日本大文典の日本年号、宣教師 ロドリゲス、九州年号

日本大文典

原題、〈ポルトガル〉Arte da Lingoa de Iapam》日本語学書。ロドリゲス著。
慶長9~13年(1604~1608)長崎で刊行。キリシタン宣教師の日本語修得を目的として、当時の日本の口語文法を中心に国語の広範な領域にわたり、ポルトガル語によって詳細に記述。元和6年(1620)マカオで刊行した「日本小文典」に対していう。

ポルトガル北部のセルナンセーリェ (Sernancelhe) に生まれ、少年のうちに日本に来て1580年イエズス会に入会、長じて日本語に長け、通訳にとどまらず会の会計責任者(プロクラドール)として生糸貿易に大きく関与し、権力者との折衝にもあたるほどの地位に上り詰めたが、後に陰謀に遭って1610年、マカオに追放された。マカオではおなじく追放されてきた日本人信者の司牧にあたったほか、マカオ市政にも携わり、明の朝廷にも派遣された。日本帰還を絶えず願うも叶わず、マカオに歿した。日本語や日本文化への才覚を以て文法教科書『日本語文典』、『日本語小文典』を著したほか、『日本教会史』の著者としても知られる。

日本やポルトガルでの宣教保護から十分な資金を得られなかったため、マカオ=長崎間の貿易仲介によって必要な資金を得ていた。
秀吉や家康などからの依頼による貿易代行がそれであるが、他にも生糸の価格決定への関与などへも精力的に関わった。

その一方、これらの商行為や政治への関与は、強い反感と反撥をもたらした。イエズス会では、聖性を乱すとして、かねてより商行為への関与は否定的に見られており、強い制約が与えられていた。その制約が緩和され、ますます活溌になるのを見るにつけ、貿易を容認する日本管区上部にイエズス会総長や教皇からの圧力を求める声があがった。貿易は托鉢修道会からとくに強く批判され[25]、周囲の大名は、ロドリゲスの政治介入について批判した。長崎奉行の長谷川藤広と、長崎代官の村山等安らによってロドリゲス排除が試されるなど、立場が次第に危うくなっていった。

1609年、ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ (Nossa Senhora da Graça) 号(別名マードレ・デ・デウス (Madre de Deus) 号、岡本大八事件)の一件(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件‎)が起ると、長谷川藤広と村山等安はふたたび誣告し、ついに1610年、家康の命により追放されてしまった。

ロドリゲスは、日本にいる間に日本語文法書の執筆に取りくみ、1604年に印刷がはじめられ1608年に印刷が終結した。これが『日本文典』(Arte da Lingoa de Iapam, 日本の言語についての文法学書)である。
ラテン語学における伝統的な文法体系に基づいて日本語の文法を整理しようとしたもので、イエズス会の先達の文法書を下敷きにしつつ、独自の観点でラテン語文法の枠組みを日本語に見合うように拡張もしている。ロドリゲスが多忙のなかでどのように執筆したか、また、ロドリゲスがこの文典を編むにあたって教養のある日本人が協力したと強く推察されるが、それはどんな人物であったのか、印刷になぜ遅れが出たのかということについて詳らかでないが、経済的な困窮やロドリゲスの多忙により原稿が完成していなかったかなどと考えられている。
ロドリゲスは、1633年8月1日、ヘルニアの悪化によりマカオで死去し、聖ポール天主堂跡に埋葬された。

日本の年号

日本の書物にある年号を年代順に記載している。年号に二つの意見があるとしている。522年善記から始めている。

『然しながら、書物や歴史にはDaifo大宝以前の別の年号を記述しているのでIenqui善記から始めよう。』
とし、キリシト紀元の年 522  Ienqui 善記  4年つづく。

とある。

847頁下の継体天皇の所に「即位16年にIenqui(善記)といふ最初の年号が使われ始めたといふ。」これは「海東諸国紀」の「継体天皇十六年始建年号為善化」と対応しています

最初の年号が「継体」というものもあるようですが、
しかし他の 史書たとえば江戸時代の鶴峯戊申の『襲国偽僭考(そこくぎせんこう)』や桃山時代に日本に駐在したポルトガル宣教師ジョアン・ロドリゲスの『日本大文 典』、筆者不明の『興福寺年代記』、『麗気記私抄』などはすべて「善記」が最初だと記録している。使用例は鹿児島から青森まで全国で約400件も発見されている。
従って「継体」年号は九州倭政権の天皇のおくり名「継体」を年号と見誤った記録と考えられているという。

  
  
  

前文 年号について