済州島、耽牟羅国、沖縄、琉球国

『隋書』百済伝によれば、
百済から、3ヶ月というのが済州島までの距離という。当時、百済は随分北、遼西か遼東あたりにあったことになる。

其南、海行三月有耽牟羅國、南北千餘里、東西數百里、土多獐鹿、附庸於百濟。西行三日、至貊國千餘里云。

その南、海行三カ月に耽牟羅国(済州島)があり、南北に千余里、東西に数百里、土地は獐鹿(ヘラ鹿の一種)が多く、百済に従属している。西に行くこと三日、貊国に到るに千余里という。

百済本紀には『531年に日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨せぬ』という記事がある。これは、磐井の時代である。実際の磐井の死亡とは3年相違がある。

福岡県八女郡、筑紫国磐井の墳墓には、衙頭(がとう)と呼ばれる祭政を行う場所や解部(ときべ)と呼ばれる裁判官の石像がある。

北史の列伝列伝第八十二 – 高麗・百済・新羅・勿吉・奚・契丹・室韋・豆莫婁・地豆干・烏洛侯・流求・倭に、先の耽牟羅の記載が出てくるので、これらが当時の認識範囲である。
武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国に人質として献上する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」としている。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には「百済の末多王(牟太,東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王とした」としている。筑紫島は九州で、そのの各羅嶋で育ったので、嶋と名付けられたという。

各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて加唐島というのが、佐賀の唐津のことである。

流求の名があらわれる最古の文献史料は『隋書』である。
『隋書』の帝紀・列伝は唐の貞観一〇(六三六)年魏徴の主編により成り、志は顕慶元(六五六)年長孫無忌が監修して成った。流求についての記事は、煬帝紀上(巻三・帝紀第三、大業三年三月癸丑条・大業六年二月乙巳条)、食貨志(巻二四・志第一九、煬帝即位条)、陳稜伝(巻六四・列伝第二九)、流求国伝(巻八一・列伝第四六・東夷)の四ヵ所にみえる。
『隋書』流求国伝は、「流求国は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」という方位・行程記事ではじまる。
わが国においては、この琉求とは、流球国最初の歴史書『中山世鑑』(羽地朝秀、慶安三年・一六五〇)をはじめとして、琉球(現在の沖縄)であると考えられ、誰人もこれを疑うことはなかった。
ところが、明治七(一八七四)年フランス人サン・デニーが、『文献通考』(元・馬端臨、延祐四年・一三一七)四裔考の一部を翻訳し、その琉球条を根拠にして、隋代の流求とは台湾・琉球を含む島彙の総称であるが、『隋書』の流求は台湾であるという説を発表し、流求=沖縄という通念はゆらぎはじめた。ついで、明治二八(一八九五)年オランダ人グスタフ・シュレーゲルは、元代以前の琉球は今の台湾に限り、明(みん)初にはじめてその名がいまの琉球に遷ったという説を発表した。そして、明治三〇(一八九七)年文科大学(現在の東京大学)史学科教授ドイツ人ルードヴィヒ・リースが『台湾島史』(吉国藤吉訳、一八九八)を著わし、サン・デニーの説を踏襲して以来、わが国の学会においては、流求=台湾説が定説の地位を獲得した。

台湾説の論拠は、水行五日では沖縄には到達できない、『文献通考』などに流求は「彭湖と煙火相い望む」とあるように台湾をさす、風俗・産物・動植物相などの記述は台湾であることをしめす、というものである。

一方、沖縄説もある。
唐の顕慶四(六五九)年に成立した『北史』は、魏書・北斎書・北周書・隋書を基本資料としているので、その流求国伝(巻九四・列伝第八二)は「流求国居海島、当建安郡東、水行五日而至」と、冒頭部分から『隋書』流求国伝とほとんど同文である。
ところが、唐の貞元一七(八〇一)年に編纂された『通典』(杜佑撰)琉球条(巻一八六・辺防二・東夷下)には、「琉球自隋聞焉、居海島之中、当建安郡東[門/虫]川之東、水行五日而至」とある。『通典』は、黄帝・唐虞より唐の天宝年間(七四二~七五六)に至るまでの中国歴代典章制度についての政書である。その琉球条は、『隋書』流求国伝を節略したものであるが、「建安郡東」に「[門/虫]川之東」、「義安」に「今潮陽郡」と二ヵ所に、新たに割注を付しているのである。そして、倭国条(巻一八五・辺防一・東夷下)には、「其国界、東西五月行、南北三月行、各至於海、大較在会稽[門/虫]川之東」とある。すなわち、『隋書』イ妥国伝(巻八一・列伝第四六・東夷)の「其国境、東西五月行、南北三月行、各至海」に「大較在会稽 [門/虫]川之東」という方位を付加している。
梁嘉彬は、[門/虫]川とは[門/虫]江をさすという。[門/虫]江は、建安郡治(現在の福州)を流れて、東シナ海に注ぐ川である。そうすると、[門/虫]川の東にあたる流求は、沖縄であって台湾ではない。

倭国の地理的位置を、『通典』は「大較会稽[門/虫]川の東に在り」というのである。それと同時に『通典』は、その倭国の方位である「会稽[門/虫]川の東」と重なるように、琉球国は「[門/虫]川の東」にあたるという。したがって、その琉球が沖縄をさすことは必至であって、台湾ではないことが明らかとなる。

流求国は、隋の不法な侵略にたいして国交を絶ち、唐とも公式の国交を開いていない。しかし、流求と唐との間に交渉はあった。『送鄭尚書序』(唐・韓[兪/心]、大暦三年~長慶四年・七六八~八二四、明『朱文公校昌黎先生集』巻二一所収)には、流求など海外雑国が広州に通商に来る、『嶺南節度使饗軍堂記』(唐・柳宗元、大暦八年~元和一四年・七七三~八一九、『柳河東集』巻第二六所収)には、流求(如)貿易は広州押蕃船使の統を受けていた、とある。

沖縄には、縄文時代早期から九州系の土器文化が、つぎつぎと南下し押寄せてきている。縄文晩期には、沖縄に佐賀県腰岳産の黒曜石がもたらされ 、北九州では貝製腕輪が使用されるようになる。そして、最近では、沖縄の貝塚時代後期初頭の遺跡からは、移入された弥生式土器の出土が相次ぎ、同時に鉄斧や砥石・箱式石棺墓といった弥生文化を特徴づける文物が確認されるなど、弥生文化の定着を証す資料が多い。弥生時代の北九州には、沖縄産のゴホウラ製貝輪 が大量に送り込まれているが、鉄と交換したのではあるまいか。