白村江の戦い(663年)の後、唐側の使者として665年に来日した百済人、祢軍の墓誌が中国で見つかり、その中に「日本」という文字があり、「最古の国号」ではないかと注目されている。
白村江の戦いの翌年、天智天皇三年(664)五月に郭務悰らが派遣されている。天智天皇四年九月に、唐の使者劉徳高等が来たと書かれており、「等」とは百済禰軍と郭務悰のことだと書かれています。
朝日新聞(2011年10月23日)のネット記事。
「中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、「日 本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は 678 年の作と考えら れるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。 大宝律令( 701 年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼること になる。 ・・・祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。
884 文字あり、 678 年 2 月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。 百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、 663 年に白村江(はくそんこう)の戦い で唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘噍據扶桑以逋誅」 と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」とい う意味で、そうした状況を打開するため百済の将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記し ていると気賀沢教授は説明する。」以上
気賀沢教授の解釈
碑文の「日本餘噍據扶桑以逋誅」を原文に従って読めば、「日本の餘噍は、扶桑によって、もって誅からにげる。」となる。
「扶桑」は、中国神話で東方にある太陽を生む樹と言われ、同じく東方にある日本をも指す。
「據」は、「依也。引也。援也。拒守也。」(『康煕字典』)。
「逋」は、「亡(にげる)也」(『説文』)。
「誅」は、「小國敖、大國襲焉、曰誅。<小国おごり、大国これを襲うことを誅という>」(『晋語』)、「罰也」(『玉篇』)。
しかし、気賀沢教授の「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり」という解釈はどこから出てくるのか? また「扶桑」を「日本」とすれば、「日本に依って」となり、意味は「日本に守られて」となる。これでいくと語句先頭の「日本」と「国」の意味
の詞が重複する。気賀沢教授はこの「日本」の文字を「国号」と考えているようです。
墓誌の主人公である「祢軍」であるが、『日本書紀』にも彼の記事が下記のようにある。
『日本書紀』天智天皇四年(六六五)九月壬辰《廿三》 「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等〈等謂右戎衛郎將上柱國百濟禰軍。朝散 大夫上柱國郭務○。凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬。九月廿日至于筑紫。廿二日進表函焉。〉」
「右戎衛郎將上柱國百濟禰軍」が「祢軍」である。
時期としては百済が「唐、新羅 連合軍」により滅亡に追いやられた時期にあたり、その中の「白村江の戦い」とは、「日 本、百済残党連合軍」と「唐、新羅連合軍」が対峙した一つの戦いである。(結果は「日 本、百済残党連合軍」の惨敗に終わる。)
祢軍は、その碑文冒頭に「公諱軍、字温、熊津蝸夷人也。」とあるように百済の人であ る。続いて「其先與華同祖、永嘉末、避亂適東、因遂家焉。」とあり、その祖先は、西晋 末の時に「永嘉の乱」をのがれてきた中国人であると言う。そして百済に臣下として仕 え、「曾祖福、祖譽、父善、皆是本藩一品、官號佐平。」とあるように、曾祖父、祖父、 父が「佐平」と言う百済で最高位の官職を務めた家柄でもあったと記す。『海外国記』に は「・・・百済佐平禰軍」とあり、彼自身も「佐平」の地位にあったものと思われる。 次に、「去顯慶五年( 660 年)官軍平本藩日、見機識変、杖劍知歸、似由余之出戎、如金 磾之入漢。」<去る顯慶五年( 660 年)、官軍(唐軍)本藩(百済)を平らぐ日、機を見 て変を識って、剣を杖つき、(唐に)帰すことを知る。(これ)由余の戎を出でることに 似、金磾の漢に入るが如し。>と碑文にあります。
「由余」は、西戎の人だが先祖は中国人。
「金磾」は、元匈奴の人だが後に漢の臣下となる。
顯慶五年( 660 年)とは、百済王(義慈王)とその王子(扶餘隆)が、唐に降り「百済王 朝」が滅亡した年で、日本では斉明天皇六年にあたる。碑文での「官軍」とは「唐軍」で あり、それに抵抗した「百済」は「賊軍」扱いと言える。そして「聖上嘉嘆、擢以榮班授 右武衛滻川府析衝都尉。」<聖上(唐の高宗)がほめ嘆じて、あげるに、栄班をもって し、右武衛滻川府析衝都尉を授ける。>と彼は唐の官職を受け、唐の臣下になったことを 記す。
この文言の直後に「于 時日本餘噍、據扶桑以逋誅。風谷遺氓、負盤桃而阻固。」とある。
碑文に「于時日本餘噍・・・」<時に、日本の餘噍・・・>とあるので、時期としてはこの顯慶五年であろう。この時期の『日本書紀』での記述は、
『日本書紀』斉明天皇六年(六六〇)九月癸卯《五》 「百濟遣達率。〈闕名〉沙彌覺從等來奏曰。〈或本云。逃來告難〉今年七月。新羅恃 力作勢不親於隣。引搆唐人。傾覆百濟。君臣總俘、略無噍類。・・・ 於是西部恩率鬼室福信赫然發憤據任射岐山。〈或本云。北任叙利山〉達率餘自進據中 部久麻怒利城。〈或本云。都々岐留山。〉各營一所誘聚散卒。兵盡前役。故以庁戰。 新羅軍破。百濟奪其兵。既而百濟兵翻鋭。唐不敢入。福信等遂鳩集同國。共保王城。 國人尊曰佐平福信。佐平自進。唯福信起神武之權。興既亡之國。」
ここに、百済が滅亡し、その王族の一員である福信が百済残党のリーダーとなり、唐、新 羅連合軍に抵抗活動を続け、日本側に、日本にいる「王子豐璋」を迎えて百済王とし、亡 国を復興することや援軍を求め、斉明天皇がそれらを決定するまでが記述される。つまり この時期は 660 年であり、 663 年の「白村江の戦い」の前と言える。 また唐側史料と言える『資治通鑑』「巻二百唐紀十六高宗上之下」に、「主上欲滅高 麗、故先誅百済」とあり、その原因と「誅」の対象は「百済」であることが簡潔に述べら れる。
「書紀」によれば「救援軍派遣」は「百済滅亡」の一年後である「六六一年八月」であり、また「倭国」に「人質」となっていた「扶余豊」を「百済国王」に据えるべく派遣したのが翌九月とされています。
しかし、この記事自体がすでに「旧唐書」や「資治通鑑」とも食い違っていると考えられるのです。
「資治通鑑」
「龍朔元年(六六一年)(辛酉)三月初,蘇定方即平百濟,留郎將劉仁願鎭守百濟府城,又以左衞中郎將王文度爲熊津都督,撫其餘衆。文度濟海而卒,百濟僧道探、故將福信聚衆據周留城,迎故王子豐於倭國而立之,引兵圍仁願於府城。」
これによれば「三月初」という区切りの書き方で旧「百済」の将である「鬼室福信」などが「扶余豊」を王に迎えて、百済に居残っていた唐の将軍「劉仁願」の城を包囲したと書かれています。
このことは上に挙げた「書紀」の「六六一年九月」の「扶余豊」帰国記事と大きく食い違うものです。
従来の考え方では、滅亡した百済の残存勢力の代表である「鬼室福信」から「百済再興」の計画を持ちかけられ、「倭国」に人質となっていた「扶余豊」を「百済国王」に据えることとして、軍を添えて送ったのが「六六一年九月」のことであり、この時点以降、「唐」「新羅」と戦いになったというように理解されてきましたが、この墓誌によれば(資治通鑑によっても)異なっていることとなります。
そもそも「百済」滅亡という「緊急事態」に対して、すぐに行動せず、「一年後」の軍の派遣というのでは「遅きに失する」と思われます。「危急」の事態に対する対応として、はなはだ「不自然」ではないかと思われるわけです。
<八月に、前将軍大花下安曇比羅夫連・小花下河辺百枝臣ら、後将軍大花下阿倍引田比羅夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石らを遣わして、百済を救はしむ。よりて兵杖・五穀を送りたまふ。(本注:ある本に、この末に継ぎて曰く、別に大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津を使わして、百済を守護らしむという。)>(天智即位前紀、661年)
<九月の(23日)に、唐国、朝散大夫沂州司馬(きしゅうのしば)上柱国劉徳高等を遣わす。(本注:等というは、右戎衛郎上柱国百済禰軍(ねぐん。人名)・朝散大夫柱国郭務悰をいう。すべて二百五十四人。七月二十八日に、対馬に至る。九月二十日に、筑紫に至る。二十二日に表函を進(たてまつ)る。)…十二月の…に、劉徳高等、罷り帰りぬ。この歳、小錦守君大石らを大唐に遣わすと、云々。…(本注:…蓋し唐の使人を送るか。)>(天智紀四年条、665年)
軍使の往来に三年のズレ、旧唐書年との一年のズレを勘案すれば、これは665年ではなく四年前の661年、半島では冬の陸戦がこれから起る…という時期です。
「餘噍」とは
先に引用した『日本書紀』のところに(赤字部分)、「傾覆百濟、君臣總俘、略無噍類。」<百済をかたぶけ覆し、君臣みなとりことなり、ほぼ噍類(のこれるたぐい)無し。>とあり、碑文の「餘噍」とは、百済の「君臣」の残族であると推定できる。また「書紀」の「福信赫然發憤據任射岐山・・・唐不敢入」は、碑文の「風谷遺氓、負盤桃而阻固。」<風谷の遺民、盤桃を負いて阻固なり。>に対応するであろう。
碑文の問題語句の「時期」は、 660 年斉明天皇六年であり、「餘噍」と は、当時日本にいた百済の王族や臣下達である。よってその解釈は「時に、日本の餘噍(百 済の王族やその臣下達)は、罰をのがれた。」となる。
「墓誌銘で実際、倭国は‘ヘジュァ(海左:海東側)’、‘ヨンドン(瀛東:中国東側)と表記さ れた」
「海外国記」
相国寺の瑞渓周鳳が文明二年(1470)に著した『善隣国宝記』の巻の上にあり、元永元年(1118)4月の大外記中原師遠・師安・広宗広忠・清原信俊らの勘申から引用したものであり、9世紀末に藤原佐世の撰した日本国現在書目録の土地家部の「海外記卌巻」、13、4世紀頃に成った本朝書籍目録の地理部の「海外国記四十巻(天平五年、春文撰)」とあるのと同じ書物とみられる、とある。つまりこの「海外国記」は天平五年(733)に撰せられたものであり、『日本書紀』以外に、この時代を知る史料として非常に貴重なものということになる。
海外國記曰、天智天皇三年四月、大唐客來朝、大使朝散大夫上柱國郭務悰等卅人・百濟佐平禰軍等百餘人、到對馬島、遣大山中采女通信侶・僧智辨等來、喚客於別館、於是智辨問曰、有表書幷獻物、以不、使人答曰、有將軍牒書一函幷獻物、乃授牒書一函於智辨等而奉上、但獻物撿看而不將也、
九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博德・僧智辨等、稱筑紫大宰辭、實是勅旨、告客等、今見客等來状者、非是天子使人、百濟鎭將私使、亦復所賚文牒、送上執事私辭、是以使人不得入國、書亦不上朝廷、故客等自事者、略以言辭奏上耳、
十二月、博德、授客等牒書一函、函上著鎭西將軍、日本鎭西筑紫大將軍、牒在百濟國大唐行軍摠管、使人朝散大夫郭務悰等至、披覽來牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書、唯是摠管使、乃爲執事牒、牒是私意、唯湏口奏、人非公使、不令入京、云々、
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/note47.html
『日本書紀』の「郭務悰を発て遣す勅を宣たまふ」、解説の「勅」「筑紫大宰の言葉」は「海外国記」の九月条にあった。そこには、実は勅であるが、筑紫大宰の言葉として、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁らが、郭務悰らに、あなたたちは百済鎮将の私の使であるから、国に入れることはできないと告げ、郭務悰らは国、つまり日本(ヤマト)への入国を許されなかった、ということが書かれている。
また十二月条には、博徳が郭務悰らに函(牒書)を授けたが、そこには「鎮西将軍」と書かれており、中には、日本の鎮西筑紫大将軍が百済国に在る大唐行軍総管に牒す・・・とあり、今度は口頭ではなく、牒書をもって郭務悰らの入京を許さなかったことが書かれている。
つまり『日本書紀』がいう「郭務悰を発て遣す勅を宣たまふ」、解説の「勅」「筑紫大宰の言葉」とは、唐客郭務悰らに対し、あなたたちは百済鎮将の私の使であるから、国に入れることはできない、という内容であったことがわかる。
日本(ヤマト)が白村江の戦いの敗戦国だったとしたら、たとえ国書ではないからといって、このような強硬な態度をとることが果たしてできただろうか。相手は牒書の意味など百も承知している本家本元の国なのである。白村江で戦って負けた倭が日本(ヤマト)だったとすると、日本(ヤマト)のこの態度には大きな疑問を抱かざるを得ないのである。
「海外国記」は「大唐客來朝・・・到對馬島」「遣大山中采女通信侶・僧智辨等來、喚客於別館」と書き、ヤマトは大山中采女通信侶・僧智弁等を対馬に遣り、郭務悰らを別館に迎えたことがわかる。問題はこの「別館」がどこにあったのかである。
十二月条の「鎭西將軍」は「日本鎭西筑紫大將軍」のことであり、「筑紫」とあるから、この将軍は、鎮西のために任命され筑紫に派遣されたか、もともと筑紫にいたものが鎮西将軍に任命されたかのどちらかではないかと思われる。いずれにしても、頭に「日本」がつくから、ヤマトが任命したもの、ということになる(頭の「日本」は、このときはまだ「倭(ヤマト)」だったかもしれない)。
ここで重要なのは、九月の「稱筑紫大宰辭」と十二月の「日本鎭西筑紫大將軍牒・・・」は、郭務悰らが筑紫より東には行っていないことを示している、ということである。なぜなら、もし彼らがすでに筑紫より東に行っていたら、筑紫大宰の言葉も、筑紫大将軍の牒も何の意味も成さないからである(鎮西将軍の役目は、筑紫の混乱を防ぐことと、外国からの侵入を筑紫でくい止めることだったのではないかと思われる)。
対馬に迎えが来たのだから、別館は対馬にはない。そこでは筑紫大宰の言葉を告げられ、筑紫大将軍の牒を渡された(国に入ること、京に入ることを許さない、という内容)。したがって、そこは筑紫より東ではない。
このようなことから、唐の客等が通された別館は筑紫の大宰、つまり後の大宰府にあったと推測され、また筑紫はヤマトの勢力範囲外にあったことがわかるのである(筑紫にいてヤマト入国を許されなかったのであるから、筑紫はヤマト圏内ではなかったということ)。
この「海外国記」には「鎮西将軍」が登場するが、これと反対の名を持つ称号がある。『宋書』倭国伝の倭王・珍に与えられた「安東将軍」である。
私は「鎮西将軍」という称号に出合うまで、「安東将軍」というのは、「安東大将軍」以外に珍が求めた「使持節都督倭・新羅・任那・(加羅)・秦韓・慕韓六国書軍事」を含んだ称号だと思い込んでいた。しかしこのあと、『宋書』倭国伝の、倭王済のとき(451年)、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国書軍事」が加えられ、「安東将軍」はもとのままだったとあるのを改めて見て、「安東将軍」と「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国書軍事」は、その対象地域が異なっているのではないかと思うようになったのである。
倭にとって、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓はその北にあり、東ではない。「安東」を中国から見て東の国々のことだと解釈しても、それならそれまでの「安東将軍」だけで「使持節都督倭・新羅・任那・(加羅)・秦韓・慕韓六国書軍事」は必要ないのではないか。
百済王は、義煕十二年(416)に「使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」、元嘉二年(425)に「使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王」を与えられているが、仮に、宋がそれまで百済に与えていた「鎮東」の一部を分割し倭王済に与えたと考えても、それではなおさら、「安東」には朝鮮半島南部諸国は含まれていなかったことを証明することになる。
このように、倭王済に対し、「安東将軍」に加えて「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国書軍事」が与えられたという事実は、当初の「安東将軍」の「安東」には朝鮮半島南部諸国は含まれていなかった、と解釈してもよいことを意味する。
それではこの「安東」の「東」とはどこを指すのか、ということになるが、それは「鎮西将軍」と一緒に考える必要がある。「安東将軍」は6世紀中頃のことであり、「鎮西将軍」は7世紀半ば過ぎのことであり、「鎮西将軍」の方が1世紀以上後のことになる。
唐の劉仁願は百済鎮将であり、朝鮮半島南部はすでに唐と新羅が牛耳っていた。したがって「鎮西」の「西」とは朝鮮半島南部のことではなく、「日本鎮西筑紫大将軍」という称号からすると、それは筑紫であることがわかる。筑紫は大和から見て西であり、大和は筑紫から見て東である。「安東将軍」より1世紀以上後の時代でも、筑紫は「鎮西」の対象であるということは、九州はそれまでヤマトの勢力範囲に入っていなかったことを意味する。またすでに述べたように、このことは、筑紫における「不得入国」「不令入京」によっても証明される。
これを踏まえて「安東」について考えると、その起点を近畿大和としたのでは、少なくとも九州は全くの空白となってしまい、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国書軍事」というのも何かおかしなことになる。しかしその起点が九州だったとすれば、「安東」の対象は九州より東の大和を含んだ地域のこととなり、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国書軍事」も、その間に隙間の地域をつくることもなく、自然な解釈となる。この頃のヤマトは九州にあった倭の「安東」の対象だったのである。
この時期になぜ筑紫に「日本鎮西筑紫大将軍」がいたのか。しかも日本(ヤマト)の将軍である。そして筑紫はヤマトの国の外だという。ヤマトの国外である筑紫に「鎮西将軍」を置き、唐の百済鎮将に対しては入国拒否の牒を渡すなど、かなり強気の外交を行っている。このことから考えても、白村江の戦いの当事者が日本(ヤマト)だったとは考えにくい。また唐も、このことに対し武力報復するような態度も見せていない。九州を含め、今後ヤマトが日本列島を治めていくことについて、唐がその条件や戦後の処理、協力を求めてきたのではないか。
①については新羅本紀に661年冬10月29日含資道摠管・劉德敏が唐から派遣された事実と、663年5月、高宗が勅命して10月までに右威衛將軍・孫仁師派遣兵40万と、おもに熊津府城に赴いている事実があるが、= 劉德敏≒劉徳高、右威衛將軍孫仁師≒右戎衛郎将●×▲ =????
671年新羅の半島統一を恐れた唐が残存百済軍と組み新羅に侵入し、破れて、将軍等が捕虜となったが、その中には、以下の人物がいた。
高句麗人・兵船郎将鉗耳大侯、唐人・萊州司馬王藝・もとの烈州長史王益
百済人・熊州都督府司馬禰軍・曾山司馬法聰、それと軍士一百七十人を送り返している。
この中に、670年秋7月、熊津都督府から新羅にスパイに入り、見破られ捕虜なった司馬禰軍がいた。
新羅本紀
「原川 奈麻邊山 及所留兵船郞將鉗耳大侯 州司馬王藝 本烈州長史王益 熊州都督府司馬禰軍 曾山司馬法聰 軍士一百七十人」
「秋七月 王疑百濟殘衆反覆 遣大阿 儒敦於熊津都督府 請和 不從 乃遣司馬禰軍窺覘 王知謀我 止禰軍不送」
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王連竜(吉林大学古籍研究所副教授)氏
「百済人祢軍墓誌論考」
(「社会科学戦線」7月号発表)より
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大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序
公諱軍,字温,熊津嵎夷人也。其先與華同祖,永嘉末,避亂適東,因遂家焉。
若夫巍巍鯨山,跨清丘以東峙;淼淼熊水,臨丹渚以南流。
浸烟雲以樆英,降之于蕩沃;照日月而榳惁,秀之于蔽虧,霊文逸文,高前芳于七子;
汗馬雄武,擅後異于三韓;華構増輝,英材継響,綿圖不絶,奕代有聲。
曽祖福,祖誉,父善,皆是本藩一品,官號佐平。併緝地義以光身,佩天爵而懃國。
忠侔鉄石,操埒松筠。笵物者,道徳有成,則士者,文武不堅。公狼輝襲祉,鷰頷生姿。
涯濬澄陂,裕光愛日,干牛斗之逸気,芒照星中;博羊角之英風,影征雲外い。
去顕慶五年,官軍平本藩日,見機識変,杖剣知帰,似由余之出戎,如金磾子之入漢。
聖上嘉嘆,擢以榮班,授右武衛滻川府折沖都尉。
于時日夲餘噍,拠扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。
萬騎亘野,與蓋馬以驚塵;千艘横波,援原虵而縦濔。
以公格謨海左,亀鏡瀛東,特在簡帝,往尸招慰。公侚臣節而投命,歌皇華以載馳。
飛汎海之蒼鷹, 翥凌山之赤雀。決河眦而天呉静,鑑風隧而雲路通。
驚鳧失侶,済不終夕,遂能説暢天威,喩以禍福千秋。僭帝一旦称臣,仍領大首望数
十人将入朝謁,特蒙恩詔授左戎衛郎将。
少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府司馬。材光千里之足,仁副百城之心。
挙燭霊臺,器標于芃棫;懸月神府,芳掩于桂符。衣錦昼行,富貴無革。
雚蒲夜寝,字育有方。去咸享三年十一月廿一日詔授右威衛将軍。
局影彤闕,飾恭紫陛。亟蒙榮晋,驟暦便繁。方謂克壮清猷,永綏多祐。
豈啚曦馳易往,霜凋馬陵之樹;川閲難留,風驚惊龍驤之水。
以儀鳳三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾,薨于雍州長安県之延寿里第。春秋六十有六