橘、橘氏

橘とは

橘について『魏志倭人伝』は次のように記述する。この時代は橘を食べる習慣がなかったようである。
薑(しょうが)・橘・椒(さんしょう)・みょうががあるが、賞味することをしらない。 (滋味とするを知らず)

『続日本紀』には和銅元年(708年)の元明天皇の言葉として次のような記述がある。このころは、橘はおいしい果物であったと認識されていた。
橘は果物のうちで最上のものであって、人々の好むものである。(橘は菓子の長上)

倭人伝記載の橘と続日本紀の橘とは、別物のように見える。

『古事記』『日本書紀』の垂仁天皇の条に、新羅の王子・天の日矛(あめのひぼこ)の子孫である田道間守(たじまもり)が常世(とこよ)の国を訪れて「非常の香実(ときじくのかぐの実:四季変わらない香りをもつ実)」を持ち帰った伝承がある。
『古事記』『日本書紀』の編纂者は、「ときじくのかぐの実」とは橘のことであると記述している。

橘:母系社会の象徴 そして代代続く実
多胚種で、受精による胚、受精によらない胚があり、これを蒔くと多くは受精に依らない胚が芽を出すそうです。母植物そのものを再現する。
橘の実の代々のつならり  橘の果実を収穫せずに置くと、次のシーズンの開花時にも、果実は落ちず、腐らずになっているものもある。生命力のある橙は代代続く実としての「橙」が縁起物となったのに似ています。
田道間守が持ち帰ったのは橘ではなく橙といわれている。

橘の京
橘嶋(たちばなしま)の宮
河内の国 と云々(勅撰名所)。おもうに橘の京は大和の国あきらけし。一応こゝにあらわす。
 橘の嶋の宮にはあかぬかも さたの岡邊に殿井しにけり (万葉)
山田寺
  玉林抄に云う、橘の京にあり。当世山田村これなり。 山田寺亦は華嚴寺という。孝徳天皇五年、蘇我の山田の石川麻呂の大臣、天皇の御ため に構造して山田寺と号せり。同年三月廿四日、讒にかゝり大臣をはじめ多くの人ほろびにけり。
飛鳥の橘寺。
田道間守が持ち帰った橘を植えたとの伝説があり、現に背の高い橘の木がある。
聖徳太子の誕生の地とも云われ、常世との繋がりの深い處。
欽明天皇の別宮である”橘の宮”の跡をこの寺としたと云います。
大和の広瀬大社の創建譚に橘が出てくる。
崇神天皇九年(前八九年)、広瀬の河合の里長に御神たくがあり、一夜で沼地が陸地に変化し橘が数多く生えた事が天皇に伝わり、この地に社殿を建てまつられる。
広瀬町のあたりは、広い沼沢だったのか???

橘氏

記紀によると田道間守は垂仁天皇(第11代)の時代の人。

倭国は中国の王朝に朝貢を行ってきた。後漢には倭国王師匠が、魏には卑弥呼が、西晋には台与が使者を送った。田道間守も垂仁天皇が東晋に送った使者ではなかったのか。 田道間守は、中国南部の東晋の温州あたりに行ったときに、食用ミカンの「ときじくのかぐの実」を手に入れたのであろう。

『古事記』『日本書紀』の田道間守の伝承は、垂仁天皇の時代に田道間守が東晋に派遣された史実があって、それを核として成立した伝承の可能性が高い。

県犬養三千代は天武朝から命婦として仕えたほか文武天皇の乳母を務めたともされ、後宮の実力者として皇室と深い関係にあった。三千代は初め美努王の妻となり、葛城王や佐為王を生んだ。694年に美努王が大宰帥として九州へ赴任すると、代わって藤原不比等の夫人となり、藤原光明子(光明皇后)らを生んだ。和銅元年(708年)11月25日、元明天皇の大嘗祭に際して、天武天皇治世期から永く仕えてきた三千代の功績が称えられ、橘の浮かんだ杯とともに「橘宿禰」の氏姓が賜与された。

橘三千代が天平5年(733年)に没すると、同8年(736年)11月11日に三千代の子の葛城王と佐為王が橘宿禰の氏姓継承を朝廷へ申請し、同月17日に許された。葛城王は橘諸兄と改名し、佐為王は橘佐為を称した。諸兄は既に天平3年(731年)から参議に就いて議政官(公卿)を勤めていたが、天平9年(737年)には大納言へのぼると、翌10年(738年)には右大臣へ、同15年(743年)には左大臣へ昇進し、聖武・孝謙両天皇の治世期に太政官首班として政治に当たった。天平勝宝2年(750年)正月16日には朝臣の姓を賜り、これ以降、諸兄は「橘朝臣」を称した。橘氏の歴史の中で最も権勢を誇ったのがこの諸兄の時期である。

氏姓 橘宿禰のち橘朝臣
氏祖 橘三千代 橘諸兄
種別 皇別
著名な人物
橘奈良麻呂 小式部内侍
橘嘉智子(檀林皇后) 橘逸勢 橘好古

氏上は平安時代になると氏長者と名称が変化し、氏族の中で最も官位の高い者が就任するようになった。必然的に氏長者は貴族社会に限定され、氏族集団内部の長というだけでは氏長者になることはできなくなった。また官位の逆転による交代もあり、終身的地位でもなくなった。文献上では伴氏、高階氏、中臣氏、忌部氏、卜部氏、越智氏、和気氏にも氏長者が存在したようであるが、平安後期には多くの氏族が貴族社会に留まることができず没落していった。

南北朝期の北畠親房は『職原抄』に「凡称氏長者、王氏、源氏、藤氏、橘氏有此号」と記している。それ以外では、菅原氏の長者は「北野の長者」と称され、明応5年(1496年)に九条政基が唐橋在数を殺害した事件では、北野の長者であった高辻長直が一門の公卿を率いて政基を告発する申状を朝廷に提出している

氏長者の権能は、以下の事項である。

氏神の祭祀、氏社・氏寺の管理
橘氏の梅宮社、藤原氏の春日社・興福寺など。祭日に奉幣使を立て、別当を補任した。
大学別曹の管理
藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、王氏の奨学院、和気氏の弘文院など。10世紀の初めに、大学で学ぶ子弟のために諸氏族は学曹という寄宿舎を設立するが、やがて大学寮の付属機関として大学別曹と呼ばれるようになった。勧学院は規模を拡張し、春日社・興福寺関係の事務全般を取り扱った。

氏爵の推挙
正六位上の氏人から一人を従五位下に推挙する制度。律令制では五位以上は貴族として多くの特権が認められるため、希望者は氏長者に熱心な働きかけをした。この権限は推挙する者を「是とし定める」ことから是定と呼ばれた。なお橘氏は平安中期に公卿が絶えたため長者と是定が分離し、是定は他氏の公卿が就任するようになった。