弁辰伝

弁辰與辰韓雑居亦有城郭衣服居處與辰韓同言語法俗相似祠祭鬼神有異施竈皆在戸西
「弁辰は辰韓と雑居する。城郭がある。衣服や住居は辰韓と同じで、言語や法俗も似ている。鬼神を祭ることに違いがあり、かまどは家の西側にある。」

 弁辰と辰韓は馬韓の東で雑居していました。国境を明確に定められないくらい入り混じっていたことは、辰韓伝、二十四国の表記に示されています。辰韓や倭では城柵ですが、弁辰には城郭がありました。柵は木の囲いだから、郭は土壁なのか?その他のことでは、弁辰と辰韓は非常に近い民族のようですが、信仰が異なっていて、竈を重視したことがうかがえます。

其瀆盧国與倭接界十二國亦有王其人形皆大衣服絜清長髪亦作廣幅細布法俗特嚴峻
「その(弁辰の)瀆盧国は倭と界を接している。十二国には王がいる。その人はみな大柄である。衣服は清潔で、長髪。また廣幅の細かい布を作る。法俗は特に厳しい。」

 馬韓にも辰韓にも王はおらず、臣智という地位が最高だったのに、弁辰にだけ王が存在します。辰韓と弁辰の違いはどこからきたのか。弁辰が土着の古い民族かといえば、そうではないようです。「中国朝鮮史から見える日本」で明らかにしたように、魏志倭人伝に記された女王国の風俗は越人の風俗に重なっていました。辰韓人は入れ墨の風俗など男女とも倭に近いのですから、同じく越系の可能性がある。秦の長城建設のために強制移住させられて逃げ出したわけですから、元越人かもしれない。その辰韓と言語や法俗が似ているのですから、弁辰もまた南方系民族の要素を持っているわけです。馬韓の東に雑居しているのは辰韓と同じような境遇だったからではないか。
 先に書いたように、正始七年、辰韓八国を楽浪に編入しようとした魏と戦い「韓」は滅びたとされています。この時、馬韓、辰韓は王位を奪われた。弁辰はこの戦いに無縁か、魏に従順で優遇されていたと考えれば、弁辰の王の存在につじつまが合います。魏志韓伝のデータの多くは韓が滅びた正始七年(246)から魏の滅亡(265)までの間に記されたものと思われます。