上宮法王

釈迦三尊像の後背銘の上宮法皇と聖徳太子は別人

釈迦三尊像の後背銘には没年が法興三十二(622)年二月二十二日とある。ところが『日本書紀』には聖徳太子の没年は、推古二十九(621)年二月五日なのである。それで通説では、『日本書紀』の誤りとみなすが、古田によれば、正史である『日本書紀』で最大の聖人とされている聖徳太子の没年や死亡の月日を、まだ百年ほどしか経っていないのに、正確に伝わっていないわけがないし、間違って記す筈がないと断定している。とすれば釈迦三尊像の後背銘の上宮法皇と聖徳太子は別人だということになる。

日本書紀
29年2月5日、半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨りましぬ。是の時に、諸王・諸臣及び天下の百 姓、悉に長老は愛き兒を失へるが如くして、鹽酢(しほす)の味、口に在れども嘗(な)めず。少幼は慈(う つくしび)の父母を亡へるが如くして、哭(な)き泣(いさ)つる 聲、行路に満てり。乃ち耕す夫は耜(す き)を止み、春(いねつ)く女は杵(きぬおと)せず。皆曰はく、「日月輝を失ひて、天地既に崩れぬ。今よ り以後誰を恃(たの)まむ。」といふ。是の月に、上宮太子を磯長陵に葬る。是の時に當りて、高麗の僧 慧慈、上宮皇太子薨りましぬと聞きて、大きに悲ぶ。皇太子の為に、僧を請せて設齋す。仍りて親ら経を 説く日に、誓願ひて曰はく、「日本國に聖人有す。上宮豊聡耳皇子と曰す。固に天に縦されたり。玄なる 聖の徳を以て、日本の國に生れませり。三経を苞み貫きて先聖の宏猷に纂ぎ、三寶を恭み敬ひて、黎 元(おほみたから)の厄を救ふ。是實に大聖なり。今太子既に薨りませぬ。我、國異なりと雖も、心断金 に在り。其れ独り生くとも、何の益かあらむ。我来年の二月の五日を以て必ず死らむ。因りて上宮太子に 浄土に遇ひて、共に衆生を化さむ」といふ。是に、慧慈、期りし日に當りて死る。是を以て、時の人の彼 の此も共に言はく、「其れ独り上宮太子の聖にましますのみに非ず。慧慈もまた聖なりけり」といふ。
(日本書紀・推古天皇)

日本書紀が記録しているのは高句麗の僧、慧慈の言葉である。
僧、慧慈は上宮法皇の仏法の師であった。 日本書紀では上宮法皇は「上宮皇太子」と書かれている。この表記は近畿天皇家の大義に立ったものである が、「上宮皇太子」とは法隆寺釈迦三尊光背銘に刻まれた「上宮法皇」と同一人物である。

慧慈は「上宮法皇」の生い立ちを「日本の國に生れませり。」と述べている。上宮法皇が産まれた國は日本國 であるという。元号を「法興」と定めた上宮法皇の國は高句麗の人々から「日本國」と呼ばれて いた

光背には「鬼前太后」が法興31年(621年)12月にが亡くなったと記されている。「太后」とは王母の意味であ る。「鬼前太后」を何と読むか、古来難問であった。「かむさきたいごう」と読む。ヒントは「上宮法王帝説」にある 次の解説である。

上宮法王(法皇)の母は、上宮法王帝説では「神前皇后」で、釈迦三尊光背銘では「鬼前太后」である

伊予風土記に依ると、伊予の湯を訪れたのは「上宮聖徳の皇子」「高麗の恵慈の僧」「葛城臣」である。
ーその時、伊予の湯に感激して詩を詠んだ。碑文が建てられた。この碑文には「我が法王大王」と名前が書か れている。「法王大王」とは風土記「上宮聖徳の皇子」と同一人物である。上宮聖徳皇子は法王大王と呼ば れていた。「法王大王」を二人の人物と読むべきではない。「法王」でありまた同時に「大王」であった

碑文には「法興六年十月、歳丙辰」と日付を記している。596年10月のことである。ここに元号法興が使われ
ている。この元号は法隆寺釈迦三尊光背銘の「法興」と同じである。

湯の郡 伊社迩波の岡
・・・・・・・・・・・上宮聖徳の皇子を以ちて、一度と為す。及、侍は高麗の恵慈の僧・葛城臣等なり。時に、湯 の岡の側に碑文を立てき。其の碑文を立てし處を伊社邇波の岡と謂ふ。伊社邇波と名づくる由は、當土 の諸人等、其の碑文を見まく欲ひて、いざなひ来けり。因りて伊社邇波と謂ふ、本なり。
碑文に記して云へらく、法興六年十月、歳丙辰にあり。我が法王大王と恵慈の法師及葛城臣と、夷與 の村に逍遙び、正しく神の井を観て、世の妙しき験を歎きたまひき。意を叙べ欲くして、聊か碑文一首を 作る。
惟ふに、夫れ、日月は上に照りて私せず、神の井は下に出でて給へずといふことなし。萬機はこの所 以に妙に應り、百姓はこの所以に潜かに扉す。若乃ち、照らし給へて偏私ることなきは、何ぞ、國を寿 しくすること華台の随に開け合ひたるに異ならむ。華の台の随に開きては合じ、神しき井に沐して疹を 癒す。詎そ落る花の池に舛きて化羽かむ。窺ひて山岳の巌崿を望み、反に平子が能く往を翼ふ。椿 樹は相廕り而ち穹窿となり、実に五百の張れる蓋を想ふ。朝に臨みては啼く鳥而ち戯れ哢り、何そ暁 の乱る音も耳に聒しき。丹き花巻ける葉は而ち映き照り、玉の菓弥る葩は以ちて井に垂れたり。その 下に経過れば、以ちて優る遊びにある可く、豈洪灌霄庭の意を悟らむ歟。 才拙く実に七歩に慚づ。後の君子、幸くはな嗤咲ひそ。 (伊予國風土記)