淀川北岸に展開する三島古墳群は、邪馬台国時代の安満宮山古墳、三島の王墓・岡本山古墳や闘鶏山古墳、そして史跡今城塚古墳、史跡阿武山古墳へと、列島に古代国家が出現した道のりをたどることができる。
安満 宮山古墳(あま みややま こふん)
所在地 高槻市安満御所の町
時代・概要 古墳時代初頭(3世紀後半)
安満山の中腹、標高125メートルの狭い尾根上にある、一辺20メートルほどの長方形墳です。眼下には史跡安満遺跡、その南側には淀川と大阪平野を一望する雄大な景観が広がっています。
3世紀後半、邪馬台国の時代に築造されたと考えられ、中国・魏の年号「青龍三年(235)」銘鏡や三角縁神獣鏡(さんかくぶち-しんじゅうきょう)を含む青銅鏡5面、スカイブルーのガラス小玉1,600個余り、鉄刀・鉄斧などの貴重な遺物が出土しました。鏡は白銅色に輝き、鏡を包んだ麻布も残っていました。
出土した銅鏡は景初3年(239)、邪馬台国の卑弥呼女王が魏から贈られた「銅鏡百枚」の一部ともみられており、ここに葬られた人物―おそらく安満遺跡のリーダーが、当時の政権にあって重要な役割を果たしたことを物語っているのかもしれません。
古墳は築造当時の姿に復元整備され、「青龍三年の丘」として公開されています。
闘鶏山古墳(つげやま こふん)
高槻市氷室町六丁目・上土室二丁目
平野に突き出た丘陵先端部にある、全長86.4mの前方後円墳です。
平成14年の確認調査によって後円部から未盗掘の竪穴式石室2基が発見され、大きな話題になりました。石室内部のファイバースコープ調査では三角縁神獣鏡(さんかくぶち しんじゅうきょう)や石製の腕飾り、木棺の一部などが確認され、4世紀前半の三島の王墓と考えられています。
墳丘の段築や葺石、さらに平野に向かって開けた周辺の丘陵地形もよくのこっており、古墳の祭祀や古墳時代の解明に向けて、極めて重要な古墳です。
岡本山古墳(おかもとやま こふん) 弁天山古墳(べんてんやま こふん)
所在地 高槻市南平台三丁目
時代・概要 古墳時代前期
左側・岡本山古墳、右側・弁天山古墳
南平台の丘陵上に広がる住宅地の家並みの上に、緑の丘が二つ並んでいます。名神高速道路沿いの南の丘が岡本山古墳、北の丘が弁天山古墳です。
岡本山古墳の墳丘は、尾根地形を利用してつくられ、後円部径70m、全長120mをはかります。一方弁天山古墳の墳丘は全長100m、後円部の直径は岡本山古墳と同じ70mという特徴をもっています。これまでの踏査では、両古墳とも墳丘に河原石が葺かれ、岡本山古墳では壷形埴輪らしい破片が、また弁天山古墳では土器片があるものの、埴輪は並べられていないことがわかっています。この事実から、岡本山古墳は3世紀後半、弁天山古墳は岡本山古墳に続いて3世紀末ごろに築造されたものと推定され、南にひろがる平野部を本拠地とした三島の王の墓と考えられています。
今城塚古墳(いましろづか こふん)
高槻市郡家新町
古墳時代後期
史跡今城塚古墳は、三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳です。西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350m・総幅約340mをはかり、日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。
今城塚古墳は、531年に没した第26代継体天皇の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。
今後の整備・公開に向けて平成9年から確認調査を行っており、古墳の規模をはじめ、のちの城砦や地震による変形の様子など、貴重な成果が得られています。なかでも平成13・14年度の調査で北側内堤からみつかった埴輪祭祀区(はにわ さいし く)は、大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。
なお今城塚という名称は、戦国時代に城砦として利用された江戸時代の絵図などにも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されています。
昼神車塚古墳(ひるがみ くるまづか)
高槻市天神町一丁目
JR高槻駅北口から北へ徒歩約8分
備考 古墳時代後期
昼神車塚古墳は上宮天満宮参道のすぐ東側に位置する前方後円墳です。全長60メートル、後円部径30メートルで、前方部の発掘調査では、犬や猪、角笛(つのぶえ)をもった狩人などの埴輪が出土しました。現在、前方部は復元・整備され、その様子は復元埴輪でみることができます。
6世紀中頃の造営と推測されており、規模は全長60メートル、前方部幅40メートル、後円部径35メートル。古墳からは多数の埴輪も出土した。当地は埴輪技術集団である土師氏の拠点であることに加え、当古墳の埴輪が近くの巨大古墳・太田茶臼山古墳と今城塚古墳の埴輪と同じ窯で焼成されたと分かっており、当地氏族の両古墳への関与が明らかとなっている。
上宮天満宮
所在地 大阪府高槻市天神町1-15-5
創建 (伝)正暦4年(993年)
「大宰府天満宮に次いで日本で2番目に古い天満宮」を称している。
主祭神 菅原道真命
配祀神
武日照命 (たけひなてるのみこと) –
土師氏(菅原氏等の前身)の祖神である天穂日命の子。
野見宿禰命 (のみのすくねのみこと)
土師氏祖。
当社は「天神山(日神山<ひるがみやま>)」と呼ばれる丘陵上に鎮座しており、社伝によれば太古に武日照命が当地に降臨して鎮座したという。のち正暦4年(993年)5月、勅使・菅原為理が太宰府に下向して道真の墓に参拝し、贈左大臣正一位の詔を伝え、菅公の御霊代と菅公自筆の自画像を奉じての帰途、この地に達した時に急に牛車が動かなくなった。為理は、「この地の山上には菅公の祖先である野見宿禰の祖廟がある。牛車が動かないのも理由があることだ。山上に自画像を奉安して祀るのが良い」として道真を祀ったのが当社の始まりとする。
元々当地には『延喜式神名帳』に記載される「摂津国島上郡 野身神社」(現 摂社・野身神社)があり、土師氏が氏神として祀っていたと考えられている。それが後になって道真を祀る天満宮が創建され、野身神社がそれに吸収されたものと見られている。野身神社は、野見宿禰の墳墓と伝わる小墳丘(宿禰塚古墳)の上にある。
土師氏
『和名抄』には「摂津国島上郡濃味郷」の記載が見え、「のみ」が古い地名であることが示唆される。なお当社内外には、銅鐸も出た弥生時代の遺跡(天神山遺跡)が残るほか、宿禰塚古墳のほか昼神塚古墳、中将塚古墳があり、古くから栄えていた様子がうかがわれる。
『摂津国風土記逸文』稲倉山
昔、トヨウカノメ神は山の中にいて飯を盛った。それによって名とした。またいう、昔、トヨウカノメ神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。のちにわけがあって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷られた。