斯摩宿禰、千熊長彦

364年 百済人久氏ら、卓淳国を尋ね、倭国との通交を求とめる。
 366年 倭国の斯摩宿禰、卓淳国へ行き、使者を百済におくる。
 367年 千熊長彦を遣わして新羅を責める。
 369年 新羅を攻め、比自体(ひしほ)以下の7国を平定し、比利以下の4邑を降伏させる。
 372年 百済の肖古王、久氏らを倭国に遣わし、七枝刀1口・七子鏡1面をおくる。
 382年 襲津彦を遣わし、新羅を攻める。
 390年 神功皇后没年(日本書紀269年)

246年4月3日い

神功皇后が斯摩宿禰を 卓淳とくじゅん国に遣わす。卓淳王末錦旱岐は斯摩宿禰に告げて「甲子年(二年前?)七月中に百済人である久氐・弥州流・莫古の三人が我が国にやってきて『百済王は、東方に日本という貴い国があると聞き、我々を遣わしてその国に行かせた。それで道を求めてここに着きました。もし我々に道を教えて頂けるなら。我が王は必ずや深く君王を徳とするでしょう』と言った。そこで久氐らに『東方に貴い国があることは聞く。しかし通ったことが無いので、その道は知らない。ただ海は遠く浪は険しい。大船に乗れば、なんとか通うことも出来るだろう。もし船着き場があっても、船舶がなければかなわない』と言った。久氐らは『それならば今は通えないので、一度帰って船舶を用意してからとしましょう』と言った。また重ねて、『もし貴い国の使者が来ることがあれば、我が国にも伝えて欲しい』と言うと、帰っていった」と言った。斯摩宿禰は従者である爾波移と卓淳の人過古の二人を百済国に遣わして、その王を慰労させた。百済の肖古王は深く喜び厚遇した。五色の 綵絹しめのきぬを各一匹、 角弓箭つののゆみや、 鉄鋌ねりかね四十枚を爾波移に与えた。また宝庫を開き、いろいろな珍しい品を見せて「我が国には多くの珍宝がある。貴い国に奉ろうと思うが、道を知らない。志があってもかなわないが、今、使者に授けて献上しようと思う」と言った。

【日本書紀 神功皇后摂政四十六年三月乙亥朔条】

神功皇后摂政46年3月1日

神功皇后の命令で、 卓淳とくじゅん国に遣わされる。卓淳王末錦旱岐は斯摩宿禰に告げて「甲子年(二年前?)七月中に百済人である久氐・弥州流・莫古の三人が我が国にやってきて『百済王は、東方に日本という貴い国があると聞き、我々を遣わしてその国に行かせた。それで道を求めてここに着きました。もし我々に道を教えて頂けるなら。我が王は必ずや深く君王を徳とするでしょう』と言った。そこで久氐らに『東方に貴い国があることは聞く。しかし通ったことが無いので、その道は知らない。ただ海は遠く浪は険しい。大船に乗れば、なんとか通うことも出来るだろう。もし船着き場があっても、船舶がなければかなわない』と言った。久氐らは『それならば今は通えないので、一度帰って船舶を用意してからとしましょう』と言った。また重ねて、『もし貴い国の使者が来ることがあれば、我が国にも伝えて欲しい』と言うと、帰っていった」と言った。斯摩宿禰は従者である爾波移と卓淳の人過古の二人を百済国に遣わして、その王を慰労させた。百済の 肖古王しょうこおうは深く喜び厚遇した。五色の 綵絹しめのきぬを各一匹、 角弓箭つののゆみや、 鉄鋌ねりかね四十枚を爾波移に与えた。また宝庫を開き、いろいろな珍しい品を見せて「我が国には多くの珍宝がある。貴い国に奉ろうと思うが、道を知らない。志があってもかなわないが、今、使者に授けて献上しようと思う」と言った。爾波移は事を受けて帰還し、斯摩宿禰に告げた。そして卓淳から帰還した。

【日本書紀 神功皇后摂政四十六年三月乙亥朔条】

久氐くてい

生年月日( ~ 246年4月3日)没年月日(252年10月29日 ~ )
出来事
246年4月3日

神功皇后が斯摩宿禰を 卓淳とくじゅん国に遣わす。卓淳王末錦旱岐は斯摩宿禰に告げて「甲子年(二年前?)七月中に百済人である久氐・弥州流・莫古の三人が我が国にやってきて『百済王は、東方に日本という貴い国があると聞き、我々を遣わしてその国に行かせた。それで道を求めてここに着きました。もし我々に道を教えて頂けるなら。我が王は必ずや深く君王を徳とするでしょう』と言った。そこで久氐らに『東方に貴い国があることは聞く。しかし通ったことが無いので、その道は知らない。ただ海は遠く浪は険しい。大船に乗れば、なんとか通うことも出来るだろう。もし船着き場があっても、船舶がなければかなわない』と言った。久氐らは『それならば今は通えないので、一度帰って船舶を用意してからとしましょう』と言った。また重ねて、『もし貴い国の使者が来ることがあれば、我が国にも伝えて欲しい』と言うと、帰っていった」と言った。斯摩宿禰は従者である爾波移と卓淳の人過古の二人を百済国に遣わして、その王を慰労させた。

【日本書紀 神功皇后摂政四十六年三月乙亥朔条】
247年(5月22日 ~ 6月19日)

百済王の命令で弥州流・莫古と共に日本に朝貢した。新羅国の 調みつぎの使いも共に来た。皇太后と太子誉田別尊は大いに喜び、「先王が所望しておられた国人が今やって来た。御在世中でないのが残念だ」と言った。二国の貢物を調べると、新羅の貢物には珍品が多かった。百済の貢物は少なく、良くもなかった。そこで久氐らに「百済の貢物は新羅に及ばないのはなぜだ」と問うた。対して「私共は道がわからずに新羅に入ってしまい、新羅人は私共を捕らえて牢屋に入れました。三カ月が経って殺そうとしました。そのとき久氐ら天に向って呪いました。新羅人はその呪いを怖れて殺しませんでしたが、貢物を奪って自国の物としました。新羅の賤しい物を、我が国の貢物と入れ替えたのです。そして『もしこの事を漏らせば、還ってきた日に殺す』と言いました。それで久氐らは恐怖で従ったのです。それで何とか日本に着けました」と答えた。皇太后と誉田別尊は新羅の使者を責めた。そして千熊長彦を新羅に遣わして、百済の献上物を乱したことを責めさせた。

【日本書紀 神功皇后摂政四十七年四月条】
249年(3月31日 ~ 4月29日)

日本の新羅討伐軍と共に、新羅などを撃ち破る。その後、 肖古王しょうこおうに厚遇された千熊長彦を日本に送り届ける。

【日本書紀 神功皇后摂政四十九年三月条】
250年(6月17日 ~ 7月15日)

千熊長彦らと共に百済から日本にやってくる。神功皇后は喜び、久氐に「海の西の諸国をお前の国に賜った。何用でまたやってきたのだ」と尋ねた。久氐は「天朝のお恵みは、遠い国にまで及びます。我が王も歓喜しており、帰還の使者を送って誠意を表したのです。万世に至るまで朝貢を怠ることはございません」と答えた。皇太后は勅して「良いことを言ってくれた。我が願いそのままだ」と。そこで 多沙城たさのさしを賜り、往還の駅とした。

【日本書紀 神功皇后摂政五十年五月条】
251年(4月8日 ~ 5月7日)

百済王の命令で日本に朝貢する。

【日本書紀 神功皇后摂政五十一年三月条】
(251年4月8日 ~ 252年1月28日)

帰国するために日本を発つ。

【日本書紀 神功皇后摂政五十一年三月条】
252年10月29日

百済に到着する。

【日本書紀 神功皇后摂政五十二年九月丙子条】
百済王の命令で弥州流・莫古と共に日本に朝貢した。新羅国の 調みつぎの使いも共に来た。皇太后と太子誉田別尊は大いに喜び、「先王が所望しておられた国人が今やって来た。御在世中でないのが残念だ」と言った。二国の貢物を調べると、新羅の貢物には珍品が多かった。百済の貢物は少なく、良くもなかった。そこで久氐らに「百済の貢物は新羅に及ばないのはなぜだ」と問うた。対して「私共は道がわからずに新羅に入ってしまい、新羅人は私共を捕らえて牢屋に入れました。三カ月が経って殺そうとしました。そのとき久氐ら天に向って呪いました。新羅人はその呪いを怖れて殺しませんでしたが、貢物を奪って自国の物としました。新羅の賤しい物を、我が国の貢物と入れ替えたのです。そして『もしこの事を漏らせば、還ってきた日に殺す』と言いました。それで久氐らは恐怖で従ったのです。それで何とか日本に着けました」と答えた。皇太后と誉田別尊は新羅の使者を責めた。そして千熊長彦を新羅に遣わして、百済の献上物を乱したことを責めさせた。

神功皇后摂政47年4月

皇太后(神功皇后)の命令で新羅に派遣され、百済の献上物を乱したことを責める。

【日本書紀 神功皇后摂政四十七年四月条】
神功皇后摂政49年3月

日本の新羅討伐軍と、百済王父子が合流した後に、千熊長彦と百済王は、百済国の 辟支山へきのむれに登って 盟ちかった。また 古沙山こさのむれに登って共に岩の上に居り、百済王が盟って「もし草を敷いて座れば、火に焼かれるかもしれない。木を取って座れば、水に流されるかもしれない。岩の上で盟うことは、永遠に朽ちないということを示す。今後は千秋万歳に絶えることはないだろう。常に西蕃と称して春秋には朝貢します」と。百済王 肖古王しょうこおうは千熊長彦を連れて都に帰り、厚く礼遇した。また久氐らをそえて送った。

【日本書紀 神功皇后摂政四十九年三月条】
神功皇后摂政50年5月

千熊長彦、久氐らと共に百済から帰還する。

【日本書紀 神功皇后摂政五十年五月条】
神功皇后摂政51年(3月 ~ 12月)

千熊長彦、朝貢の使者としてやってきた久氐らを百済国に届ける。

【日本書紀 神功皇后摂政五十一年三月条】
神功皇后摂政52年9月10日

千熊長彦、百済に到着する。

【日本書紀 神功皇后摂政五十二年九月丙子条】

百済記 

神功皇后摂政五十年ではますます書紀編纂者の筆はよく滑ったようだ。
日本書紀岩波版の注も、
「日本の(百済に対する)徳化を称える観念的な話」として、
史実とは無縁なことを断定している。
さらに、
「最後の多沙城(の百済への割譲)も
6世紀ごろの有名な史実を過去に投影したもの
でオリジナルな史料に基づくものは何もない。」
と切り捨てている。
話の概要は以下の通り。

五十年(370年)5月、千熊長彦が百済の久氐を連れて戻ってきた。
皇太后は久氐に、
「百済には多くの領土を与えたのに、何の用があって来たのか」
と問いかけた。久氐は、
「百済王(肖古王)は日本からの恩恵に対して大変喜んでいます。
至誠を尽くして後の世に至るまで朝貢を続けると申しています」
と述べた。
皇太后はその言葉を聞いて来意を納得し、
久氐の往復の労をねぎらうという名目で多沙城を割譲した。
五十一年(371年)3月百済王は久氐をまた派遣してきた。
皇太后は太子と武内宿禰に、
「私が親交を結んでいる百済は天からの授かりものだ。
珍しいものもあまりない貧しい国だがしばしば朝貢してきて誠意がある。
私が死んだ後も同様に恩恵を与えるようにしなさい。」
と述べた。
その年(371年)久氐の帰国に付き添わせて千熊長彦を百済へ派遣した。
皇太后は、
「私が神の導くところに従って海の西を平定し、百済に割譲した。
今また友好関係を結び末永く寵賞しようと思う」
とおっしゃった。
そのことを伝えると、百済王と皇子は
「貴国の恩情は天地よりも重い。永遠に忘れません。
聖王は天上にあって日月のようです。
我々は下に侍って山のように動かぬ気持ちで、
永遠に西蕃となって裏切ることはありません。」
と述べた。

千熊長彦と久氐の日本と百済の高官が両国を行ったり来たりして、
百済は日本への忠誠を誓い、
日本の皇太后は百済の朝貢の誠意を受けて満足しているさまが
繰り返されている。