日本武尊を祀る神社

建部大社 近江一宮

所在地 滋賀県大津市神領一丁目16-1
主祭神 日本武尊 大己貴命
創建 (伝)第12代景行天皇46年
摂社
聖宮神社 (ひぢりのみや)祭神:景行天皇 – 第12代。日本武尊の父。
大政所神社 祭神:播磨稲日大郎姫命 – 景行天皇皇后で、日本武尊の母。
藤宮神社 祭神:布多遅比売命 – 日本武尊の妃。
若宮神社 祭神:建部稲依別命 – 日本武尊の子。
末社
行事神社 祭神:吉備臣武彦、大伴連武日 – 日本武尊の家臣。
弓取神社 祭神:弟彦公 – 日本武尊の家臣。
箭取神社 (せんとり)祭神:石占横立、尾張田子之稲置、乳近之稲置 – 日本武尊の家臣。
蔵人頭神社(膳夫神社) 祭神:七掬脛命 – 料理の神。
大野神社 祭神:草野姫命 – 当社遷座以前から祀られていたという地主神。
稲荷神社 祭神:稲倉魂命
八柱神社 祭神:藤時平、融大臣、事代主命、市杵嶋姫命、素盞男命、豊玉彦命、櫛名多姫命
桧山神社 祭神:伊邪那美命、大山祇命、息長足姫命、武内宿禰大臣、住吉大神

建部大社(たけべたいしゃ)は、滋賀県大津市にある神社。近江国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。旧称は「建部神社」。

社伝では、日本武尊の死後の景行天皇46年、日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅によって、御子・建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽(現在の東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に日本武尊を「建部大神」として祀ったのが創建とされる。建部郷の「建部」の名は日本武尊をしのんで名代として名付けられたことに因むといい、他にも各地に設けられている。のち、天武天皇4年(675年)に近江の守護神として、現在地の栗太郡勢多へ遷座したという。遷座後、元の千草嶽の麓には神護景雲2年(768年)に聖真大明神と建部大明神が設けられたとされ、現在は建部神社が建てられている。

由緒
 当社は古来、建部大社、建部大明神などと称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。御祭神、日本武尊は御年僅か16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野において遂に崩御されたが、父君景行天皇は尊の永逝をいたく歎かれ、御名代として建部を定め、その功名を伝えられた(日本書紀にしるされている)これが即ち建部の起源である。
 景行天皇の46年(約千八百六十余年前)、神勅により御妃 布多遅比売命(父は近江安国造)が、御子稲依別王と共に住まわれていた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年(675年)、当時近江国府の所在地であった瀬田の地に迂祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の当大社である。

天平勝宝7年(755年)には、大己貴命が大神神社から勧請され、権殿に祀られたという。

大鳥大社 和泉国一宮
(正式名:大鳥神社)は、大阪府堺市西区鳳北町にある神社。
式内社(名神大社)、和泉五社の一つで和泉国一宮。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社

日本武尊 (やまとたける の みこと)
大鳥連祖神 (おおとりのむらじ の おやがみ)

観3年(861年)に紀伊国御船神とともに神階昇授を受け、従三位となる(『三代実録』)。延喜22年(922年)の「大鳥大神宮五社流記帳」では神階は正一位勲八等とあり、祭神が天照大神となっている。延長5年(927年)の『延喜式』神名帳では、和泉国唯一の名神大社となっている。
近代社格制度のもと、明治4年(1871年)5月に官幣大社に列格された。明治9年(1876年)の政府の祭神考証の結果を受け、政府は大鳥連祖神(天児屋命)に祭神を変更した。神社側の反発があったが、明治29年(1896年)の内務省社寺局の通達により変更が確定した。神社側は祭神の日本武尊への復帰をたびたび求めたが、大鳥連祖神に加えて日本武尊を祀ることに至ったのは、国家管理を離れた戦後の昭和36年(1961年)になってからだった。 明治38年(1905年)8月15日、落雷により社殿は焼失し、明治42年(1909年)12月に再建されたのが現社殿である。戦後は神社本庁に所属し、別表神社に指定されている。

以来、長い間にわたって日本武尊を祭神としてきたが、明治29年(1896年)に政府の祭神考証の結果を受け内務省の指示により、大鳥連祖神に祭神を変更した。その後、昭和36年(1961年)に大鳥連祖神にくわえて、日本武尊を祀った。

大鳥連は中臣氏と同じく天児屋命を祖神としていたので、大鳥連祖神は天児屋命ということになる。

境内摂社

大鳥美波比神社 祭神:天照大神(菅原道真、押別命を配祀)
式内社。大鳥五社の一社。明治12年(1879年)に境内に遷座した。明治42年(1909年)に式内社押別神社・菅原神社4社を合祀した。
境外摂社
大鳥北濱神社 (堺市西区浜寺元町3丁) 祭神:吉備穴戸武媛命
式内社。大鳥五社の一社、大鳥鍬靫神社。明治6年(1873年)に改称。
大鳥井瀬神社 (堺市堺区宿院町東2丁) 祭神:弟橘姫命
式内社。大鳥五社の一社。大正11年(1922年)に住吉大社と大鳥大社の御旅所である宿院頓宮に遷座した。
大鳥羽衣濱神社 (高石市羽衣5丁目)祭神:両道入姫命、井戸守稲荷大明神
式内社。大鳥五社の一社、大鳥濱神社。羽衣濱神社とも。慶雲3年(706年)に鎮座した。

日本武尊は西征して熊襲を平定し、東征して東国を平定したが、伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野で薨去する。遺体はその地に葬られたが、その陵墓から魂が白鳥となって飛んでいき、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に大鳥の地に舞い降りたので、社を建てて祀った。これが大鳥神社の始まりだとされる。神域は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われる。

氣比神宮 越前国一宮

福井県敦賀市曙町にある神社。式内社(名神大社)、越前国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

祭神は次の7柱。本殿(本宮)に主祭神と2柱、本宮周囲の四社の宮(ししゃのみや)にそれぞれ1柱を祀る

本殿(本宮)

伊奢沙別命 (いざさわけのみこと) – 主祭神。「気比大神」または「御食津大神」とも称される。
仲哀天皇 (ちゅうあいてんのう) – 第14代天皇。
神功皇后 (じんぐうこうごう) – 仲哀天皇の皇后。

四社の宮
東殿宮:日本武尊 (やまとたけるのみこと)
総社宮:応神天皇 (おうじんてんのう) – 第15代天皇。
平殿宮:玉姫命 (たまひめのみこと、玉妃命) – 『気比宮社記』では神功皇后の妹・虚空津比売命とする。
西殿宮:武内宿禰命 (たけのうちのすくねのみこと)

祭神を7柱とする記載は、古くは『延喜式』神名帳に見える[3]。『気比宮社記』によれば、当初の祭神は伊奢沙別命1柱であったが、大宝2年(702年)の社殿造営にあたって仲哀天皇・神功皇后を本宮に合祀、周囲に日本武尊ほか4柱を配祀したとする。

社伝では、上古に主祭神の伊奢沙別命は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある土公の地に降臨したという。そして『気比宮社記』によれば、仲哀天皇の時に神功皇后が三韓征伐出兵にあたって気比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得た。そして仲哀天皇8年3月に神功皇后と武内宿禰が安曇連に命じて気比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になるとしている
主祭神はイザサワケ(伊奢沙別・去来紗別)で、氣比神宮特有の神である
神名「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる。そのほかの名称として、史書では「笥飯」「気比」「御食津」と記されるほか、『気比宮社記』では「保食神」とも記されている。これらは、いずれも祭神が「食物の神」としての性格を持つことを指す名称であり、海産物朝貢地としての敦賀の性質を反映するといわれる[4]。このことから、神宮の祭神は上古より当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた海神であると解されている
一方、『日本書紀』に新羅王子・天日槍の神宝として見える「胆狭浅大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり、イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もある

『古事記』ではその後の経緯として、武内宿禰に連れられた太子(応神天皇)はイザサワケと名の交換を行ったという(易名説話)。説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられる。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ)がいた。そして太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「気比大神」となったという。同様の説話は『日本書紀』でも別伝として記されているが、『古事記』『日本書紀』とも内容には矛盾点が指摘される。この説話の解釈には諸説あるが、特にその真相を「名(な)と魚(な)の交換」すなわち「名の下賜」と「魚の献上」であるとして、ケヒ神(とその奉斎氏族)の王権への服属儀礼を二重に表した説話であるといわれる。また、以上のように当地が応神天皇の勢力基盤であったことは、越前から出た応神天皇五世孫の継体天皇(第26代)とも関係すると指摘される

神職
気比神の祭祀は、古代には角鹿氏(角鹿直・角鹿海直)が担ったといわれる[2。この角鹿氏は敦賀における海上交通・漁業の統率者(海人族)であり、一説には角鹿国造の氏族ともいわれる。敦賀市には首長墓として5世紀末の向出山1号墳(直径約60メートルの円墳、位置)が残るが、その副葬品には被葬者と朝鮮半島の深いつながりが指摘される。この角鹿氏は、7世紀後半頃には朝廷の支配下に入ったと見られている。

『日本書紀』垂仁天皇の条には、
意富加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、またの名、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)が、当地、笥飯(けひ)の浦に到着し、角鹿と名づけたとある。
都怒我阿羅斯等は、白石から生れた姫神を追って日本へ来たともあり、その姫神は、比売語曽社に祀られている。
『古事記』・応神記では、天之日矛(天日槍)が、阿加流比売という赤玉から生まれた姫を追って来たとあり、都怒我阿羅斯等は、天日槍と同一視されている。

熱田神宮 尾張国三宮

愛知県名古屋市熱田区にある神社。式内社(名神大社)、尾張国三宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。宮中の四方拝で遥拝される一社。神紋は「五七桐竹紋」。
主祭神
熱田大神 (あつたのおおかみ)
三種の神器の1つ・草薙神剣(くさなぎのみつるぎ、草薙剣・天叢雲剣とも)[3]を神体とする天照大神を指すとしている[4]。
相殿神
天照大神 (あまてらすおおみかみ)
素盞嗚尊 (すさのおのみこと)
日本武尊 (やまとたけるのみこと)
宮簀媛命 (みやすひめのみこと)
建稲種命 (たけいなだねのみこと)
熱田大神とは草薙剣の神霊のこととされるが、明治以降の熱田神宮や明治政府の見解では、熱田大神は草薙剣を御霊代・御神体としてよらせられる天照大神のことであるとしている。しかし、創建の経緯などからすると日本武尊と非常にかかわりの深い神社であり、熱田大神は日本武尊のことであるとする説も根強い。

相殿には、天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命と草薙剣に縁のある神が祀られている。素盞嗚尊は、ヤマタノオロチ退治の際に、ヤマタノオロチの尾の中から天叢雲剣を発見し、天照大神に献上した。天照大神は、その天叢雲剣を天孫降臨の際に迩迩芸命(ににぎのみこと)に授けた。日本武尊は、天叢雲剣(草薙剣)を持って蝦夷征伐を行い活躍したあと、妃の宮簀媛命のもとに預けた。宮簀媛命は、熱田の地を卜定して草薙剣を祀った。建稲種命は宮簀媛命の兄で、日本武尊の蝦夷征伐に副将として従軍した。

吉田神社 常陸三宮
【 鎮座地 】 水戸市宮内町3193-2
【 祭神 】 日本武尊
【 社格 】 旧県社
【 二所別宮 】 笠原神社・酒門神社
【 境内社 】 国見神社・早歳神社・飯神社・水戸神社・稲荷神社・住吉神社・吉田天満宮・松尾神社・八幡宮・大国主事代主神社・疱瘡守護神社・多賀神社・土師神社・皇太神宮
【 由緒 】   
古来常陸国内第三社とも呼称される。
 尊が東夷平定の帰途、常陸を過ぎて兵をこの地朝日山に留めて憩わせた故事を以って、この地に神社を創建し尊を奉祀した。尊の御休憩の場所は今日も三角山と称し境内見晴台の一角を占め、神聖な処として伝え残されている。
  創建の年紀は詳らかではないが、当社の古文書によれば正安4年(西暦1301年)は、御創建以来800余年に当たるとあるので、これより推定すると、顕宗天皇(485)と仁賢天皇(498)の御代の間に遡るもののようである。
  後に後鳥羽天皇は建久4年(1193)国司に勅して社殿を改造せられ12月遷宮式を行い、これより後は鹿島神宮(旧官幣大社)の遷宮についで当社の遷宮が行われるのを例とした。次いで亀山天皇は弘長元年(1261)2月20日本社の神位を従一位より正一位に進め、後陽成天皇の父、誠仁親王は天正4年(1576)に御手ずから第三宮の三字を記され、大宮司田所清恒に賜り当社の扁額とされた。更に後光明天皇の慶安元年(1648)10月には、大将軍源家光が「吉田宮印」の朱印を下され、権中納言源頼房は水戸に封ぜらるるや尊の功烈を慕われ、その子贈大納言源光圀に至っては、尊崇最も敦く旧制に従って本殿(神明造)拝殿・神殿・神楽殿・宝蔵・階・玉垣等を造営し、八乙女・神楽男五人を置き盛大な斎祀を行われた。

白鳥神社

御祭神:白鳥大神宮 日本武尊
倭京宮 両道入姫尊(ふたじいりひめみこと)
吾嬬宮 橘姫命
所在地:香川県東かがわ市松原69番地

由来:能褒野(三重県亀山市)で戦死し葬られたのち、白鶴となって飛び去った日本武尊の霊が舞い降りた、という伝説が残っています。当地におりた白鶴はまもなく死んだため、日本武尊の子である武鼓王がここに廟を建てて手厚く葬ったといわれています。