職貢図は、中国王朝からみた諸夷と呼ばれた周辺諸民族が、様々な扮装で来朝する様を、文章とともに絵図として描いている。梁(南朝)から清朝の時代まで複数の存在が確認されている。
2011年に発見された梁の『梁職貢図』には、新羅が「あるときは韓に属し、あるときは倭に属した」と、新羅が倭の属国であったと記されている。『梁職貢図』は、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた526年から539年までの間に作成されたとされ、新羅が倭国に属していた時期は、これより前の年代になる。なお、蕭繹は、梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を荊州や梁の首都建康(現在の南京市)で調査し、また裴子野(469年~530年没)の方国使図を参考にした。
- 斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王姓募名泰,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉
斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して始めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。
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『梁職貢図』は、梁の武帝(蕭衍)の第7子、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた時代に作成されたと伝えられる。蕭繹は学問好きで、蔵書は10数万巻に及んだという。蕭繹は、梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を荊州や梁の首都建康(現在の南京)で調査し、また裴子野(469年~530年没)の方国使図を参考にしたといわれる。
原本は紛失しているが、唐の画家閻立本による模本(台湾故宮博物院蔵)、南唐の画家顧徳謙による模本(台湾故宮博物院蔵)、北宋の模本(中国国家博物館蔵)の三種類の模本が現存しているが、いずれも完本ではなく、記事に欠落も多い。「歴史地理風俗的題記」が記された北宋模本でも、絵は12国、題記は13国にとどまっていた。
近年、歴史学者趙燦鵬によって発見された清朝時代の画家張庚による『諸番職貢圖巻』では、18国の題記を含んでいる。」を参照のこと
『梁職貢図』は、梁の武帝(蕭衍)の第7子、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた時代に作成されたと伝えられる。蕭繹は学問好きで、蔵書は10数万巻に及んだという。蕭繹は、梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を荊州や梁の首都建康(現在の南京)で調査し、また裴子野(469年~530年没)の方国使図を参考にしたといわれる。
近年、歴史学者趙燦鵬によって発見された清朝時代の画家張庚による『諸番職貢圖巻』では、18国の題記を含んでいる。
趙燦鵬によれば職貢図における高句麗の題記は『翰苑』高句麗条の記述と関連性が深く、また職貢図は『梁書』諸夷伝の原史料の一つでもあったことが指摘されている。
張庚模本に記された国は、渇槃陀国(タシュクルガン・タジク自治県)、武興蕃(仇池國)、高昌國、天門蠻、zh:滑國、波斯国、百済国、亀茲国、倭国、高句麗国、于闐国、斯羅国(新羅)、周古柯国、呵跋檀国、胡蜜檀国、宕昌国、鄧至國、白題國などである。なお、北宋模本にある狼牙脩國(狼牙修国)、未国については記載がない。
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「梁職貢図から新羅・高句麗題起が発見」 ソウル=聯合ニュース2011年8月23日、キム・テシク記者。
2011年8月20日新羅史学会第107回学術発表会におけるユン・ヨング博士発表。ユン博士は仁川都市開発公社所属。張庚模本について青黛文集から発掘したと同記事にある。
韓国古代史研究の第1級史料の一つと見なされる梁職貢図で永遠に消えたと見なされた新羅と高句麗に対する簡単な説明の題記が最近発見された。
特に、今回発見された新羅に対する提起には新羅が倭の属国という一節がある、いわゆる任那日本府説とあいまって論争が広がる見通しだ。
韓国古代史専攻である仁川都市開発公社ユンヨンク博士は、過去20日、西江大学で開かれた新羅史学会第107回学術発表会を通じて中国で最近発見報告された梁職貢図提起を分析、紹介した。
ユン博士によると、中国の学者の趙燦鵬が発掘し、今年初めに紹介した梁職貢図資料は清国の中期に人物で、絵に造詣が深い張庚(1685~1760)という人が模写した諸梁職貢図だ。
<中略>
ユン博士は、今回公開された梁職貢図の史料を南京博物館の舊藏本の梁職貢図版本と比較した結果、「新羅と高句麗を含む7つの国家の史料は完全に新しく出現した史料であり、さらに、百済と倭国をはじめ、従来知られている9カ国の史料の内容も差は小さくない」と話した。
特に、張庚が書き写した梁職貢図を通じて初めて姿を現した新羅の史料を見ると、新羅の国号は「斯羅國」と表記され、しかも、新羅が「韓に属したりもし、たまに倭国に属したりもした。その国の国王は自ら使者を送りるのに増便することはできない」と記録されている。
また、総91文字になったこの史料は「梁武帝の普通(年号)2年(521)に新羅王の募泰が初めて、百済の使節に返答の使者を送り、表をして小間物(方物、特産品)を送った。
「その国では砦を健年(ゴニョン)と呼び、その習俗は高麗(高麗、高句麗)と似ている。文字がなく、木を刻み、表示する。言葉は百済を介して通じる事が出来る」とした。この記録では「募泰」とは「募秦」を書き間違えた「法興王」を指し、、姓を指す新羅語ゴンニョン(健年)も、その他の記録を参照する際に、ゴンモラ(健牟羅)のミスと考えられる。
ユン博士はこの内容の中でも「新羅が倭国に属したりもしたと」いう言及が新たに明るみになった部分であり、これをどう受け止めるかよって歴史学界で論議が起こる可能性があると付け加えた。
韓国の歴史家ユン・ヨングは張庚模本と南京博物院旧蔵模本と比較したうえで「新羅と高句麗を含んだ7ヶ国の題起は完全に新しく出現した資料」とした。
また、張庚模本の新羅題記の中の「或屬韓或屬倭」(「或るときは韓に属し、或るときは倭(国)に属した」)という記述について、任那日本府(369年–562年)問題や414年に建立された広開土王碑碑文における
という記述などの諸問題に関連して議論が起こるだろうとした。
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日出処
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という煬帝あて国書は、長年、議論の的となってきましたが、『大智度論』などの仏典では、「日出処」は東、「日没処」は西を指す言葉として用いられていることは、東野治之氏が早くに指摘されたところです。
ただ、この語を倭国より先に国書で用いていた国があったことが、明らかになりました。中国史上最も仏教熱心な皇帝であった梁の武帝に対して、西域の小国の王が送った国書の中に「日出処」の表現が見える。
趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢図》題記佚文的新発現」
(『文史』2011年第1輯、中華書局、北京、2011年2月)
です。
現在は、唐の模本と南唐の模本(ともに台湾の故宮博物院)、北宋の模本(北京の中国国家博物館)という3本の模本が伝えられていますが、いずれも完本ではなく、使者の絵や国名だけでなく、その国の「歴史地理風俗的題記」が記してある北宋の模本にしても、絵は12国、題記は13国にすぎず、それも欠落があり、倭国の題記も途中で切れてます。
ところが、清代の学者・画家であった張庚(1685-1760)が写したものは18国の題記を含んでおり、それが清末民国初の葛氏の『愛日吟廬書画続録』(『続修四庫全書』子部・芸術類、1088册)中に掲載されていて、現行諸本の欠落部分や文字の誤りをある程度補うことができることを、趙燦鵬氏は発見したのです。
北宋の模本では、「……来朝。其表曰、揚州天子、出処大国聖主……」となっている箇所が、今回発見されたテキストでは、「来朝貢。其表曰、揚州天子、日出処大国聖主……」となっていました。
つまり、「来朝す」でなく「来りて朝貢す」、「出処」でなく「日出処」となっており、その上表文では、梁の武帝に対して、「揚州の天子、日出づる処の大国の聖主」と呼びかけていたのです。しかも、この「表」ではそれに続けて、胡蜜檀国王が「遙かに長跪合掌し、作礼すること千万なり」と述べており、おそらく仏教信者である国王が武帝に対して遠方から仏教風に何度も礼拝を重ね、非常に敬っていることが示されていました。
梁代には東南アジア・南アジア・西域の諸国との交渉が増えており、それらの諸国が武帝あてに送った国書では、武帝を菩薩扱いして敬い、仏教用語を盛んに用いて武帝や梁を礼賛していたことは、河上麻由子さんの一連の論文で指摘されている通り。梁こそが天下の中央であって、その天下の東端の国から日が上るのでなく、江南の梁は「日出づる処の大国」とされ、仏教信仰で有名な「天子」である武帝は「聖主」と呼ばれているのです。
このことは、倭国の「日出づる処の天子」国書を考えるうえでも重要。実際、今回発見された倭国の題記の後半部分では、末尾は「斉の建元中(479-482)に、表を奉じて貢献す」とあるのみです
遣隋使の日出ずる処
派遣第一回 開皇20年(600年)は、『日本書紀』に記載はない。『隋書』「東夷傳俀國傳」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。
「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」
開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く跏趺(かふ)して座す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。
俀王(通説では俀は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、天より垂下した彦(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミで、大王とされる。『新唐書』では、用明天皇が多利思比孤であるとしている[1]。
開皇20年は、推古天皇8年にあたる