手力男神、 和邇氏 、佐奈県、曙立王

『古事記』によると手力男神は佐那の県に坐 といいます。

力の神、スポーツの神として信仰されており、戸隠神社(長野県長野市)、佐那神社(三重県多気郡多気町)、長谷山口坐神社(奈良県桜井市)、白井神社(兵庫県尼崎市)、雄山神社(富山県中新川郡立山町)、手力雄神社(岐阜県岐阜市)、手力雄神社(岐阜県各務原市)、戸明神社(福岡県北九州市)、天手長男神社(長崎県壱岐市)、神命大神宮那須別宮(栃木県那須郡那須町)などに祀られている。

曙立王(あけたつのおう)は、古事記に登場する皇族で、岐阜の支配者であった日子坐命(ひこいますのみこ彦坐王)の孫にあたります。
古事記には伊勢の佐奈造の祖はこの曙立王であると記されており、手力男命を祀る佐那神社(三重県多気郡多気町)には曙立王命が配祀されています。
また、佐那神社の辺りは水銀の産地で丹生神社(にゅうじんじゃ)もあります。

佐那神社に祀られる手力男命ですが、岐阜には「手力雄神社(てじからおじんじゃ)があります
三重の佐那神社と同じ手力男命が祀られている

佐那神社で手力男神を氏神として祀ったのは佐那氏でした。『古事記』は伊勢 の佐那造と伊勢の品遅部の祖として曙立王をあげています。曙立王は山代の荏 名津比売の子として三兄弟の中に生まれた。父は倭国の丸邇ワニ氏出身です。つ まり山代国の曙立王が伊勢国の佐那造と品遅部の女に兒を生ませたから、彼ら の祖となったということです。おそらく佐那造は品遅部を掌管したのでしょう。

小野神社の祭神は米餅搗大使臣の米餅搗は普通ならコメモチシマとでも訓んでしまい ますが、『新撰姓氏録』には同じ訓で鏨着大使主とありタガネツキオオオミと訓みます。 和邇氏の系図中、そこから別れた小野氏の直接の先祖にあたります。鏨とは正 に岩石を砕く鑿ノミのことであり、丹生をあつかったであろう和邇氏のなかにあ って、採石の一族が小野氏の役割であったとしても不都合はないのです。戸隠 と同じ天下春命が祀られた秩父は、和銅開珎で有名な産銅・産金の地でした。 大江山や伊吹山の鬼族もまた金属精錬の古譚であった。

手力男神を祀った佐那氏の父系の曙立王の弟、菟上王は比売蛇君の祖として位 置付けられています。

猿女君は伊勢国を本拠としたとみられるものの、その一部は大和の和邇 氏の本拠に近い添上郡稗田、現在の大和郡山市にいたとされています。
『古語 拾遺』に「猿女君氏、神楽の事に供する」とあり、中臣・斎部・猿女の三氏の 職は密接に関係すると説いています。朝廷の鎮魂祭などに歌舞を奉仕する猿女 を世襲的に出していたからです。

鑿の宿禰であろう

伊勢国多気郡 佐那神社
吉田東五の『大日本地名辞書』は佐那を「相可村の南、度会郡外 城田村の西北にして、西は丹生村に接する」といいます。
祭神
天手力男命と曙立王命を主祭神とする。『延喜式神名帳』に「佐那神社二座」とあるように、2柱の神を祀り、うち1柱を天手力男命とすることは諸書で概ね一致するが、もう1柱については、曙立王命のほか若沙那賣神、天石窓神、御代宿禰とする説もある。天手力男命は『古事記』の天孫降臨の段に「手力男神者、坐佐那那県也」と記され、曙立王命は『古事記』の開化天皇の段に「此曙立王者、伊勢之品遅部君、伊勢之佐那造之祖」と記されていることが佐那神社の祭神たる根拠となっている。

手力男神は『延暦儀式帳』には皇大神宮の相殿神二座の一として天照大御神の脇に控えており、天照大御神の近侍という感じの神様。

曙立王(一般的にはあけたつのみこ、と読む)は、第九代開化天皇の皇子・彦坐王(ひこいますのみこ)の孫。

前記2柱のほか、合祀元の神社の祭神であった天宇受賣命・速玉男命・伊邪那美命・天照大御神・須佐之男命・天忍穂耳命・天穂日命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命・多紀理毘賣命・多岐都比賣命・市寸嶋比賣命・火産霊神・倉稲魂命・大山祇神・木花咲耶姫命・事解男命・誉田別尊・猿田彦命・菅原道真公・不詳2座を祀る

社名の「佐那」は、『古事記』や『皇太神宮儀式帳』に記載のある「佐那県」という地名に由来する[また近世には鎮座地周辺を「佐奈谷」と称していた
江戸時代には俗称として「大森社」・「中の宮」と呼ばれていた『勢陽五鈴遺響』は「佐奈神社」と記す「中の宮」の名は、佐那神社とともに神宮造替使によって社殿の建て替えが行われた多気郡の3社である須麻漏賣社を一之大宮、櫛田神社を大社と呼んだことと関連すると考えられる

『延暦儀式帳』に記される鎮座伝承においては、

・・・そして飯野高宮にご滞在された。
  その時、佐奈県造(さなのあがたのみやつこ)の御代宿禰(みしろのすくね)に、「おまえの国の名は何か」とお問いになった。
答えて「許母理国(こもりのくに)、志多備国(したびのくに)、真久佐牟気草向国(まくさむけ くさむけのくに)です」と申し上げ、神御田と神戸をたてまつった。
そして多気佐々牟迤宮(たけのささむえのみや)にご滞在された。
その時、竹首(たけのおびと)の吉比古(えひこ)に、「おまえの国の名は何か」とお問いになった。
答えて「百(もも)張り蘇我国(そがのくに)、五百枝(いほえ)刺す竹田国(たけたのくに)です」と申し上げ、
櫛田・根椋(*根倉)の神御田をたてまつった・・・
*飯野高宮・・・『延喜式』神名式、伊勢国飯野郡「神山神社」の地とされる。松阪市山添町
*多気佐々牟迤宮・・・『延喜式』神名式、伊勢国多気郡「竹佐佐夫江神社」の地とされる。多気郡明和町山大淀

とあり、古くから神宮の神戸及び神田があった場所と伝えられていた。

長谷山口坐神社は、元伊勢の「磯城厳橿(伊豆加志)の本」伝承地といわれ、鎮座地の字名は、手力雄といい、垂仁天皇の代に倭姫命を御杖として、約8年間天照大神を祀り、当時、随神としてこの地に天手力雄神を、北の山の中腹に栲幡千千姫命を祀る二柱を鎮座せられたという。

「阿智彦」、ホツマツタヱの記述
ホツマツタヱによると、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)を 諱(いみな:斎名)で「阿智彦」と呼んだ。
カナサキ(住吉神)の仲人で アマテル神(天照大神)の妹「ワカ姫」を妻とし、子に 天手力男命、天表春命、天下春命らがいる。

神坂神社
阿智神社の近くの山中には神坂神社があり、仲人の 住吉神が祀つられている。

戸隠神社
社伝によると、ここも天の岩戸に 関わり、手力男神が天の岩戸を引き開けようとしたら力余って岩戸を飛ばして しまい、降った処が戸隠山という天の岩戸の飛来伝説だそうです。これを祀っ たのも阿曇犬飼という祖神綿津見神を奉じる阿曇氏を父系にもつ犬飼族でした。 阿曇氏は南アルプスの穂高山とその麓の安曇野に穂高神社を祀り、犬飼氏は紀 伊国高野明神の祝と云われています。正に手力男神は信州に飛来したのです。

櫛田(くしだ)神社。

松阪市櫛田町に鎮座。
近鉄山田線・櫛田駅の東北、櫛田川西岸。『延喜式』神名式、伊勢国多気郡五十二座の一。
大若子命(おおわかこのみこと)を祀る。
『倭姫命世記』には、
天照大御神の鎮座地を求める倭姫命が飯野高宮に滞在しているとき、
大若子命(度会氏の祖。この後、倭姫命に同行し、皇大神宮の初代大神主となる)にその統治する国の名を問うたところ、
大若子命は「百張る蘇我国、五百枝刺す竹田国」と答えたが、そのとき倭姫命の御櫛が落ちたので、その地を櫛田と名づけ、櫛田社を定めた、との櫛田神社の創祀伝承が記されていて、
主祭神はその大若子命となっている。
明治時代に神社合祀のため移転し、さらに山添町の神山神社(飯野高宮の地とされる)に合祀されたが、氏子の嘆願により昭和八年にこの地に分祀している。元の鎮座地はここより北西にあるとのこと。

福岡市博多区に鎮座する、博多祇園山笠で有名な櫛田神社は、天平宝字元年(757)にこの神社を勧請したものといわれる。

大若子命は、度会系図などによれば垂仁天皇治世に勅命を受けて越国の阿彦という者を征討、戦において幡をかかげ大いに戦ったことにより「大幡主」との名を賜ったとあり、大幡主命(おおはたぬしのみこと)とも呼ばれる。
伊勢の勢力がはるばる越国、つまり富山・新潟のほうまで出撃するとは、それだけ天照大御神の神威を必要としていたということか。
のち、神功皇后の新羅遠征にあたっては天照大御神が筆頭の守護神となったことが記紀に記されており、大和朝廷の拡張期には天照大御神が軍陣守護の神として常に随行していたのかもしれない。

櫛田川の西岸、近鉄櫛田駅の東北の水田・住宅地が渾然としている地域に鎮座しており、道が入り組んでいてわかりにくい。
その創祀伝承と社名から全国の理容美容業者の信仰を集めており、
社域の向かって右手には三重県美容業生活衛生同業組合らによって建立された「櫛の碑」がある。

山代国の曙立王

曙立王(あけたつのおう)は、古事記に登場する皇族で、岐阜の支配者であった日子坐命(ひこいますのみこ彦坐王)の孫にあたります。古事記には伊勢の佐奈造の祖はこの曙立王であると記されており、手力男命を祀る佐那神社(三重県多気郡多気町)には曙立王命が配祀されています。また、佐那神社の辺りは水銀の産地で丹生神社(にゅうじんじゃ)もあります。

垂仁天皇記には、
出雲大神の祟りにより言葉が不自由な皇子・本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)がその祟りを解くため出雲大神の宮へ参拝に向かう際、
その随行者として曙立王が卜に合ったので、天皇が曙立王に誓約(うけひ)をさせ、曙立王が、
「この大神を拝むことによって本当に験があるならば、この鷺巣池の樹に住む鷺よ、誓約に従って落ちよ」
と天皇の詔を宣ると、鷺は木から落ちて死に、
「誓約に従って活きよ」
と宣ると、生き返った。
また、甘樫丘の崎にある、葉の広く繁った樫の木を誓約によって枯らし、また生き返らせたので、
天皇は曙立王に「倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとのしきのとみのとよあさくらのあけたつのみこ)」という名を賜わった。
曙立王は弟の菟上王(うなかみのみこ)とともに御子に従って出発したが、
それにあたっても卜をおこない、
「(山城国へ向かう)奈良越えの道を行けば足の悪い人や目の見えない人に遭うだろう。大坂越えの道を行っても同じだろう。
ただ紀伊越えの道のみが幸先の良い道である」
と、紀伊へ出たうえで出雲を目指し、行く先々で品遅部を定めていったとある)」

継体天皇母・振姫の父は品治部か

日本書紀は、継体天皇母・振姫を、垂仁天皇七世孫と書く。
そして、振姫が、ヲホド王を連れて、越前国坂名井の高向
の実家に帰ったと記すが、父の姓氏は書いていない。
品治部とは、垂仁皇子ホムツワケの名代として定められた姓。
磐撞別命も、同じ垂仁皇子なので、その後裔が選ばれても不思議ではない。
振姫の祖父アカハチ君から、君姓が始まっている。

品治部と江沼臣の通婚
上宮記逸文に、振姫の母について、
「余奴臣祖名阿那尒比禰」
とある。
アナニヒメは、江沼国造一族であったことは間違いないだろう。
江沼国造は、三国国造から分かれた宗我(そが)氏同族である。

日子坐王と山代之荏名津比売との間に生まれた大俣王の子である曙立王は、「伊勢之品遅 部君・伊勢之佐那造之祖」としてみえ、彼は『古事記』垂仁段のホムチワケの物語にも登場し、そこ では出雲大神を奉斎することで、物言わぬ皇子ホムチワケは言語を獲得するのだが、その中で品治部 を設置したとみえる。また日子坐王と袁祁都比売に系譜する息長宿禰王の子である息長日子王は、息 長帯比売・虚空津比売の同母弟にあたり、「吉備品遅君・針間阿宗君之祖」とみえる。国造本紀では、 吉備品治国造は多遅麻君(但馬君)と同祖にあるとされるが、同じく国造本紀では、但遅麻国造につ いて「志賀高穴穂朝御世。竹野君同祖。彦坐王五世孫船穂足尼定賜国造」とあり、彦坐王に系譜する とされている。

天津石門別神社
奈良県高市郡高取町越智字大西85

御祭神 主祭神 天手力男命 (あめのたじからおのみこと)
末社祭神 大物主命 (おおものぬしのみこと)金刀比羅神社
宇賀魂命 (うかのみたまのみこと) 稲荷神社
由 緒
越智氏居館跡の西に鎮座。旧村社。古来九頭神社と称し、「越智氏系図」に元暦二年(1185)越智家の祖親家が戦場守護神として祀ったと記し、越智党団結の契機及び城館鎮護の神とされた。明治八年(1875)奈良県示達により「延喜式」神名帳高市郡「天津石門別神社」に治定され、社名も改称されたが根拠は不明。式内天津石門別神社は天石戸別神とも書き、貞観十七年(875)三月二十九日、正五位下より従四位下に昇叙(三代実録)。式内社は近世まで所在不明で(大和志)、「五郡神社記」のみ忌部村(現奈良県橿原市)の忌部神社(式内天太玉命神社)に併祀と記す。なお「三代実録」貞観五年二月十四日条に大和国の天津石門別稚姫神を従五位下より従五位上に昇叙したとあるが、天津石門別神社との関係は不明。