殷の起源は実はよくわかっていない(北狄=モンゴル系、ツングース系という説もあるが)。初期殷人の移動経路も諸説あって未だ定まっていない(一書では、モンゴル高原から南下して北京の西側を通り、黄河流域に至った可能性が高いとしている)。
殷人は遊牧部族発であったことは間違いないようで、初期の殷人集落は頻繁に居を移すことが特徴。
夏王朝の時代には夏が黄河中下流域を支配し、殷はその北東に拠点を置いて夏に服従していた。
殷の祖である契(せつ)は夏の治水事業に功労して、商の地に封ぜられた。 自らは商族と称しており、その後3600年前に、殷族(商族)の長である湯が商族を率いて夏を倒し、殷王朝を建てる
「青銅器」
商時代の画期は、文字の制定と青銅器の発展である。殷墟から多種多様の大量の青銅器皿や兵器などが発掘されたが、どれも実に精巧なもので、特に司母戊と称される大型の方鼎は、重量が875kg、高さ130㎝もあり,鼎(かなえ)の表面には富麗堂皇(華麗で壮大な大広間)の花紋が施されていた
「甲骨文字」
近代まで中国の王朝は、紀元前11世紀の西周から始まり、商や夏は伝説だとされてきたが、1899年、劉鶚という人物が清朝の国士監祭酒の王懿栄がマラリアの特効薬として常用していた竜骨に文字が刻まれているのを発見し、商時代の卜辞だと考察したことから、商の実在を検証する動きが生まれ、それが商時代の卜占につかわれた文字・卜辞だと判明した。
その数十年後、殷墟で殷の遺跡で発掘された甲骨文字の文書に記された歴代国王の名前が、史記に記録された系図と一致し、王名が「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の十干を用いていることから架空と思われた商の実在が証明された。
『史記』夏本紀
帝桀之時,自孔甲以來而諸侯多畔夏,桀不務德而武傷百姓,百姓弗堪。乃召湯而囚之夏臺,已而釋之。湯修德,諸侯皆歸湯,湯遂率兵以伐夏桀。桀走鳴條,遂放而死。
帝桀の時代、孔甲(桀の曽祖父。暴虐の王とされる)以来、諸侯の多くが夏王朝に叛いた。帝桀(けつ)は徳を積まず、武力で百姓を傷つけ、百姓は苦しみに堪えかねていた。帝桀は(商の)湯を召しだして夏台に幽囚し、その後釈放した。湯は徳を修め、諸侯はすべて湯に帰順した。湯は遂に兵を率いて夏の帝桀を討伐した。帝桀は鳴条(安邑の西)に奔るも、放逐されて死んだ。
紂王
紂王(ちゅうおう)に関する伝承の真偽はともかく、中国王朝の正史には儒教思想が根底にあり、教祖である孔子が「殷の三仁」と尊称した箕子などは有徳の賢者とされ、易姓革命(王朝交代)は王の徳の衰退によるとする終始五徳論(陰陽五行の項を参照)からも、紂王は悪逆非道な不徳の王にされたのかもしれない。
「殷の三仁(さんじん)」
酒池肉林の故事に名を残す紂王を、叔父の比干と箕子、異母兄の微子啓の三人(殷の三仁)が諌めたが、比干は虐殺され、微子啓は商の祭祀の神器を抱いて周に亡命、最後に残った箕子にも危機が迫り、狂気を装ったが捕まって幽閉された(一説には逃れて朝鮮国王となった)。周の武王は、この箕子の収監を知って商打倒の軍をあげたといわれる。
①湯王(天乙)、太丁(擁立前に死去)、②外丙(太丁の弟)、③中壬(太丁の弟)、
④太甲(太丁の子。太宗)、⑤沃丁(太甲の子)、⑥太庚(沃丁の弟)、⑦小甲(太庚の子)、⑧雍己(小甲の弟。衰退)、⑨太戊(雍己の弟。中宗。復興)、⑩中丁(中宗の子)、⑪外壬(中丁の弟)、⑫河亶甲(外壬の弟。衰退)、⑬祖乙(河亶甲の子。復興)、⑭祖辛(祖乙の子)、⑮沃甲(祖辛の弟)、⑯祖丁(祖辛の子)、⑰南庚(沃甲の子)、
⑱陽甲(祖丁の子。衰退)、⑲盤庚(陽甲の弟)、⑳小辛(盤庚の弟。衰退)、21小乙(小辛の弟)、22武丁(小乙の子。高宗。復興)、23祖庚(武丁の子)、24祖甲(祖庚の弟。衰退)、25庚丁(祖甲の弟)、26武乙(庚丁の子)、27文丁(武乙の子)、28帝乙(文丁の子。衰退)、29帝辛(帝乙の子。紂王)。
『史記』殷本紀
湯崩,太子太丁未立而卒,於是乃立太丁之弟外丙,是為帝外丙。帝外丙即位三年,崩,立外丙之弟中壬,是為帝中壬。帝中壬即位四年,崩,伊尹乃立太丁之子太甲。(中略)
褒帝太甲,稱太宗。太宗崩,子沃丁立。帝沃丁之時,伊尹卒。既葬伊尹於亳,咎單遂訓伊尹事,作沃丁。沃丁崩,弟太庚立,是為帝太庚。帝太庚崩,子帝小甲立。帝小甲崩,弟雍己立,是為帝雍己。殷道衰,諸侯或不至。帝雍己崩,弟太戊立,是為帝太戊。(中略)
殷復興,諸侯歸之,故稱中宗。中宗崩,子帝中丁立。帝中丁遷于隞。河亶甲居相。祖乙遷于邢。帝中丁崩,弟外壬立,是為帝外壬。仲丁書闕不具。帝外壬崩,弟河亶甲立,是為帝河亶甲。河亶甲時,殷復衰。河亶甲崩,子帝祖乙立。帝祖乙立,殷復興。巫賢任職。祖乙崩,子帝祖辛立。帝祖辛崩,弟沃甲立,是為帝沃甲。帝沃甲崩,立沃甲兄祖辛之子祖丁,是為帝祖丁。帝祖丁崩,立弟沃甲之子南庚,是為帝南庚。帝南庚崩,立帝祖丁之子陽甲,是為帝陽甲。帝陽甲之時,殷衰。自中丁以來,廢適而更立諸弟子,弟子或爭相代立,比九世亂,於是諸侯莫朝。帝陽甲崩,弟盤庚立,是為帝盤庚。(中略)
帝盤庚崩,弟小辛立,是為帝小辛。帝小辛立,殷復衰。(中略)
帝小辛崩,弟小乙立,是為帝小乙。帝小乙崩,子帝武丁立。帝武丁即位,(中略)
武丁修政行德,天下咸驩,殷道復興。帝武丁崩,子帝祖庚立。祖己嘉武丁之以祥雉為德,立其廟為高宗,遂作高宗肜日及訓。帝祖庚崩,弟祖甲立,是為帝甲。帝甲淫亂,殷復衰。帝甲崩,子帝廩辛立。帝廩辛崩,弟庚丁立,是為帝庚丁。帝庚丁崩,子帝武乙立。殷復去亳,徙河北。帝武乙無道,(中略)
武乙獵於河渭之閒,暴雷,武乙震死。子帝太丁立。帝太丁崩,子帝乙立。帝乙立,殷益衰。帝乙長子曰微子啟,啟母賤,不得嗣。少子辛,辛母正后,辛為嗣。帝乙崩,子辛立,是為帝辛,天下謂之紂。
「生贄制度」
殷墟では青銅器以外にも不気味な遺物が発掘されている。安陽武官村の商王の大墳墓から、大量の豪華な金銀宝石の陪葬品の外に、殉葬された多数の奴隸の遺骨が出てきた。墓道の壁面に多数の首なし骸骨と頭蓋骨が配列されており、甲骨片上の文字から2,600人以上の奴隷が、埋葬者の先祖に対する生贄として屠殺されたことが判明した。祭祀権と王権が一体であった商時代には、祭祀に多数の人間を生贄として捧げる神事が執り行われており、西方の羌族を一度に数十人単位で捕獲して、祭壇に捧げられたとされる。
ちなみに商族は異邦の土地を通るときは、邪霊を祓うために、異民族の生首を掲げて進んだことから、首が進むと書いて「道」という漢字を創作している。