熊鰐、豊玉姫、鰐船

熊鰐とは、岡県主の先祖の熊鰐
熊鰐が賢木の枝にかけた「白銅鏡、十握剣、八尺瓊」と周芳の沙麼

日本書紀
「仲哀天皇治世二年9月、宮を穴門に建てて住んだ。これを穴門豊浦宮という」・・・中略・・・
治世八年1月4日、天皇(仲哀天皇)は筑紫に行き、岡県主の先祖の熊鰐(わに)が、来たことを聞いて大きな賢木を根こそぎにして、大きな船の舳に立てて、上枝に白銅鏡をかけ、中枝には十握剣をかけ、下枝には八尺瓊をかけて、周芳の沙麼(さば)の浦に迎えた。御料の魚や塩が採れる土地を献上し言った。
「穴門より向津野大済(むかつのおおわたり)に至るまでを東門とし、名籠屋大済を西門とし、没利(もとり)島(六連島)、阿閉(あへ)島(藍島)を限って御筥(みはこ)とし、柴島を割いて供養の魚を捕るための地とする。逆見の海を塩地としたい。」・・・

熊鰐は海路を案内し、山鹿(やましか)岬からめぐって岡浦(おかのうら)に入った。

神夏磯媛は、熊鰐と同じく、周芳の娑麼で景行天皇を出迎える。

日本書紀
(景行天皇)治世12年秋7月、熊襲がそむいて貢物を納めなかった。そこで天皇は8月15日、筑紫に向かった。
9月5日、周芳の娑麼に着いた時、天皇は南方を眺めて群卿に言った。 南方の方に煙が多くたっているな。・・・神夏磯媛(原文では「一國之魁帥」)は天皇の遣いが来たことを聞いて、磯津山(北九州小倉の貫山)の賢木を抜いて、上の枝に八握剣を、中枝に八咫鏡を、下枝に八尺瓊をかけて素幡を舟の軸先にたててやってきて言った。

仲哀天皇・神功皇后は、「穴門豊浦宮」を出て「筑紫岡田宮」に向けて西に行く途中で、「周芳の娑麼浦」に着かれた。
「周芳の娑麼浦」とは、穴門豊浦宮と筑紫岡田宮の中間にある。ーーー> 北九州の八幡あたり

県主熊鰐の伝承地、枝光八幡宮

枝光八幡宮 由緒
今から二千数百年の昔、第一四代仲哀天皇、神功皇后、熊襲征伐の砌、この地に立たれ県主熊鰐が真榊の枝に鏡、剣、瓊の三つの宝を掛けてお迎えしたが、この真榊は熊本山(現在の高炉台公園)で採られたもので、このことから以降「枝光(枝三)」と称されるようになった。

筑紫 岡田の宮と足一騰宮

古事記 神武天皇紀
日向を発って筑紫に進んだ。そして「豊国」宇沙に着いた時、その土人の、名は宇沙都比古と宇沙都比賣の二人が、「足一騰宮」を作って大御饗〔おほみあへ〕を献上した。その地より移って、「竺紫之岡田宮」で一年を過ごした。

豊玉姫は熊鰐になった。
日本書紀に、
「時に豊玉姫、八尋の大熊鰐に化為りて・・・」

豊玉姫と鹽盈珠・鹽乾珠、そして、和邇船と八尋和邇

豊玉姫の妹の玉依姫は、五瀬命、稲氷命、御毛沼命、若御毛沼命(神武天皇)を産んでいる。ーー> 神武天皇は、綿津見の和邇氏を母方にもっている。

海神が魚たちを集め、釣針を持っている者はいないかと問うと、赤鯛の喉に引っかかっているとわかった。海神は釣針と鹽盈珠(しおみちのたま)・鹽乾珠(しおひのたま)を火遠理命に差し出し、「この釣針を兄に返す時、『この針は、おぼ針、すす針、貧針、うる針(憂鬱になる針、心が落ち着かなくなる針、貧しくなる針、愚かになる針)』と言いながら、手を後に回して渡しなさい。兄が高い土地に田を作ったらあなたは低い土地に、兄が低い土地に田を作ったらあなたは高い土地に田を作りなさい。兄が攻めて来たら鹽盈珠で溺れさせ、苦しんで許しを請うてきたら鹽乾珠で命を助けなさい」と言った。そして和邇に乗せて送って差し上げた。その和邇は今は佐比持神という。

豊玉毘売命の出産

豊玉毘売命は海宮で懐妊したが、天神の子を海の中で産むわけにはいかないとして、陸に上がってきた。浜辺に産屋を作ろうとしたが、茅草がわりの鵜の羽を葺き終えないうちに産気づいたため、産屋に入った。豊玉毘売命は、「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。私も本来の姿で産もうと思うので、絶対に産屋の中を見ないように」と彦火火出見尊に言う。
しかし、火遠理命はその言葉を不思議に思い産屋の中を覗いてしまう。そこに豊玉毘売命が姿を変えた八尋和邇が腹をつけて蛇のごとくうねっているのを見て恐れて逃げ出した。

豊玉姫は彦火火出見尊に覗かれたことを恥じて、生まれた子を置いて海に帰ってしまう。その生まれた御子を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへず)と言う。しかしその後、火遠理命が覗いたことを恨みながらも、御子を養育するために妹の玉依毘賣を遣わし、託した歌を差し上げ、互いに歌を詠み交わした。

鵜葺草葺不合命は玉依姫と結婚して、生まれたみ子は五瀬命(いつせのみこと)、稲冰命(いなひのみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと)、次に若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、またの名は豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)、またの名は神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)で、このお方がのちに第一代の神武天皇になられたお方です

鰐の姿を日子穂穂手見命に見られて、海神の国へ帰ってしまった豊玉毘売命に代わって、 豊玉毘売命の妹・玉依毘売命に育てられ、後に、玉依毘売命と結ばれる。

『古事記』では、二神は、 五瀬命、稲氷命、御毛沼命、若御毛沼命(豊御毛沼命、神倭伊波礼毘古命、後の神武天皇)を生んだ。御毛沼命は常世国へ、稲氷命は母の海神の国へ行った。

『日本書紀』では、彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、神日本磐余彦尊の四人を生んだ。

伝承、高千穂

宮崎県高千穂町の伝承
三毛入野命は常世に渡ったのではなく、兄弟たちからはぐれてしまったので、出発地の高千穂に帰還したとする。高千穂には「鬼八(きはち)」という悪神がいて、人々を苦しめていたので、三毛入野命はこれを退治し高千穂の地を治めたと伝えている。三毛入野命は高千穂神社の祭神であり、その妻子神とあわせて「十社大明神」と称されている。

事代主と熊鰐

事代主神が八尋鰐と化し玉櫛媛のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が日本磐余彦火火出見天皇(神武天皇)の后となったと記されている。

日本書紀では、「事代主神化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姫 或云 玉櫛姫 而生兒 姫蹈鞴五十鈴姫命 是爲神日本磐余彦火火出見天皇之后也」とあり事代主神が八尋鰐と化し玉櫛媛のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が日本磐余彦火火出見天皇(神武天皇)の后となったと記されている。

また、古事記(神武天皇の段)では、
「然更求爲大后之美人時、大久米命曰、此間有媛女、是謂神御子、其所以謂神御子者、三嶋湟咋之女、名勢夜陀多良比賣、其容姿麗美故、美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢自其爲大便之溝流下、突其美人之富登、爾其美人驚而立走伊須須岐伎、乃將來其矢置於床邊、忽成麗壯夫、即娶其美人生子、名謂富登多多良伊須須岐比賣命、亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣、故是以謂神御子也」
とあり、神武天皇が御后を探している時、大久米命がここに乙女がいます。この娘は神の子です。なぜ神の子かといえば三島湟咋の娘名前を勢夜陀多良姫といい、とても綺麗であるから、三輪の大物主がみそめて、この娘が厠をする時に、大物主が丹塗矢に化け厠の溝を流れその娘の富登をつき刺した。娘は驚いて「イススキ」と叫びながら走り去った。その矢を床のそばに置いたら、矢はたちまち立派な男性に変わったので、娘と結婚し子供が生まれました。この子を富登多多良伊須須岐比賣命と名づけたが、また名を比賣多多良伊須氣余理比賣よって神の子です。と言ったと記されている。

八尋熊鰐神
大行事社の祭神を見ると「事代主命、八尋熊鰐神、加屋奈流美神」の三柱となっています。
事代主命が「ワニ」に化身して大阪三嶋の溝杭姫(亦の名、玉櫛姫)の許に通った伝承がある。
大国主神(オオクニヌシ)が国造りを共同でおこなっていた少彦名神が常世国に去ってしまい困惑していた時『海の彼方から』光を放ちながらやって来た神様がありました。その神はオオクニヌシに向かって『私を丁寧に祀るのなら、一緒に国造りを手伝ってやろう』と宣言し、更に『倭の青垣の東の山(三諸山=三輪山)に斎祀れ』と要求したと古事記が伝えています。その神様が大神神社の大物主命だった訳ですが、日本書紀の第六の一書も、ほぼ同じ内容を記した上で『大国主神、またの名は大物主神、または国作大己貴命と号す』とも記録しています。

神話の流れからすれば、高天の原を追放された素戔嗚(スサノオ)が葦原中国に降り立ち、娘婿である大国主命が葦原色許男命となって国を作り固め、更に、その国を天孫ニニギノミコトに「譲る」段取りとなるのですが、この途上でオオクニヌシの国造りを手伝う少彦名命が登場します。倭には大物主命という「天の下造らしし大神」が先住していたはずです。
さて、事代主命は大国主命と神屋楯姫命との間に生まれた息子であり、かつ倭の大物主命の子でもある訳ですが、その彼がある動物に変身します。

これ、大三輪の神なり。この神の子は、すなわち甘茂君たち、大三輪君たち、また姫蹈鞴五十鈴姫命なり。また曰く、事代主神、八尋熊鰐に化為りて、
三嶋の溝樴姫、あるは云わく、玉櫛姫というに通いたまう。しこうして児、姫蹈鞴五十鈴姫命を生みたまう。これを神日本磐余彦火火出見天皇の后とす。

これは日本書紀の神代上、第八段「第六の一書」にある文章です。
神武帝の即位前紀にも同様の文言があり、古事記は娘の名前を勢夜陀多良比売とし、児の名は比売多多良伊須気余理比売と伝え、父親は事代主命ではなく「美和の大物主神」そのものだったとしています。

『日本書紀』景行天皇十二年九月条に「国前臣の祖<菟名手>」とある。

岩波文庫版『日本書紀』の補注によれば、国前臣の祖<菟名手>を

「国前臣は大分県国東半島に本拠をもつ氏族。和名抄に豊後国国崎郡国前郷がみえる。孝霊記に日子刺肩分命を豊国の国前臣の祖とし、旧事紀・国造本紀には国前国造を掲げ、志賀高穴穂朝(成務天皇)、吉備臣同祖吉備津命六世午左自命、定賜国造。とする」