇太后と呼んだ。この年、太歳は癸丑(みずのとうし)。
2年、都を片塩に遷した。これが浮孔(うきあな)の宮である。
3年、春正月5日、淳名底仲津媛命(ぬなそこなかつ)(または淳名襲媛〔ぬなそひめ〕という。)を皇后に立てた。
(一書はいう、磯城の県主葉江(あがたぬしはえ)の娘、川津媛。一書はいう、大間宿禰の娘、糸井媛。) 
これより先、后は二皇子を生んだ。
第一を息石耳命(おきそみみ)といい、
第二は大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとも)である。
(一〔書〕はいう、三皇子を生む。第一を常津彦某兄(とこつひこいろね)といい、第二を大日本彦耜友天皇といい、第三を磯城津彦命(しきつひこのみこと)という。)
11年、春正月1日、大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)を皇太子に立てた。弟の磯城津彦命は、猪使連(いつかいのむらじ)の始祖である。
38年、冬12月6日、天皇が崩じた。ときに年は57〔歳〕。

古事記によると

師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみ)は、片塩浮穴宮に坐して、天の下を治めた。この大君は、河俣毘売(かわまたびめ)の兄、県主波延(あがたぬしはえ)の娘阿久斗比売(あくとひめ)を妻として、生んだ御子は常根国津日子伊呂泥命(とこねつひこいろねのみこと)、次に大倭日子鋤友命(おほやまとひこすきとものみこと)、次に師木津日子命(しきつひこのみこと)。この大君の御子たちは皆で三柱で、その中の大倭日子鋤友命が後を継いで天の下を治めた。
また、末の御子師木津日子命には、子が二柱坐して、一人の子と、その孫とは、伊賀の須知(すち)の稲置(いなき)、那婆理(なばり)の稲置、三野(みの)の稲置らの祖である。
また一人の子の和知都美命(わちつみのみこと)は、淡道(あわじ)の御井宮に坐したが、この方には二人の娘があって、兄(え)の名は蠅伊呂泥(はへいろね)、またの名は意富夜麻登玖迩阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)、弟(おと)の名は蠅伊呂杼(はへいろど)という。
この師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)の大君の御年(みとし)は、四十(よそとせ)あまり九歳(ここのとせ)で、御陵は畝火の山の美富登(みほと)にある。

橿原、桜井、磯城の辺り
弟磯城は磯城県主に任命されこの地域を支配したという。新撰姓氏録によれば、磯城県主は天津饒速日命(あまつにぎはやひのみこと)の末裔となっており、その一族が祖神をこの神社に祀っていることになる。ちなみに、御県とは天皇家直属の皇室領のこと。大和国には6カ所(高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布)に御県があった。

磯城県、十市県が先行したか?

磯城県主について、神武紀は、弟磯城(名を黒速)をその始祖とし、師木、ハエ、速の名の付く後裔が出ます。
『日本書紀』本文は孝霊天皇の皇后を磯城県主の娘の細媛とするほか、一書に綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝安天皇の皇后も磯城県主の一族に出自を持つとしています。
『古事記』も同様で、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇について、師木県主の一族から后妃を立てていたといいます。

アヂスキタカヒコネ(アヂシキタカヒコネとも)は、日本神話に登場する神。 『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、『出雲国風土記』 では阿遅須枳高日子と表記する。また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記される 。師木に住んでいた可能性が高い。