新羅、百済の歴と年号

歴と年号は、独立した国と王朝の証である。
 『宋書夷蛮伝』に高句麗伝・百済伝・倭国伝があるのは御存知のとおりです。ところが新羅伝は無い。ということは、高句麗・百済・倭国には「王」がいるが、新羅に王はいなかったのか?。

好太王碑において、高句麗の場合は太王、百残の場合は「王」、新羅については「寐錦」と書かれている。

広開土王碑 百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。 而倭、以辛卯年[391]來、渡毎破百殘、更□新羅、以爲臣民。
百済と新羅は高句麗の属国だったが、391年に日本が海を渡って攻めてきて百済、新羅を属国にした。

13代近肖古王(346~375)「三国史記(百済)」の近肖古王記には、次のような記事があります。
「古記」に、百済は開国以来まだ文字を用いて事柄を記述することができなかった。この王の代になって、 博士の高興をえて、はじめて文字を書き事を記すようになった。(三国史記) 
『古事記』では、応神天皇の治世に百済王照古王の名が記されている。照古王は馬1つがいと 論語などの書物を応神天皇に献上し、阿知吉師(あちきし)と和邇吉師(わにきし)を使者として日本に遣わした

隋書 原文 「新羅百済皆以倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往来」
「新羅と百済は倭を大国で珍しい物が多い国だとしており、共に日本を敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している 」

百済年号

新羅年号
  新羅では 建元元年(536)法興王 から 、太和四年(650)真徳王 (女王で金春秋はその宰相)の時まで独自年号を用いていた。

建元とあるので、この時から元号が始まったようです。

新羅は536年になって高句麗の属国から脱して独立を宣言したのだろう。
新羅は独立はしてみたものの高句麗や百済からの圧迫に常に悩まされていた。
倭国の支援を受けた百済が新羅に対する攻勢を強めてきた。
そこで金春秋が倭国に出かけて支援を求め、百済を支援していた倭国に断られると唐に援助を求めた。ところが唐は支援するにあったって新羅の独自年号を問題にした。
唐が独自年号使用を咎めたために650年になって廃止、唐の年号を採用した。

4、5世紀の新羅は、弱体でした。
三国史記、三国遺事の朴提上列伝
新羅は高句麗と倭国の両方に人質を送っていたという話から始まります。倭国に送られた王子を取り返すために、朴提上が倭国に乗りこんで倭王に会う話が書かれています。

高句麗年号

永楽(えいらく、영락)は、高句麗の第19代王である好太王の用いた元号。好太王碑文において確認できるが、『三国史記』などの文献資料には見られない。
好太王が永楽太王と号し、8件の使用例が碑文から確認できることから、永楽元年は391年(辛卯年)であると考えられている。また、『三国史記』高句麗本紀・好太王紀や同書・年表、『三国遺事』王暦には好太王の即位年を壬辰年(392年)としており、碑文に記す年代とは1年のずれがあるが、好太王の治世が22年に及んだことをもって永楽年号も22年目まで用いられたものと考えられている。

韓国では広開土王または広開土大王とも呼ばれる。また、中国史書(『北史』など)では句麗王安として現れる

好太王碑の中には「天帝・登祚・棄国・朝貢」等の言葉がある。中国で普通天子にあてている言葉が、ここでは全て高句麗王にあてられている

つまり、高句麗王は、天子であり、王朝の王として、近隣国から朝貢があったことになる。

碑文に、新羅が、平壌に来ていた好太王に使いを遣わせて言った文に
「倭人、其の国境に満ち、城池を潰破し、奴客を以て民と為す。王に帰し、命を請わん」とある。
これは、次のように読むのが正しいと思われる。
「倭人が、(新羅と倭国の)国境に、満ちて、城池を潰破し、(民でもない新羅の)奴客を、(倭の)民にしている。そこで、(新羅は好太)王に、帰順して、命を請わん」
ここでいう倭は、任那のことであろう。あるいは、任那にいた倭人でしょう。百済との国境ならば、百済が攻めてきたと書くはずでしょう。

「二中歴」に記された『年代歴』の年号を九州王朝の年号とすると、517年に九州王朝では「継体」という年号を建元している。
何らかの理由で南朝梁への朝貢を中止し、冊封体制から離れて、倭国(九州王朝)独自の年号をもつに至ったということだろう。
この頃日本書紀には「筑紫国造磐井の乱」が出てくる。
磐井を滅ぼしたのは継体帝である。
磐井の死と「継体」年号の建元を結びつけると、必然的に倭国内にクーデターが起こり、倭国王が「磐井」から「継体」へ代わったとも考えられる。

そのように考えると、日本書紀に出てくる「筑紫国造磐井」が「倭王武」その人である可能性も否定できない。

倭王武(雄略天皇?)は、宋の昇明2(478年)年5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。

「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」(『宋書』倭国伝)
倭王武は、祖先の功業の成果として、東国の毛人の国々のみならず、対馬海峡を渡って南朝鮮の国々まで、大和朝廷の威力が行き渡っているかのように誇らしげにうたいあげている。この第1段とも謂うべきところが特に有名である。この上表文には、『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から引かれているものが見受けられるという。例えば、「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」などは『春秋左氏伝』にも見られる字句である。この上表文を書いた雄略朝官人の漢文の教養の深さが窺われる。 「倭の五王」のうちの倭王武は、雄略天皇に比定されている。

『日本書紀』に基づいて、磐井の乱の経緯をたどるとおよそ次のとおりである。

527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。

磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・許勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。

528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と記されている。同年12月、磐井の子、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。

『宋書』によれば、済の世子の興が安東将軍倭国王になったのは、462年。興没し、弟の武が立ったのは、477年となる。
ところが、通説では、稲荷山鉄剣の銘文の「獲加多支鹵」を「ワカタケル」と読み、日本書紀に「幼武(ワカタケル)」、古事記に「若建(ワカタケル)」)と記す雄略天皇に当てる。

したがって、倭の五王の武を雄略天皇に当てている通説では、「倭王武=雄略天皇=獲加多支鹵(ワカタケル)大王」という図式が出来上がる。

けれども、それでは、鉄剣を作らせた年が辛亥の年であることに矛盾する。

なぜなら、辛亥の年が471年ならば、獲加多支鹵は477年に即位した倭王武ではなく、
462年に安東将軍倭国王となった興でなければならないことになる。 

また、辛亥の年が531年ならば、507年に即位した継体天皇以後の時代の出来事となり、獲加多支鹵=雄略天皇=倭王武とは無関係になる。

日本書紀には、安康3年8月に天皇が眉輪王に殺されたとあるので、興は462年即位後まもなく死んだとする説があるが、倭の五王の記事は『宋書』の記事である。

だとしたら、『日本書紀』安康天皇条と、『宋書』倭国伝を都合よく使いわけず、『宋書』の視点で考えるべきであろう。そうすれば、やはり、471年は倭王興の時代である。