毛野氏、上毛野氏

第10代崇神天皇第1皇子の豊城入彦命を祖とする皇別氏族で、「上毛野君(公)」のち「上毛野朝臣」姓を称した。平安時代初期の弘仁6年(815年)『新撰姓氏録』の上毛野朝臣(皇別 右京)条には「崇神天皇皇子・豊城入彦命の後」と記載されており、豊城入彦命の後裔が公称されていたことがわかる。また疑いの多い書物であるが、『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)には「崇神天皇の御世に豊城入彦命孫・彦狭島命が初めて東方十二国を平定したとき上毛野国造に封ぜられた」と記載されており[原 4]、上毛野氏が国造の任にあったと推測されている[5]。

『日本書紀』には、崇神天皇皇子の豊城入彦命に始まる独自の系譜伝承が記されている。その中で、中央貴族が毛野地域に派遣され、その経営に携わったと伝える。ただし、実際のところ在地豪族か中央派遣氏族かは明らかとなっていない。また同書には上毛野氏の蝦夷征伐・朝鮮交渉従事の伝承があり、対外関係に携わった氏族であることも示唆される。

大化以後には、毛野出身の氏族として「東国六腹朝臣」と総称される上毛野氏・下毛野氏・大野氏・池田氏・佐味氏・車持氏ら6氏が、朝廷の中級貴族として活躍を見せた。

豊城入彦命
第10代崇神天皇と遠津年魚眼眼妙媛(紀伊国荒河戸畔の女)の間に生まれた第1皇子で、「上毛野君・下毛野君の祖」と付記されている(『古事記』も同様。崇神天皇48年、天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目命(のちの垂仁天皇)に夢の内容を問うた結果、活目命を皇太子とし豊城命には東国統治を命じたという。
垂仁天皇5年、八綱田(やつなた)は命を受け狭穂彦を討ち、「倭日向武日向彦八綱田」の名を与えられた]。『新撰姓氏録』から、八綱田は豊城入彦命の子とされる。
景行天皇55年、豊城入彦命の孫・彦狭島王(ひこさしまおう)が東山道15国の都督に任じられた。しかしながら、途中の春日の穴咋邑にて没し、上野国に葬られた。代わって景行天皇56年、彦狭島王の子・御諸別王(みもろわけのおう)が彦狭島王に代わって東国を治め、蝦夷を討った。

対朝鮮・対蝦夷関係での軍事・外交伝承
神功皇后49年、荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)は将軍に任命され、新羅に派遣された。そして新羅の軍を破り7国を平定してのち、百済の近肖古王と貴須王子と会見した。応神天皇15年、荒田別・巫別(かんなぎわけ:鹿我別と同一人物とされる)が百済に派遣され、王仁を連れ帰った。

仁徳天皇53年、竹葉瀬(たかはせ)が、貢調しない新羅の問責のため派遣された。途中で白鹿を獲たため、一旦還り仁徳天皇に献上し再度赴いた。のち、弟の田道(たぢ)も新羅を討ったという

武蔵国造の乱
安閑天皇元年(532年?)、武蔵国造の笠原直使主と笠原直小杵の内紛(武蔵国造の乱)において、上毛野君小熊は小杵に援助を求められたという。

国造本記
上毛野国造 (群馬県)
崇神天皇皇子豊城入彦命の孫・彦狭島命が、初めて東方十二国を平定した時封ぜられた
下毛野国造 (栃木県南部)
仁徳天皇の時代、毛野国を分け上と下とした。豊城命四世孫・奈良別が初めて国造に定められた
浮田国造 (福島県北東部)
成務天皇の時代、崇神天皇五世孫・賀我別王が国造に定められた[原 14]。
針間鴨国造 (兵庫県中部)
成務天皇の時代、上毛野同祖の御穂別命の子・市入別命が国造に定められた

7世紀には、白村江の戦いにおいて、倭国主力軍の将軍として上毛野君稚子が朝鮮半島に派遣され一定の戦果を収めたたほか、三千は『帝紀』と上古諸事の記定に携わり、いずれも中央貴族として活躍した。天武天皇13年(684年)には上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、池田朝臣、車持朝臣、大野朝臣のいわゆる「東国六腹朝臣」が「朝臣」姓を賜り、中央の中級貴族として活躍した。また、下毛野古麻呂は藤原不比等らとともに『大宝律令』の編纂に関わり、のちの三戒壇の1つ・下野薬師寺を氏寺として建立したとも伝えられる。

8世紀に入ると、初期には陸奥守に小足・安麻呂、陸奥按察使に広人、後半には出羽介・出羽守に馬良、陸奥介に稲人が任じられたように、蝦夷に対する活動が行われた。東国六腹朝臣全体においても、下毛野石代が副将軍、大野東人が陸奥按察使兼鎮守府将軍、池田真枚が鎮守府副将軍に任じられた。蝦夷対策を担当した点については、後世に陸奥国の豪族に「上毛野陸奥公」や「上毛野胆沢公」等の賜姓がなされていること、俘囚の多くが上毛野氏系の部民に多い「吉弥侯部」を名乗ったことからもうかがわれる。しかしながら、広人が蝦夷の反乱に遭い殺害され、宿奈麻呂が長屋王の変に連座して配流された後は没落した。以後は、代わって田辺史系の上毛野氏が中核を占めるに至った

渡来系

『新撰姓氏録』の上毛野朝臣(皇別 左京)条には「豊城入彦命五世孫・多奇波世君の後」であり「天平勝宝2年(750年)に田辺史から上毛野公と改姓した」と注記されている。この多奇波世君(たかはせのきみ、竹葉瀬に同じ)の後裔と記される氏族は他にも住吉朝臣・池原朝臣・桑原公・川合公・商長首があり、これらの氏族は渡来系のグループと解されている

『日本書紀弘仁私記』序においても「諸蕃雑姓」に注として、田辺史・上毛野公・池原朝臣・住吉朝臣4氏が百済からの渡来人でありながら竹合(竹葉瀬に同じ)後裔を仮冒したことが記載されている。

車持国子君の娘与志古娘が不比等の母とされていますが、不比等の母の出自である車持氏と、不比等に英才教育を施した田辺氏がどうやら深い関係にあるようです。この二氏族に共通のキーワードが毛野氏で、どちらも毛野氏族だという説があります。毛野氏の古墳がある毛野国は、現在の群馬県と栃木県の辺りの行政区分です。


八綱田 – 東国・朝鮮伝承はなし

彦狭島王 – 東山道十五国都督に任じられるが途中で病死
三世孫
御諸別王(弥母里別命) – 都督として東国統治
四世孫
荒田別 – 朝鮮伝承
鹿我別(巫別、賀我別王) – 朝鮮伝承
五世孫
竹葉瀬(多奇波世、竹合) – 朝鮮伝承
田道 – 朝鮮伝承
現古
六世孫
奈良別
真若(賀表乃真稚命)
八世孫
射狭君
十世孫
佐太公
上毛野君小熊 (6世紀前半?) – 『日本書紀』で初めて「上毛野」を冠する。武蔵国造の乱に関与

東国出身系上毛野氏
上毛野君形名 (7世紀前半) – 大仁。将軍として蝦夷を討伐。
上毛野君稚子 (7世紀後半) – 百済救援軍の将軍の1人として新羅と戦い2城を奪取
上毛野君三千 (?-682年) – 大錦下。『帝紀』と上古諸事を記定
上毛野朝臣小足 (?-709年) – 従四位下。吉備総領、下総守、陸奥守を歴任。
上毛野朝臣堅身 (8世紀前半) – 美作国建国を上申し、初代国守に就任。
上毛野公大椅女 (8世紀中頃) – 『日本霊異記』に記述

渡来系上毛野氏
上毛野朝臣穎人 (766年-821年) – 従四位上。遣唐使に録事として加わり渡唐。薬子の変にも功。『新撰姓氏録』編纂に参加。『凌雲集』に1首、『経国集』に1首
上毛野朝臣永世 (9世紀後半) – 従四位下。『貞観格』の編纂に参加。
上毛野朝臣氏永 (9世紀後半) – 従五位下。石見権守在任中に騒動により解職
上毛野朝臣滋子 (?-892年) – 従三位より上位、典侍。藤原良房家の女官を経て藤原明子に奉仕