画紋帯神獣鏡

画文帯神獣鏡

日本、中国でも多数出土する。中国で3世紀に製作されたと思われる
日本からは約60面出土している。

畿内地域を中心に出土することや2世紀の末頃北部九州の銅矛、畿内や東海地域の銅鐸が姿を消し、画文帯神獣鏡が現れるのが特徴である。

神仙や霊獣の像を主文様とし、外側に、日輪を従えた車、それを曳く獣、飛仙などの群像を描いた画文帯をめぐらす。図像は浮彫で表され、細い線を用いた細密な表現を特徴とする。神獣像の特徴や配置方法により、画文帯環状乳(かんじょうにゅう)神獣鏡、画文帯同向式(どうこうしき)神獣鏡、画文帯対置式(たいちしき)神獣鏡に分類されている。

神仙思想の流行とともに盛行した鏡で、中国の各地域で製作された。
弥生時代後期~古墳時代に日本にもたらされ、とくに畿内を中心とした古墳から数多く出土している。奈良県桜井市ホケノ山古墳から出土した画文帯同向式神獣鏡は、大型品でとくに精緻な表現をもつ。この種の鏡が初期ヤマト王権でもっとも重視されたと考える説もある。また中期後半から後期の古墳からは、この踏返し品が多数出土している。

兵庫県姫路市四郷町の宮山古墳、大和天神山古墳四面、三重県鳥羽市の伊勢湾に浮かぶ神島(かみしま)の八代神社収蔵の5世紀のものなどが出土しており、その同笵鏡は三重・愛知県下では、三重県多気郡明和町大字上村神崎山一号墳三面、愛知県岡崎市丸山町亀山二号墳一面、また、ほう製鏡(中国鏡を模して日本で製作された鏡)思われるものは名古屋市双子山古墳一面、奈良県橿原市新沢109号墳、河内郡川車塚(かわちこおりがわくるまづか)、江田船山古墳から出土している。三重県志摩市大王町波切の塚原古墳からも出土、その同笵鏡は稲荷山古墳の礫槨から出土。大阪府和泉市和泉黄金塚古墳から出土の鏡は、魏の景初三年(239)の銘をもつ。

放射式 … 栃木県雀宮牛塚古墳・群馬県原前1号墳・静岡県奥の原古墳・愛知県亀山2号墳・三重県井田川町茶臼山古墳

同向式 … 埼玉県稲荷山古墳・群馬県観音塚古墳・千葉県大多喜町・三重県塚原古墳・福岡県伝豊前国京都郡

東大寺山古墳

武埴安彦の反乱を平定した彦国葺は、和珥の臣(わにのおみ)の遠祖である。

和珥氏(丸邇氏とも書く)は、第五代孝昭天皇の皇子、天押帯日子(あめおしたらしひこ)の命[天足彦国押人(あめたらしひこくにおしひと)の命]を祖先とする氏族である。奈良県天理市檪本(いちのもと)町和爾(わに)の地を本拠としていた。
和爾の地には、式内社和爾下(わにした)神社(和爾下古墳がある)があり、その東側に、東大寺山古墳がある。
東大寺山古墳は、1961年~1966年に発掘調査が行なわれた。主軸全長140メートル、後円部径84メートル、前方部幅50メートル前後。四道将軍の墓の大きさ(平均約100メートル、最大120メートル)をこえる。

『日本古墳大辞典』は、つぎのように記す。
「1961年春に大規模な盗掘によって碧玉製鍬形石19・同車輪石15・同石釧(くしろ)2・同鏃形石製品10・滑石製台付坩(るつぼ)形石製品1・同坩形石製品5とそれらの破片が掘り出され、この盗掘を契機に発掘調査が実施された。調査時には棺床の朱の上から硬玉製勾玉5・同棗玉(なつめだま)3・碧玉製管玉(くだたま)30からなる一連の装身具と鍬形石・車輪石・坩形石製品各1が、攪乱された粘土中から多数の硬玉製勾玉・碧玉製管玉・同鍬形石・同車輪石・同筒形石製品・同鍬形石製品・滑石製坩形石製品が出土している。これらの石製品類はすべて棺内遺物と考えられ、鍬形石は27、車輪石は26、坩形石製品は12、鏃形石製品は40余を数える。
また、棺外遺物として銅鏃260余・鉄鏃多数・鉄刀20・鉄剣9・鉄槍10・巴形銅器7・碧玉製鍬形石製品3・竪矧(たてはぎ)式漆塗革製短甲2・同草摺1が出土。鉄刀のなかには環体に鳥首形や家形をつけた銅製三葉環頭5と素環頭6があり、三葉環頭を装着した一振の刀背には、後漢末の中平(184~188年)の年号で始まる銘文が金像嵌されている。多数の石製品類や優秀な武器武具類をもち、奈良盆地東辺の古墳群中で数少ない内容の明らかな前期古墳の一つとして重要である。四世紀中葉から後半頃の築造と考えられる。」

東大寺山古墳は和珥氏の祖先の彦国葺の墓と考えてもよいのではないか。『日本古墳大辞典』から四世紀の墓とされている。

黒塚古墳
大和古墳群に含まれる古墳の一つで,奈良県天理市柳本町字クロツカにある。全長約130m、後円部径約72m、同高さ約11m、前方部高さ約6mの西面する前方後円墳である。
竪穴式石室は下部を川原石、上部を大阪府柏原市に産出する芝山玄武岩・春日山安山岩板石小口積みで構築し、内法長さ約8.3m、北端幅約1.3m、南端幅約0.9m、高さ1.7mを測る。
入念にベンガラを塗布した粘土棺床をしつらえ、クワ属の巨木を使用した長さ6.2m、最大径1m以上の割竹形木棺を安置する。棺内は中央部の長さ2.8m分のみを刳(えぐ)り抜き、前後の部分は刳りを残していたと考えられる。

副葬品は画文帯神獣鏡1・三角縁神獣鏡33、鉄刀・鉄剣・鉄槍25以上、鉄鏃170以上・刀子状鉄製品1・鉄小札600以上・棒状鉄製品9・U字形鉄製品1組・Y字形鉄製品2・鉄斧8・やりがんな・漆膜(盾?)・土師器など豊富である。棺内副葬品は画文帯神獣鏡・鉄刀・鉄剣・刀子状鉄製品各1のみで、その他はすべて棺外副葬品である。三角縁神獣鏡はいずれも木棺側に鏡面を向け、西棺側に17、東棺側に15、棺北小口に1を、棺の北半部をコの字形に取り囲んで配列していた。
京都府山城町椿井大塚山古墳出土鏡との間に10種の同范(型)鏡を分有する。

ホケノ山古墳
奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所在する古墳時代前期初頭の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳である

被葬者:不明(大神神社は豊鍬入姫命の墓としている)。
築造時期:副葬品や埋葬施設などから箸墓古墳に代表される定型化した出現期大型前方後円墳よりあまり遡らない時期の前方後円形墳墓と考えられ、築造は中国史書に記された邪馬台国の時代にちょうど重なると推測されている。前方後円形をした弥生墳丘墓であるとする見方と、古墳時代出現期のものであるとする見方が出されている。
墳形:纒向型前方後円墳(葺石あり)、円墳に短い前方部を東南方向に付けている。
規模:全長約80メートル。後円部径約55メートル(約60メートル[3])3段築成、前方部長約25メートル(約20メートル)、後円部高さ約8.5メートル、前方部高さ約3.5メートル。周濠幅約10.5-17メートル(西側のほうが広い)。

注)ホケノ山古墳に近い箸墓古墳の築造年代なども、三世紀後半にくりあげる考古学者が多い。しかし関川氏は、四世紀中ごろのものとしている。
「日本書紀」の伝承では、箸墓古墳の被葬者は、崇神天皇の時代に活躍した倭迹迹日百襲姫とされている。いっぽう、崇神天皇陵古墳については、四世紀中ごろの築造と見るのが、考古学者の多数意見である。とすれば、箸墓古墳の築造年代も、四世紀中ごろとし、崇神天皇陵古墳とほぼ同時代としたほうが、文献的事実ともあう。

卑弥呼?『魏志倭人伝』には「棺(かん)あれど槨(かく)なし」と記述されています。

「ホケノ山古墳」には槨があり、『魏志倭人伝』の記述と矛盾している。

一説

黒塚の画文帯神獣鏡と同系のものに大阪府和泉黄金塚(こがねづか)古墳出土の「景初三年陳是作」鏡がある。従って画文帯同向式神獣鏡と三角縁同向式神獣鏡は同じ陳是作の可能性が高く、その製作は半島、楽浪郡の工人によって現地で作られたのであろう。(西川)