甕星香香背男ともいう。東国に多い星の宮に祀られている。
神武天皇以前からの神である。
日本書紀のみに記される。
経津主神・武甕槌命は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている。
第二の一書では天津神となっており、経津主神・武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている。
葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。
茨城県日立市の大甕神社は、天津甕星を服従させた建葉槌命を祭神としている。
社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。
「天香香背男」というのが、「天背男」に出雲神を表す蛇の古語である「カカ」を挿入していること(通説では星神だから 「かか」は輝くという意味)を考えると、出雲族と婚姻関係を結んで、出雲族とは戦争をしたくない氏族であったのだろう。
天津甕星(あまつみかぼし)と聞いて、また浮かぶのが、阿遅須枳高日子の祖父神 赤衾伊努意保須美彦佐倭気(あかぶすまいぬおおすみひこさわけ)の妻神の天甕津日女(あめのみかつひめ)です。
また、阿遅須枳高日子の妻神は、天御梶日女(あめのみかじひめ)でこれまた、「天」と「みか」の名前がついている。(名前が似ているから、同じ神かはどうかわからないが、、、)
この天甕津日女命は、出雲風土記の出雲郡伊農郷や秋鹿郡伊農郷に登場してくる。また、天御梶日女命は、
楯縫郡神名樋山にて「阿遅須枳高日子の后、天御梶日女命、多宮の村に来て、多伎都比古命をお産みになった。」
との記載あり。
多久神社「天甕津比女命」
島根県八束郡鹿島町南講武602
御当社の主祭神は天甕津比女命と称奉る女神様で八束水臣津命の御子、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の御后神様であります。夫神様の佐和気能命が「出雲の国は狭布の如き稚国なり」と国土経営開発の大業をなされた際、その神業を補翼し、大功績をお挙げになられた神性勇剛で見目美わしい女神様であります。
島根県平田市美野町382 伊努神社「天甕津姫命」
島根県平田市美野町935 芦高神社「赤衾伊野意保須美比古佐和氣能命 配 天甕津姫命」
出雲郡伊努郷(いぬごう)は、神門臣家の「赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命」(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)を祀る伊努神社があります。国引き神話の八束水臣津野命の子神であります。
出雲の神門臣家と婚姻関係を結んだ天甕津日女命である。
尾張国逸文の丹羽郡吾縵郷(愛知県一宮市)にも登場
“尾張国 風土記逸文 (『釈日本紀』卷十)
吾縵(あづら)郷
尾張風土記の中巻にいう。丹羽郡。吾縵郷。巻向の珠城の宮で天下を治める天皇(垂仁天皇)の世、品津別(ほむつわけ)皇子は、七歳になっても言葉を発することが出来なかった。その理由を広く臣下に尋ねたが、はっきりとわかるものがいなかった。その後、皇后の夢に神が現れた。お告げに言う。「我は、
多具(たく)国の神で、名前を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)という。我には祭祀してくれる者が未だにいない。もし我のために祭祀者を当てて祭るならば、皇子は話すことができるようになるだろう」。
天皇は、霊能者の日置部等が先祖に当たる建岡の君を祭祀者に指名して、(彼が神の求める祭祀者であるか否かを)占うと吉と出た。そこで、神の居場所探しに派遣した。ある時、建岡の君は、美濃国の花鹿山に行き着き、榊の枝を折り取って、縵(かづら)に作って、占いをして言う。「私が作った縵が落ちた所に、必ず探す神がいらっしゃるだろう」。すると縵がひとりでに飛んで行き、この吾縵郷に落ちた。この一件でこの地に阿麻乃弥加都比女の神がいらっしゃることがわかった。そこで社を建ててt神を祀った。(「吾が作った縵」という建岡の君の発言によって)社を吾縵(あがかずら)社と名付け、また里の名に付けた。後世の人は訛って、阿豆良(あづら)の里といっている。”
『風土記 上』 中村啓信 監修・訳注
ホムツワケ伝承の出雲大神に代わって、祟り神として尾張国にも登場するのである。尾張の国で祀りなさいということは、もともと、天甕津日女命の氏族は、この尾張が本拠地だったのかもしれない。
尾張国大国霊神社神職家の系図によると始祖が天背男命で尾張氏の遠祖であるという。また、先代旧事本紀で饒速日が天下った時に随行した32人衆の中に天背男命(天神立命):山背久我直等祖、天背斗女命(天背男命):尾張中嶋海部直等祖の名が見られる。
天背男命の末裔が社家を務めた神社
愛知県稲沢市国府宮1-1-1 尾張大國霊神社「尾張大國靈神」崇神天皇七年(約1870年前)に神地を定めて封戸を賜り、天背男命(尾張族の祖先)の子孫である中島直(後に久田氏、野々部氏を称して明治維新まで奉仕しました)をして奉仕せしめられたという。
名古屋市南区本星崎町字宮町620 星宮社「天津甕星神」
愛知県幡豆郡吉良町大字富田字殿海戸87 富田神社「建速須佐之男命 合 天香香背男命ほか」
三重県阿山郡阿山町大字石川2291 穴石神社「木花佐久夜比賣命 合 天香香脊男命ほか」
三重県阿山郡阿山町大字馬場951 陽夫多神社「健速須佐之男命 合 香香背男神ほか」
三重県阿山郡大山田村大字平田699 植木神社「健速須佐之男命、櫛名田毘賣命 配 香香脊男命、五十猛神ほか」
三重県鳥羽市答志町984 美多羅志神社「天忍穗耳命 合 北斗星神、三十三夜星神ほか」
天背男 : 神魂系 天日鷲命の父
倭文氏は、カミムスビ系の氏族のようである。同じカミムスビ系の氏族として、県犬養連・瓜工連・多米連・間人連・紀直・額田部連等がある。
この新撰姓氏録と符合しているように洲宮神社祠官小野家所蔵の「斎部宿祢本系帳」には、
神魂命─角凝魂命─伊佐布魂命─天底立命─天背男命─天日鷲命という
ような系譜となっている。そして、その後が天羽雷雄命とつながるようである。
天背男という名は、星神の天香香背男か?
伯耆国一之宮 倭文(しとり)神社
鳥取県の東部にある東郷池の東北側に、がある。倭文神社(湯梨浜町)倭文氏の祖神 建葉槌命(たけはづちのみこと)を祀っている。建葉槌命は、天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)とも云い、機織りの祖神とされており、倭文(しどり)氏の祖神である。
建葉槌命は、日本書紀では、葦原中津国平定に従わない星神・香香背男(かかせお)を服させる神として登場してくる神
だ。その神とともに、大国主命の息女、下照姫が祀られている。
出雲より着船し(羽合町宇野と柏村宇谷の中間の仮屋崎に着き化粧直しに使った水が伝えられているようだ。)倭文神社
の社地に住居を定め、亡くなるまで安産の指導や農業開発、医薬の普及にも尽くされたという。
下照姫の謎
斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)によれば、下照姫は大国主命と多紀理毘売命の娘ではなくて、因幡の白兎の八上姫との娘である。妻問婚の時代一般的にこどもは母方の一族で育てられるゆえ母方の一族が住む因幡の国のすぐ隣のここが、富家伝承の方が理にはかなっておるように思う。
しかし、「木俣神」として、斐川町の御井神社に取り残され、大国主命の一族に育てられたのかもわからないが・・・。ちなみに富家伝承では、阿陀加夜奴志多岐喜比賣命は下照姫ではなく、多岐津姫であり、出雲風土記における阿陀加夜奴志多吉比賣命は所造天下大神(大国主命)の「御子」とは間違いで「御妃」であるようだ。