伊勢都彦、伊勢

伊勢語源
伊勢国風土記(逸文)
伊勢(一説):伊勢国風土記が言うには、伊勢と言うのは、伊賀の安志(アナシ)の社に坐す神、出雲神子 出雲建子命 又名 伊勢都彦命 又名 櫛玉命 、、、(以下略)

先代旧事本紀

大野七三編・著p266の脚注に「二井之宇迦諸忍之神狭命は伊勢津彦の子」とあります。
また同書には「伊勢都彦は天夷鳥の子」というのが「武蔵国造系図」を根拠にして記されています。

それを踏まえて次に大野七三氏の脚注、「神狭命は伊勢津彦の子」を検証してみると、上表では、「津狭は櫛瓊の子」というのが対応しそうです。従って、「神狭」=「津狭」であろうか、と言う事になります。

もう一つ時代的な面でチェックしておきますと、兄多毛比が神狭の10世孫と言うことは穂日から数えて13代位の所になりましょう。その兄多毛比が、第13代天皇である成務天皇期にムサシ国造に任命されると言うのは、第10代天皇崇神期に天穂日11世孫である宇迦都久怒命が出雲国造に任命されていることと大きく矛盾しないと考えられます。

以上、国造本紀の「出雲臣祖二井之宇迦諸忍之神狭」とは、出雲大社神官系譜で天の穂日の曾孫であり「津狭」と伝えられている人である、らしい?????

先代旧事本紀に
「天忍日命 大伴連等祖 亦云 神狭日命」
とあるではありませんか。(巻1・神代本紀)「天忍日命」が大伴連等の祖ということは古事記にも日本書紀(第4の一書)にも天孫降臨の段に出ていることで、先代旧事本紀がその異名をも伝えていたわけです。神狭日となっているので、神狭命=エタモヒとは違うのでしょう。

 大伴氏は、天忍日命(アメノオシヒノミコト)を祖とする神世時代からの古い軍事氏族である。天忍日の裔の日臣命は、1神武天皇の東征に従ったと伝えられている。熊野から大和への道案内を行ったことにちなみ、道臣命の名を与えられた(神武東征の時の最大の功臣という扱い)。その後大伴武日は、日本武尊の東国遠征に従った。
など物部氏、阿倍氏、中臣氏などと同じく大王家(天皇家)と共に歩んできた氏族と言われている(大伴氏は、中臣氏、物部氏と違い、宮廷の祭祀には殆ど関与しなかった)。
その本拠地は、大和盆地東南部(橿原市、桜井市、明日香村付近)であったらしく、皇室、蘇我氏の本拠地と隣接する。古くは、難波地方を本拠とし、和泉、紀伊方面まで勢力を張っていたかと思われる。
これが、5世紀半ばまで大王家と共に各地の豪族との戦乱を勝ち抜き、21雄略天皇の頃葛城氏、吉備氏の没落により、これに替わって、物部氏と共に、中央での覇権を確立した。
「大伴室屋」は、”大連”を賜り、その孫「金村」にかけて、政権を掌握した。金村は、「平群氏」を平定し26継体大王を担いで、王位継承戦に勝った。
その後大伴氏は、26継体天皇の子27安閑天皇、28宣化天皇の擁立者となり、一方蘇我氏は、29欽明天皇を推して政権争いをし、大伴氏は敗れた。
これ以後蘇我氏の台頭により一時勢力は落ちたが、大化改新後「大伴長徳」が、右大臣に就任した。
しかし、37斉明、38天智朝で再び沈潜し、「壬申の乱」で40天武天皇側として戦功を挙げ復活。宿禰を賜姓された。以来多くの人材を世に出してきた。特に万葉歌人として有名な大伴旅人・家持父子を中心とした多くの女性を含む宮廷歌人の活躍がこの時代を彩った。
家持は万葉集の編纂者の一人にも目されており(本当は不明)、473首の歌(万葉歌人の第一位)を残した。しかし、朝廷内では、藤原氏の進出に伴い、大伴氏の地位は、次第に低下した。
50桓武天皇の成立にも大伴氏は、陰に陽に色々活躍したが、「藤原種継の変」で徹底的に沈み、その後、藤原氏の陰で天皇家と関わった。
伴善男が54仁明天皇の時大納言になったが、「応天門の変」で藤原氏に陥れられ遂にさしもの古代豪族も命運つきて、これ以後中央政界に復帰することはなかった。
しかし、その係累は、富士浅間神社社家、鶴岡八幡宮社家など日本全国にその血筋を残した。特に、近江(甲賀)、三河、甲斐、大隅地方に伴氏の係累が多く分布したとされる。