和邇氏、菟道稚郎子皇子、山背国

天足彦国押人命。 
5代孝昭天皇と その内宮ヨソタリ姫の第1子。 斎名:オシキネ。 
オシ姫、チチハヤの父。 春日親君。
親君(親王)となり、カヱシネから春日県を賜る。春日臣の祖。 
この人が春日親君となったことによって磯城・春日・十市辺りの県主の系統に変化が起きている。 
子はそれぞれ、春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣・大坂臣・阿那臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟耶臣・都怒山臣・伊勢の飯高臣・壱師臣・近淡海国造の祖先という。
  
天理市和爾町、和爾下 (ワニシタ) 神社。 
和歌山県海南市大野中、春日 (カスガ) 神社。
  
押人(オシヒト)は、孝安天皇の兄である。
『書紀』和珥臣(わにのおみ) らの先祖。
『旧事』大春日臣(おおかすがのおみ) らの祖。
和珥氏一族の一部が大和国添上郡の春日に移住し、その地名を姓として名乗る。春日姓を称し始めた時期は明らかでないが、雄略朝以降と考えられている。
和珥童女君(春日和珥臣深目の娘:雄略妃)、糠君娘(和珥臣日爪の娘:仁賢妃)、荑媛(和珥臣河内の娘:継体妃)と、多数の后妃を輩出し、天皇の外戚として勢力を持った。その後、嫡流は大春日氏を称し、ほかに大宅氏・小野氏・粟田氏・柿本氏の諸氏が分立する。

宇治
『新撰姓氏録』を按ずると、饒早日命を祖とする宇治宿禰をはじめ今木連一族や和邇部がこの地に住居していたことが知られる。
とくに和邇氏は孝昭天皇々子を祖とする古代豪族の一で、この地に早くから繁栄していたことは、応神天皇の妃となった宮主宅媛・同小ナメ(扁+瓦)姫姉妹が、ともに和邇氏の出身であることによっても想像される。

応神が山城の宇治の木幡に居を構える和珥の日触使主(ひふれのおおみ)(記では比布礼能意富美)の娘、宮主(みやぬし)宅媛(やかわえひめ)(記では宮主矢河枝媛)を妃にした
この宅媛が生んだ子が菟道稚郎子皇子であり、八田皇女である。

宇治上神社・宇治神社
京都府宇治市宇治山田

祭神
宇治上神社--菟道稚郎子・応神天皇・仁徳天皇
宇治神社--菟道稚郎子
                                                                  両社ともに、宇治川に架かる宇治橋東方の仏徳山(離宮山)の麓に鎮座する古社で、宇治川を隔てた対岸に平等院がある。

延喜式神名帳(927撰上)に記す「山城国宇治郡 宇治神社二座 鍬靫」がこの2社とされ、千年にもおよぶ歴史をもっている。

江戸時代までは、「離宮上社」(宇治上神社)・「離宮下社」(宇治神社、若宮ともいう)とも呼ばれたというが(宇治上神社参道に“正一位離宮大神”と刻した古い石燈籠があり、古く離宮の名で呼ばれていたことを証する)、

宇治市史(1973)によれば、離宮の名の由来として、「応神天皇の離宮があり、太子菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)が居住したことにもとずく」との古伝承があるという。

※祭神
 今の祭神は、いずれも菟道稚郎子(以下「ワキイラツコ」という)を主祭神とし、宇治上神社では応神・仁徳の両帝を合祀しているが、延喜式には「宇治神社二座」とあり、ワキイラツコ他一座を祀るとする。
当社の祭神・二座について、
 ・菟道稚郎子+応神天皇説
 ・菟道稚郎子+仁徳天皇説
 ・菟道稚郎子+母:宮主矢河枝比売説(和邇臣の祖・日触使主の娘、書紀では宮主宅媛-ヤカヒメ)
 ・菟道稚郎子+忍熊皇子(オシクマ、下記)
などがある。
 
応神・仁徳・ヤカワエヒメはワキイラツコの家族(応神一家)であり、いずれも併祭神としておかしくはない。
上記3神のうち、母・ヤカワエヒメが当地の豪族・和邇氏の出身であること、応神一家に母子神信仰(神功皇后と応神天皇)が伴うことからみて、ヤカワエヒメであった可能性は強いが、それを証する資料はなく、今、その面影はない。
また応神天皇については、かつて“離宮八幡”と呼ばれていたことからみて、応神八幡信仰が広まった平安中期の頃、八幡神としての応神天皇が加わったのかもしれない。

なおオシクマ皇子とは、応神応神の皇位継承に反対して乱を起こし敗れた異母兄で、宇治市史は、「弟の誉田別皇子(応神天皇)に皇位が奪われるのを恐れて反乱を起こし、最後の陣を菟道に張ってついに敗れ、その死体が菟道河より出たと日本書紀に記される皇子」という(書紀・神功皇后摂政前記には、菟道で敗れ、近江の戦いでも敗れて瀬多で入水して死んだが、数日後、菟道川から死体が見つかったとある)。

 なお、当該2社について、江戸時代までは2社をあわせて一体視されていたというが、延喜式当時の状況は不明。
 通常、○○神社二座という場合、一社に2柱の神を祀ることをいうから、元は宇治上神社(祭神:二座)一社であったと思われ、宇治市史は、「菟道河のほとりの母子神を中心とした宇治神社の信仰は、ワキイラツコとその父・応神天皇をまつる上・下二座の神へと発展し、やがてそれに前掲の神々が加わって今日にみる宇治神社と宇治上神社の祭神に至ったものであろう」という。

宇治上神社
京都府宇治市宇治山田59

交通
京阪、JR駅 平等院鳳凰堂の川向かい
祭神
應神天皇、菟道稚郎子、仁徳天皇

由緒(平成祭礼データ)
平等院の鳳凰堂である。丁度、神社の位置は平等院の真向かいであることが判る。
実は、宇治上神社と平等院とは、深い関係があった。平等院ができてからは宇治上神社は、その鎮守としてあがめられ、例年の五月の祭礼には、藤原氏から神馬が奉納され、また散楽等も奉仕された。治暦三年、正三位の神位の授与のあったときには、天皇は平等院より神社に御幸されている。
 もっとも、藤原氏が宇治院を手に入れるまでのことについては、はっきりとしたことは判らない。古くは、宇治上、宇治神社の両方をあわせて宇治明神、あるいは離宮社とよばれ、江戸時代には離宮明神といわれているところからみて、陽成天皇の離宮である宇治院の鎮守として、祀られたものとの見方も成り立つ。このように、神社の古い由緒については明らかではないが、神社の社殿である本殿、拝殿、摂社春日社等の諸建物は、この社が、古い歴史をもっていること、そして高度の造型技術を身につけた人たちにより、造営されてきたことを雄弁に語っている。
そしてこの環境が、千年近い年数の間、ずっと保たれてきているのに、今更のように驚くのである。

由緒(寺院神社大事典(山城)平凡社)から
宇治神社と一体で宇治離宮明神と呼ばれ、上社である。八幡社である。
応神天皇の皇子の菟道稚郎子が住んだ離宮桐原日桁宮の跡と伝えられる。 境内には「岩神さん」と呼ばれる巨石があり、磐座信仰に源があるとされるp

◎菟道稚郎子
 書紀・応神紀によれば、応神天皇と妃・宮主宅媛(ヤカヒメ=ヤカワエヒメ)との皇子で、応神に愛され、応神40年に皇太子に立てられている。一を聞いて十を知る賢者だったと記し、その師として百済から招かれたのが王仁博士という。

書紀・仁徳天皇即位前紀によれば、
 「応神崩御後、ワキイラツコは『兄を越えて皇位を嗣ぐのは道に背く』として皇位を異母兄・オオササギ(仁徳天皇)に譲ろうとし、オオササギは『父帝の意志』としてこれを拒み続け、互いに3年もの間譲り合いを繰りかえし、最後にはワキイラツコが自殺したことで、オオササギが皇位についた」(大意)
とある(古事記は、「ウジノワキイラツコは早く崩りましき。故、オオササギが天下治らしめしき」と簡単に記している)。

 
書紀には、オオササギとワキイラツコが互いに皇位を譲り合った儒教的美談として記されているが、ワキイラツコとオオササギが皇位を譲り合っていたとき、
「時に、海人(漁師)が鮮魚の大贄(オオニエ)を菟道宮に奉った。しかし、ウジノワキイラツコは吾は天皇ではないとして難波に持って行かせたが、オオササギもまた受けとらなかった。海人が両者の間を行き来しているうちに、魚が腐ってしまった」(大意)
との話がある。
 オオニエとは天皇に捧げられる献上物をいう。それを菟道宮に持っていったことは、ワキイラツコが即位して菟道を都としていたことを示唆し、
また、山城国風土記逸文・宇治条に
「応神天皇の子の宇治の若郎子(ワキイラツコ)は、桐原の日桁(ヒケタ)の宮を造って宮室(オオミヤ)となされた。その皇子の名によって宇治と名づけた・・・」
とあり、ワキイラツコの居た桐原日桁宮(菟道宮ともいう、ワキイラツコの離宮とも応神天皇の離宮ともいうが、ワキイラツコが居住していたという)を宮室・オオミヤ(天皇の宮居)と呼んでいること、
あるいは、播磨国風土記揖保郡条に
 「宇治天皇(ワキイラツコ)の御世に・・・」
とあることなどから、ワキイラツコが皇位についていたともみられ、そこから、宇治にいるワキイラツコと難波のオオササギの間に対立・抗争があり(それは両者を担ぐ豪族間の抗争ともいえる)、それに勝利したオオササギが仁徳天皇として即位し、河内王朝の基礎を固めたとする見方もある(宇治市史他)。

また、皇位が空位だったとき、異母兄・大山守命が皇位をねらってワキイラツコを殺そうとした。それを知ったオオササギはワキイラツコに知らせ、ワキイラツコは宇治川の畔に兵を伏せ、自らは渡守に変装して大山守を騙し討ちにした(大意)、という記述がある。応神から仁徳への皇位継承には、記紀のいうような美談ではなく、3皇子間の抗争があった、ともとれる。

因みに、ワキイラツコの宮居という桐原日桁宮の跡に創建されたのが宇治上神社(宇治神社ともいう)といわれ、醍醐天皇が神託をうけて延喜元年(901)に社殿を造営したことに始まるというが、詳細不明。

陵墓
 書紀には、「ワキイラツコは菟道の山の上に葬られた」とあるが、今の陵墓は山の上ではなく宇治川左岸の平地にあり、書紀にいう山の上とは異なる。
 この陵墓は、明治22年(1889)にワキイラツコの墓と定められたものだが、その比定理由は不明。その時、前方後円墳(L≒106m・H≒4m)に改築されたといわれ、学術的には宇治丸山古墳と呼ぶ。

 陵墓比定以前、当地には古墳状の円丘があり、ワキイラツコの母・ヤカワエヒメの墓、あるいは異母兄・大山守命の墓との伝承があったという。

 この伝承あるいは地形が書紀と異なることから、本当の陵墓は、東南の山上にある宇治二子山古墳(円墳+方墳)あるいは北方の五ケ丘二子塚(前方後円墳)のいずれかではないか、ともいう。

物語宇治十帖址

紫式部が著わした『源氏物語』五十四帖のうち後半、「橋姫の巻」以下の十帖は、宇治を主題としたところから世に「宇治十帖」とよばれる。
これに因んで、後世に以下にあげる遺跡がつくられた。
橋姫之古蹟(橋姫神社)、稚本之古蹟(彼方神社)、総角之古蹟(宇治上神社)、早蕨之古蹟(宇治神社北隅)、宿木之古蹟(槇尾山麓)、東屋之古蹟(京阪電鉄宇治駅横)、浮船之古蹟(三室戸寺境内)、蜻蛉之古蹟(三室戸路畔)、手習之古蹟(京阪電鉄三室戸駅東)、夢浮橋之古蹟(宇治橋西詰)

これらはいずれも宇治より三室戸に至るところを主とし、石仏や石標を建てて明示されている。

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下記のような記事があります。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou34/kaihou34.html
『播磨国風土記』の兄太加奈志・弟太加奈志には「宇治の天皇のみ世、宇治連等が遠祖」とあり、この兄弟は建膽心大祢命と多弁宿祢命(宇治部連・交野連等の祖)ではないでしょうか。
こうして、「宇治の天皇」とは崇神天皇に相違ないでしょう。物部氏は崇神天皇に仕えた本家が宇治連となり、弟たちは垂仁天皇に仕えたのです。
これが大新河命(垂仁の大臣・大連、物部の賜姓)十市根命で、この後裔が大和国の物部氏となったのです。この場合、息子の武諸隅連が崇神に仕え、父の大新河命が垂仁に仕えるという逆転現象が起きています。
崇神天皇は宇治に都を作り王朝を開き自己の在位年数をカウントし、息子の垂仁天皇は大和に進出して別な都を作り王朝を開き在位年数を独自に計算していたのであろう。
崇神・垂仁王朝は王朝としては幼稚であって、中国風な王位の代々の一系的な相続や王位の紀年の取り方を採用するまでには成長していなかった王朝であったと想定されるのです。
 何故こんなことをいうかというと、『住吉大社神代紀』に「崇神天皇没年戊寅の年、在位年数六十八年・垂仁天皇没年辛未の年、在位年数五十三年」という記事があるのですが、崇神天皇没年戊寅の年は『古事記』と一致していて、これは三七八年と推定され(論証省略)、逆算すると崇神即位は三一〇年となります。
他方、垂仁天皇没年は菟道稚郎子の死の前年と推定するのですが、これは三九四年(応神天皇『古事記』没年と同一)(注)であり、『住吉大社神代紀』と合わないのです。ところが崇神天皇没年の三七八年に垂仁の在位年数の五十三年を加えると、四三一年となり『住吉大社神代紀』の「垂仁の辛未の年」の没年は計算上では一致するのです。
 そこで推測ですが、垂仁の在位年数五十三年の伝承があり、『住吉大社神代紀』は、これを計算によって「垂仁の辛未の年」の干支を算出したものに違いがないと考えたのです。そこで、垂仁の在位年数を正しいと見なして、筆者の推定の垂仁没年の三九四年から在位五十三年を引くと三四一年が垂仁即位となります。このように考えると、三四一年から三七八年までは年紀が崇神(宇治)と垂仁(大和)で重複して数えられていることになるのです。このような視点で、この系図を読めば、大新河命の子の武諸隅連は宇治に残って崇神天皇に仕えたのです。そして大新河命と十市根命は大和に移り垂仁天皇に仕え、末子相続なのでしょうか、十市根命の子孫が大和の物部氏の本流となったのです。