『三国志』烏丸鮮卑東夷伝
「高句麗は遼東半島の東一千里の所にあって、南は朝鮮・濊貊と 接している」としている。濊は倭に通じ、貊は百済に通じる。「濊(わい)は、南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と境を接し、東は大海の岸辺にまで及んで、いま の朝鮮の南部はみなその土地に含まれる」とあるから、倭人はその昔、朝鮮半島の東部に住んでいた可能性もある。
濊族は、中国の戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)の間に中国の吉林省の長春市付近に現れ、中国の東北部にいた民族です。この濊族は、鉄器の製造技術に優れた農耕民族でした
中国が前漢の時代(紀元前206年~紀元8年)になると、中国の東北部から朝鮮半島の北部に掛けて生活をするようになり、紀元前134年に漢の武帝が濊州を作ろうと、濊族と戦い、紀元前126年に「濊王之印」を濊族の南閭に与えて、濊国の独立を認めている。
紀元前108年、漢は朝鮮半島の北部の衛氏朝鮮を滅ぼし、現在の平壌に植民地としての直轄支配として楽浪郡を設置する。さらに、紀元前107年に遼東郡の東から、楽浪郡の北にいた濊国の政権を倒し、玄菟郡を設置する。その他、真番郡(現在のソウル付近)・臨屯郡(現在の韓国の江原道江陵市付近)にも漢の管轄に置かれ、漢の植民地政策により、これらの地域にいた濊族は支配下に置かれた。玄菟郡の設置で倒された濊族の南閭政権は北の「鹿山」に逃亡して、扶余国を建国した。その後、朝鮮半島の漢の植民地政策が縮小に向かい、紀元前82年に真番郡と臨屯郡は廃止して、楽浪郡に統括され、紀元前75年に玄菟郡は西方に縮小され第二玄菟郡となり、紀元前59年、第二玄菟郡はさらに西方に移転したので、濊系高句麗種族は朝鮮半島北部に高句麗を建国した。その頃、濊族は、濊貊(韓国・北朝鮮江原道)、沃沮(北朝鮮咸鏡道・中国吉林省延吉朝鮮族自治州琿春市・中国黒竜江省牡丹江市東寧県東部・ロシア沿海地方ラズドリナヤ川以南)、高句麗(北朝鮮慈江道・北朝鮮両江道・中国吉林省南部)、扶余(中国吉林省北部)の四つに分かれることになった。その頃、朝鮮半島南部では辰国が倒れ、三韓(辰韓、馬韓、弁韓)に分かれていた。朝鮮半島北部の高句麗支配により、濊系扶余種族の一部や濊系濊貊種族や濊系種族や濊系沃沮は朝鮮半島南部に南下した。その内の濊系扶余種族は、馬韓において指導権を握り、紀元346年に百済を建国する。