伊和神社、海神社・粒坐天照神社は、播磨三大社。
伊和神社
兵庫県宍粟市にある神社。式内社(名神大社)、播磨国一宮。もとは国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
祭神 大己貴神 配神 少彦名神 下照姫神
『播磨国風土記』の記載では、播磨国の神である伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神とみなせる。
成務天皇14年または欽明天皇25年(564年?)の創祀と伝わる。
『延喜式神名帳』には、「伊和坐大名持魂神社(いわにいますおおなもちみたまのかみやしろ)」(伊和に鎮座する大己貴神の社)とあり、正暦2年(991年)、正一位の神階に叙せられた。播磨国一宮とされ、幾度か火災にあって焼失する度に朝廷、国司、守護赤松氏、近隣の藩主などの庇護で再建された。なお、鎮座地である一宮町(現・宍粟市)の地名は、播磨一宮の当社に由来する。
境内末社
- 五柱社 天照皇大神・宇賀魂神・国底立神・須佐之男神・猿田彦神
市杵島姫神社(通称・弁天さん) 市杵島姫命
播磨十六郡神社 播磨国内の式内社
御霊殿 伊和恒郷命・旧神戸村の戦死者・万国の戦死者
旧境外摂末社(所在地表記がないものは宍粟市に所在)
- 庭田神社(式内社)事代主神
与位神社(式内社)素盞嗚尊・稲田姫命
邇志神社(式内社)伊弉諾命・伊弉冉命・須佐之男命・宇迦之御魂命・菅原道真
觱篥神社 大己貴命
安志姫神社(姫路市)安志姫命(安師比売神 伊和大神の妻問いを辞退)
伊和大神の関連神社
英賀神社 (姫路市) 国史見在社。英賀津彦・英賀津姫の2神が御子神
射楯兵主神社 (姫路市)播磨国総社。兵主神(大己貴命)が伊和大神の分霊とされる
伊和都比売神社 (赤穂市)式内社。祭神名から、伊和大神の比売神とする説がある
伊和都比売神社 式内社(論社に稲爪神社の元境内社・岩屋神社・伊弉冉神社)。同上
佐用都比売神社 (佐用郡佐用町) 式内社。風土記・讚容郡の大神が伊和大神を指すなら、佐用都比売神は伊和大神の比売神
二宮神社 (神崎郡福崎町) 建石敷命が御子神
祝田神社 (たつの市) 式内社論社。石龍比古命・石龍比売命の2神が御子神
夜比良神社 (たつの市) 式内社。葦原志擧乎命(大己貴命、伊和大神)
伊和都比売神社(いわつひめじんじゃ)
兵庫県赤穂市御崎の赤穂御崎温泉街にある神社である
現在の祭神は伊和都比売大神であるが、元々は豊受比売であるとも、また播磨国一宮である伊和坐大名持御魂神社(現在の伊和神社)の神(大穴牟遅神)の比売神とも言われる。古くから「御崎明神」と称せられる。
平安時代の延喜式神名帳で赤穂郡3座の筆頭に記される古社である。
長らく海上の岩礁「八丁岩」にあった社を江戸時代の天和3年(1683年)に浅野長矩が現在の地へ移した。明治時代には東郷平八郎が日露戦争開戦前に勝利祈願のため訪れた。このことから、伊和都比売神社側は、帝国海軍関係者の信仰を集め、戦前まで東郷平八郎を初めとする連合艦隊司令長官が艦隊を率いて海上より参拝を行ったと主張している。
延喜式神名帳では播磨国明石郡にも同名の伊和都比売神社が記されている。現在、旧明石郡内には同名の神社はなく、明石市大蔵本町の稲爪神社、稲爪神社の境内摂社の稲爪浜恵比須神社、明石市岬町の伊弉冊神社、明石市材木町の岩屋神社が論社となっている。
粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)
兵庫県たつの市の日山(白鷺山)に鎮座する神社。伊和神社、海神社とともに播磨三大社とされる。旧県社。現在、鎮座する天神山が「龍が坐った形に似ている」ことからついた旧称の龍座神社として地域で広く親しまれている。
由緒
日山(白鷺山)山頂にて推古天皇2年(594年)の創祀と伝わる古社で、現在は中腹から山麓にかけてが社地となっている。粒坐天照神社は平安時代は『延喜式神名帳』で名神大社とされていた。
明治維新後に旧龍野藩礼儀指南役・関口久宣が、国家神道のもと龍野府(龍野県)の鎮守とするために、旧主で知藩事の脇坂安斐の命によって神官に就き再興する。元兵庫県立姫路工業大学長で振動工学の権威であった関口久美は維新後新社家の四代目当主で兼任神官。現在もその子孫・縁家によって連綿と存続されている。明治7年(1874年)郷社に列し、同15年に県社に昇格した。
氏子はたつの市龍野町のうちの揖保川右岸部(日山・龍野旧城下町一帯・北龍野)と同左岸部のうちの大道・富永・日飼・四箇、揖西町小神、揖保川町半田の3,300世帯。推古天皇2年(594年) 的場山の山頂附近に勧請する。嘉祥4年(851年) 従五位下。貞観元年(859年) 従四位下
養和元年(1181年)に射楯兵主神社に播磨国16郡174座の大小明神社を合祀し、播磨国総社・府中社とした際に粒坐天照神社はこれに合祀されておらず、この時点で社殿消失、祭祀が中断されていたものとされる縁起に
人皇第32代崇峻天皇・第33代推古天皇の御代、播磨国現在のたつの市に伊福部連駁田彦という長者があり、人格者で近くの住民に篤く信頼されていた。この彦の邸の裏によく茂った社があって、推古天皇2年正月1日にこの社の上に異様に輝くものが現われた。彦がこれを見つめていると忽然として容貌端麗な童子の姿となって曰く、 「我は天照国照彦火明命の使である。天火明命の幸御魂はこの地に鎮まり、この土地と人々を守り給うて既に千年を超ゆ。今汝の正直、誠実なるに感じ給い天降りまして神勅を授けようとされている。神勅を奉戴し新しい神社を造営して奉祀せよ。 すなわち、今ここに種稲を授け給う。これを耕作すれば汝の田のみならずこの里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄えてゆくであろう。」 と。 ここで使者の童児はまた忽にして昇天して去り、あとに種稲が残されていた。駁田彦がこの神勅を尊み奉戴することを誓うと彦の田のみならず近くに一夜にして千頂もの水田ができた。駁田彦が中心となって神社を建立奉斉し、またこの水田に授かった種稲を耕作すれば大豊作となり一粒万倍したという。以後この土地は米粒を意味するイイボ(粒)の郡と呼ばれ播磨の穀倉地帯となった。駁田彦を始め入々は嬉び感謝し、この神社を粒坐天照神社と称して氏神と崇め今日に到っている。
注) 『研云祭神当社ハ天照國照彦火明命トシ当社の西方ナル揖西村ニ鎮座セル井関三神社ノ祭神ヲ天照國照彦火明櫛玉饒速日命トス両神ハ別神ノ如ク見ユレドモ旧事本紀ニヨル饒速日命ヲ称スルニ井関三神社ノ祭神ノ如ク記セルヲ見ル』兵庫県神社誌。但し、アメノホアカリを祭神とする粒坐天照神社は一時期、本殿正面主祭神に天照大神(あまてらす-おおかみ)を祀り、また、明治期以降の国家神道体制の影響により社号を『~あまてらす-じんじゃ』としている。一方、ニギハヤヒを祭神とする井関三神社では旧社号・天照神社を『あまてる-じんじゃ』とし、また、祭神名を『あまてる-くにてる-ひこ~』として、天照(あまてらす)信仰とは異なるものとしている。但し、先代旧事本紀はアメノホアカリとニギハヤヒを同一神とみなす
神前山
伊和大神の建石敷命(神崎郡開拓のシンボル)が鎮座する神前山
神崎山の南麓にある二之宮神社はまさにこの山の遙拝所となっている。この山頂には、大岩が あるとのことであるが、確認できなかった。いずれ現地の方の案内を得たい。おそらく、この大岩は建 石敷命の依代と考えられていたのだろう。さて、風土記に見える「山使村」は、近世でいう「山崎村」 の写し間違いの可能性がある。中世の『播磨国内神名帳』には神崎郡十二社中に「鎮守山崎明神」があ る。これは、山崎村とかかわりの深い神社であったと考えられる。いずれにせよ、郡名の由来となるよ うな、山が福崎町にあったことは確かであろう。二〇〇五年一一月に大河内町と合併した神崎町の神崎 という町名は、昭和三〇年に粟賀村・大山村・越知谷村が合併して成立したものであり、古い町名では ない。むしろ、神崎郡の中心は福崎町付近にあったとみてよいだろう。
播磨国風土記
「昔、讃岐日子(さぬきひこ:香川県の神)が氷上刀売(ひかみとめ:丹波国氷上郡の神に仕える女性)に求婚しました。
そのとき、ヒカミトメが『いやです。』と答えたのに対して、サヌキヒコはなおも強引に求婚しました。そこで、ヒカミトメは『どうして、私にそんなに無理やり求婚するのですか!』と怒り、建石命(たけいわしきのみこと:神前郡の神前山に鎮まります伊和大神の御子)を雇って、武器で戦いあいました。
その結果、サヌキヒコが負けて、四国へ帰って行きました。
『私は、甚だツタナキかな(力不足であったなあ)。』そこで、都太岐(つたき)といいます。」とあります。
ここも、ツタナキ→ツタキとなったものと考えられますが、比定地についてははっきりしていないようです。
後半の部分には、古代女性のたくましさ・気強さが描かれていると言われています。
あまりにもしつこい求婚に対して、強力な男神を雇ってしり退けてしまいました。
讃容郡(さよのこおり)の条の伊和大神とその妹の玉津日女命(=佐用津比売命)との国占め争いや揖保郡の出水(いづみ)の里の条の石龍比古命(いはたつひこのみこと)と妹の石龍比売命(いはたつひめのみこと)との灌漑用水争いなど、血を分けた兄妹でも凄まじい戦いがあったようです。伊和大神と建石敷命 嫌がる冰上刀売を讃伎日子神が無理に妻問いして拒絶されたとき、冰上刀売に雇
われて、彼女を讃伎日子神から守ったと『播磨国風土記』(都麻里条)に記されているのは、建石命であ
った。冰上は丹波国氷上郡を指すのだろう。
他にも、託賀郡の法太里は、讃伎日子神と建石命が戦い、讃伎日子神が負けて逃げていく際に、手で は はふだ
もって這って去っていったために、匍田という。甕坂は、建石命が讃伎日子神をこの坂に追い払って御 冠をこの坂に置いたので名付けた(一説には、丹波と播磨の境目を決めた時に、大甕を掘って埋めて境 としたからともいう)、とする伝承もある(『同』法太里条)
仮に、大系説のように、建石敷命と建石命が同一の神をさすものとすれば、伊和大神とつながりをも つ高岡里の勢力が、丹波と協力して讃岐の勢力を追いやったとする遠い記憶の神話的表現であった可能性が高い。
海神社(並名神大)
式内社 播磨國明石郡 海神社三座 名神大 月次新嘗 旧官幣中社
御祭神 底津綿津見神 中津綿津見神 上津綿津見神 相殿 大日孁貴尊
海神社[わたつみ]「中津綿津見神、底津綿津見神、上津綿津見神」神功皇后帰還時創建。祭神については「豊玉彦・豊玉姫・椎根津彦」とする説がある。
御由緒
今から千数百年の昔、神功皇后が三韓征伐を終えてお還りの時、暴風雨のため、どう しても御座船を進めることができなくなりました。皇后が御みずから綿津見三神をお 祭りになり、御祈願されましたところ、たちまち風波がおさまり御無事に都へお還り になりました。その時神功皇后が綿津見三神をお祭りになったところに御社殿を建て 、御神徳を仰いだのが鎮座の由来であります。
兵庫県神戸市垂水区宮木町5-1
昭和四十六年七月に再建された新本殿は、鉄骨コンクリート、権現造りで、屋根は銅 板で葺かれ、内装は檜造りで、縁の深い日岡山の丘に美しく調和し、参拝者の心に安 らぎを与えています。
兵庫県加古川市加古川町大野字日岡山1755 神社公式
日向大明神とも称した古社で式内社・海神社に比定されている大社。播磨国神名帳にある垂水太神、海太神、衣財田太神である。神功皇后三韓より凱旋の際当地の海上にて暴風にあわれ、船が進まなくなった。そこで皇后が斎戒して海神三座を祀ったところ波が凪て、都へ戻ることが出来たという。神紋は、海神社らしい波に菊。
射楯兵主神社
射楯兵主神社[いたてひょうず]「射楯大神、兵主大神」射楯大神は、伊太代神・伊達神とも書かれ、素盞嗚尊の御子五十猛命のこと。兵主大神は、大国主命(大巳貴命)のこと。
御由緒
このやしろにおまつりされてる神様は、「射楯兵主神社」という社名の通り、射楯大神と兵主大神の二柱です。
射楯大神は、伊太代神・伊達神とも書かれ、素盞嗚尊の御子五十猛命のことを指しま すが、父神とともに新羅国に渡られたことがあるので、度津神とも呼ばれています。 天降りされるとき、多くの樹種を持って来られ、これを先ず韓国に植えられました。 しかし、そこだけでは植えきれないので、更にわが国へ持ち帰り、筑紫よりはじめて 大八州国ことごとくに植えられました。有功之神という名前は、この恩徳の広大なの を仰ぐためにつけられたもので、紀伊・丹波・陸奥には、今に「いだて」の社名を持 つ名高いやしろがあります。
兵主大神は、因幡の白兎伝説で親しみ深い大国主命(大巳貴命)のことです。この神様は、国内の悪者を平げ、水利を便にし、田畑を開き、又、医薬の法を教えなどして 国土を経営されたので、みな、その神徳に服し、国造ノ大神、天下造らし、大神の命 、或は大国主命と申上げました。別に顕国玉ノ神という名前があるのは、国土経営の 功徳をたたえた美称であり、八千矛神というのは武勇を、葦原醜男というのは剛強を 、それぞれほめた名前です。兵主大神の名は、この八千矛神の御性格を別の言葉で言 いあらわしたもので、大和・和泉・三河・近江・丹波・但馬・因幡・壱岐などには、 同名のの神がまつられています。
このように、祭神の二柱はいずれも素盞嗚尊の御系統であり、その子孫にあたる伊和 部の一族は後に述べるように当地方を開拓したという伝承を持っています。したがっ て、樹種を育成された五十猛命の社前では、毎年二月に、盛大な植木市が開かれます 。又、あらゆる面に大きな功績をのこされた大国主命の功徳に対しては、近年、神前 結婚が多く挙行されるほか、農耕・畜産・養蚕・漁業・商工業に従事する者からの報 賽が甚だ多く、疾病治療のために医薬・温泉の道を教え、種々の災禍を払うために禁 厭の法を教えられたことに対する信仰も少なくありません。
当社本殿に於いては、東に射楯大神、西に兵主大神をまつり、二間社流れ造の形式を 持ち正面屋根上には、二祭神を象徴するように、二つの千鳥破風が右と左に並んでい ます。そして、二間社本殿正面中央には、客神のための小さな空殿が設けられ、また その前には祝詞殿と幣殿が続き、全体として、一種の権現造を想像させる特殊な形式 を持っています。戦後、再興された本殿は、元和九年につくられた形式になぞらえ再 現したもので、当社祭神の祭祀には、まことにふさわしいものです。神饌を献ずる時 に、西殿を先にし、東殿を後にするのを慣例としていることも、当社のまつり方とし ては、注意しなければならぬところでしょう。
式内 庭田神社
一、 鎮座地 一宮町能倉馬場一二八六番地
一、 創 立 第十三代成務天皇甲申二月十一日
一、 祭 神 事代主命 末社 両大神宮社、稲荷社、荒神社、祇園社、蛭子社、五社五行神
一、 境内面積 千三百七十九坪
古伝によると大国主命が天乃日槍命と国土経営を 争い給いし時伊和の地に於て最後の交渉を終 られ大事業達成に力を合せられた諸神々を 招集えて酒を醸し山河の清庭の地を撰び慰 労のため饗宴を為し給えり
この地が即ち庭酒の里、現在の庭田神社奉祀の 霊地なるにより社殿を造営その御魂を鎮祭 れりと云う然るに当社安永縁起に成務天皇の 御代に神託に依り新に神殿を建て広く崇敬 せらる。延喜式の制小社に列し江戸時代寛文 十一年社殿改造、元禄十五年本殿屋根替、 享保八年本殿屋根替、元文三年拝殿屋根替 中略、明治四年本殿棟上再建、昭和四十三年 五月敞殿改築、昭和四十九年十月拝殿改築 現在に至る御由緒
古伝(播磨風土記)に大名持大神(大国主大神)が国土経営の大業をなされ伊和の地で最後の交渉を終えられた時、其の大挙に係はれる諸神を招集へて酒を醸し山河の清庭の地(当社所在地)を選びて慰労のため饗宴をなし給えりし霊跡なるにより、社殿を造り奉りて其の御魂を鎮祭れりと云う。又当社安永縁起に、人皇十三代成務天皇の御代甲申二月十一日は(一三一年)神託により神祠を建て崇敬せらる。後神功皇の時に殊に霊験有るをもって、本殿及諸殿を造営とあり、社殿の興廃は度重なるも明らかでないが、寛文十一年八月(一六六三年)本殿をはじめ修営なるも文久三年十一月(一八六三年)に焼失せしにより村民等議りて明治四年十二月(一八七〇年)に社殿等再建さる。昭和四十三年四月幣殿改築、昭和四十九年十月十八日御鎮座一八〇〇年祭執行記念事業として拝殿及末社等改築落成現在に至る。