伽耶王族 金庚信、新羅王 金春秋

金春秋と金庾信
金春秋の祖父は新羅の真智王です。真智王は在位4年目で王位から追放されてしまいました。
「三国史記」には王が在位4年目に亡くなったと記されています。しかし、「三国遺事」には真智王は淫蕩な行動を続けたため王位から追放されたと記されています。
その理由はどうであれ、金春秋の家系は王位から追い出されて、その子孫は王になれない王族だったのです。その金春秋の父と加羅の王族出身でやはり新羅で冷や飯を食っている金庾信の父は政略的に接近します。 こうした雰囲気のなかで、金春秋と金庾信は親しい友だちになり、その両家の関係は金春秋が金庾信の妹である文姫と結婚することでより深くなります。

善徳女王の時代、ピダムの反乱を制圧し 相次ぐ戦争であげた功績があった
「三国史記」によると、金庾信は629年の高句麗とのナンビ城の戦いで勝利を収めたのから始めて、644年の百済との戦いで7つの城を奪うなど、数多くの戦争で負けることなく、勝ち続けました。こうした金庾信が新羅の貴族社会で実力をつけていったのは当然の結果でも在ります。金庾信と金春秋は、新羅の善徳女王にとっては自分の両腕のような存在になっていました。金春秋は善徳女王が王になる前から補佐役をしていました。そして善徳女王の下で高句麗や日本を訪問するなど、新羅の外交を主導した。

金庚信 新羅の英雄
532年に新羅に投降した金官伽倻の最後の仇衡王を金仇亥といい、その末子の金武力は角干(1等官)の位に上った。金武力の子の金舒玄が金庾信の父であり、金舒玄もまた角干の位にまで上った。金庚信は大角干になった。庚信の墓は太宗武烈と並んで、やや小ぶりながら王侯級の墳墓であり、伽耶の王族の出生である影はない。墳墓は慶北 慶州市 忠孝洞 山 7-10番地にあり、立派な王族に劣らない。
647年の善徳女王の死後、金春秋と共に真徳女王を立ててこれを補佐し、女王が死ぬと金春秋を武烈王として即位させた金庾信は母を王族とする真骨。また 金春秋も父を王族とする真骨であった。
彼等2人が唐と連合して百済・倭と歴戦の末660年には百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼしてついに三国を統一した。

金庾信の母親は新羅法興王の姪で新羅の王族の一員でした。金庾信の父の家系は、
6世紀半ばに新羅によって滅びた加羅の王族でした。新羅に投降してから貴族の待遇を受けていましたが、やはり新羅の王族から見れば異質的な存在か。 金庾信の父は新羅の王族の娘と結婚することは難しかった。金庾信の両親は中央から離れた忠清北道の鎭川に家庭を設けて、そこで生まれた長男が金庾信でした。

金庾信(きん ゆしん、595年 – 673年)
三国時代の新羅の将軍。
新羅の朝鮮半島統一に最大級の貢献をした532年に新羅に併合された金官伽倻の王家の血を引いており、金庾信の妹が武烈王(金春秋)に嫁いで文明夫人となり、その長子が後の第30代の文武王となる。金庾信自身も後に武烈王の三女を智炤夫人として娶っており、新羅の王族ではなかったが王族との関係は親密であった。

金春秋(キム・チュンチュ) 新羅の武烈王
父が金龍春(キム・ヨンチュン)がハベク会議で廃位に追い込まれた真智王の息子であったからだろう。金春秋の母、天明(チョンミョン)は真平王の次女だから王族であった。善徳、徳曼(トンマン)が長女であるという説が通説だが、史書に混乱がある。

武烈王(ぶれつおう、)602年? – 661年)は、新羅の第29代の王(在位:654年 – 661年)であり、姓は金、諱は春秋(キムチュンチュ)
父は第25代真智王の子の伊飡(2等官)の金龍春(龍樹とも記される。後に文興葛文王と追封)、母は第26代真平王の長女である天明姫(チョンミョン姫。後に文貞太后と追封)。
『旧唐書』『新唐書』には真徳女王の弟と記されているが、『三国史記』新羅本紀・太宗武烈王紀ではこれを誤りと指摘している。王妃は角干(1等官)の金舒玄の娘の文明夫人・文姫(ムニ)であり、金庾信の妹に当たる。

本貫

始祖が姓をおこした由緒ある地名が本貫である。
金氏に古代の駕洛国の金首露王が起こした姓がある。この場合、始祖の姓が金でありその発祥地が金海であったことから、本貫を金海とし金海金氏を名乗ることになった。

金庚信(キムユシン)は伽耶王族の血族だから、金海金氏である。

同じ金氏に慶州金氏がある。これは、新羅の金門智王が始祖で慶州が発祥の地であったので慶州金氏となった。金春秋(キムチュンジュ)は慶州金氏になるわけで、両者はいずれも姓は同じ金姓であっても始祖が異なるから一族でない。朝鮮の姓氏は、その数は限られ少ないが本貫の数は2000ほどある。

新羅史では、金庚信が王孫の金春秋と接近する為に、庚信の家の前で蹴鞠の戯をして、わざと春秋のもすそを踏んで襟ひもを裂、自分の家に招じ入れて妹にそれを縫わせた。それが縁で春秋と庚信の妹が結婚する。

新羅の年号

法興王の時代 から断続的に元号が建てられてい る。しかし、真興王時代に改元があっ たように見えるが、次の真智王時代には見えなくなり、再び真平王の時 に一度だけ見える。そして、次の善 徳王の時代に「仁平」の独自元号を 建て、次の真徳王の時も「太和」の 元号を新たに作っている。これらは つながって使用されていたのか、そ の王の時に単独に近い形で元号が建 てられたのか全く分からない。ただ、善徳王から真徳王の時は、 善徳王の亡くなった年が真徳王の「太和元年」となっており、他の王暦の 数え方と全く変わらない。

その後、 新羅ではこの「太和二年」に唐の冊 封を正式に受け入れ、唐の元号を用 いることになったため、独自年号は 消滅した。

法興王(生年不詳 – 540年)は、新羅の第23代の王(在位:514年 – 540年) であり、姓は金、諱は原宗。 536年には新羅独自の年号をはじめて定めて建元 と称する新羅の法興王が新羅年号を建てるが、その後唐から詰問されて、650年からは中国暦をしようするようになる。

新羅年号廃止の経緯
真徳王の2年。648年の記述によると、唐に朝貢させた使者に皇帝の御史(秘書官)が尋ねる)『新羅は大朝(唐)に臣として仕えているのに、どうして別の年号を称しているのか。』(これに対して新羅からの使者が答え)

『いまだかつて、天朝(唐)は暦を〔新羅に〕わかち与えたことがありません。そのため先祖の法興王以来、勝手に年号を使っています。もし大朝から命令があるならば、わが国はどうしてあえてこれに反対しましょうか。』

真徳王4年。650年『この歳、はじめて中国の年号である永徽の年号を用いた

日本書紀の金春秋

『日本書紀』孝徳天皇大化三年 647年 是歳に、
新羅は、金春秋を遣わして、孔雀と鸚鵡を献った。春秋は、「姿顔美しくて善みて談咲す」とある。

新羅遣上臣大阿飡金春秋等。送博士小徳高向黒麻呂。小山中中臣連押熊。来、献孔雀一隻。鸚鵡一隻。仍以春秋為質。春秋美姿顔善談咲。

  • 642年、新羅は百済に大耶城を奪われる。倭国が任那と呼んでいた伽耶諸国地域の城である。この大耶城の城主品釈は金春秋の婿だった。このとき、婿と娘を百済に殺された。百済憎しと心に刻んだ。金春秋、対立する高句麗に救援を求めた。窮策である。心配の通り、高句麗王は春秋を軟禁してしまった
  • (663年)、日本は朝鮮半島から撤退する。この時、斉明天皇は筑紫・朝倉の宮で崩御するのである。
  • 武烈王の即位した654年から、その直系の王統が途絶える780年までの時代を中代と呼び、新羅の国力が最も充実していた時代であった。新羅は金庾信が援軍を率いて、唐軍に付き随い百済へ進軍。660年に百済を滅ぼし、663年に唐軍が白村江にて倭国の水軍を破ると(白村江の戦い)、668年に唐軍が高句麗を滅亡させた戦いにも従軍した。
  • 668年以降、日本は遣新羅使を派遣。672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇)は、親新羅政策をとった。また、次代の持統天皇(在位690年〜697年)も亡夫の天武天皇の外交方針を継ぎ、同じく親新羅政策を執った。但し、親新羅と言っても対等の関係は認めず、新羅が日本に従属し朝貢するという関係であり、新羅は日本への朝貢関係をとった。持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、、翌持統天皇4年(690年)にも帰化した新羅人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される、天平5年(733年)。
  • 息子の文武王が「統一新羅」を建国する(672-675年、唐と新羅軍の戦い)