息長日子王

この息長宿禰王が葛城の高額比売(タカヌカヒメ)を娶った産んだ子が、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)、虚空津比売命(ソラツヒメノミコト)、息長日子王(オキナガヒコノミコ)の三柱です。

この息長日子王は吉備の品遅君(ホムヂノキミ)・針間(ハリマ)の阿宗君(アソノキミ)の祖先です。

龍野市「誉田町」に鎮座する阿宗神社
祭神は息長日子王と一族の象徴的存在の神功皇后・応神帝親子です
この社には欽明帝の頃、大将軍を務めていた大伴金村の息子・狭手彦が宇佐から八幡神を勧請したとの「伝説」もある

姫路市内にある白国神社というお宮さんです。その神社が建つ白鷺城の北北東凡そ3㎞の位置は「播磨国風土記」飾磨の郡『新良訓(しらくに)』の条で、

新良訓と名づくる所以は、昔、新羅の国の人、来朝ける時、この村に宿をとったから「白国」と名付けられたとある場所で、その祭神は稲背入彦命と阿曾武命(アソタケル)と神吾田津日売命の三柱です。

社伝によれば、

  今を去る千七百年の昔、景行天皇の皇子(稲背入命)が、大和から当地(白國)へ下向された時に宮殿を構えて統治された。孫の阿曾武命の妃(高富媛)が出産のおり大変苦しまれ、命は白幣を山の峰に立て一心に、安産を祈願されたところ、木花咲耶媛(コノハナサクヤヒメ、神吾田津日売命の別名)が忽然と現れ、願いを聞きとどけてくれた。

姫路には、もう一か所かつて「白国大明神」と称された神社が指呼の先にあるのです。それが天平五年(733)の創祀とされる広峰神社。
祭神はスサノオと五十猛命親子
もともと白幣山にあった社を天禄三年(972)に今の社地に移したものらしく、社家は歌人の凡河内躬恒の子・恒寿を祖とする広峰氏なのですが、七代目の勝賀に男子が無かったため『阿曽氏の一族』広瀬家から婿養子三郎を迎えたと社伝にあります。一方は大王家の孫、他方は天津彦根命・天御影命系の家柄ですが、直線距離にしてわずか1.5㎞の所に建つ両社が無関係とは到底考えられず、むしろ「阿曽」を介して何らかの繋がりがあったと見るのが自然です。

稲背入彦命(イナセイリヒコ)という「皇子」が景行の「息子」だという記述は「古事記」にありません。彼だと思われる「稲瀬毘古王」の名前が出てくるのは垂仁帝の后妃皇子女段のみで、皇后・氷羽州比売命(ヒバスヒメ、丹波道主王の娘、日葉酢媛のこと。景行の母親)の妹で、阿邪美能伊理毘売命との間に産まれた阿邪美都比売命が稲瀬毘古王に「嫁いたまいき」とあります。また、日本書紀は薊瓊入媛が「池速別命と稚浅津姫命」の二人を産んだと記すだけで嫁ぎ先などについては沈黙を守っています。更に、景行紀四年条には、

次の妃、五十河媛、神櫛皇子・稲背入彦皇子を生めり。その兄神櫛皇子は、これ讃岐国造の始め祖なり。弟稲背入彦皇子は、これ播磨別の始祖なり。

近江野洲の兵主大社縁起によれば、

当社は大国主神の異名、八千矛神を祀り「つわものぬし」と呼称する。その鎮座は大国主神、天孫の勅に応じて皇御孫命に国土を譲られた時に、御杖とされた広矛を授けられてより宮中に「国平御矛」として御鎮祭になったが、景行天皇御矛の神威をかしこみ宮城近き穴師に神地を占し兵主大神と仰ぎ、皇子稲背入彦尊(日本武尊の弟)をしてこれを祀らしめた。後、景行天皇が近江国滋賀郡に遷都される時、同皇子が社地を宮城近き穴太に求められ、部属を率いて遷し祀られた。後、欽明帝の御代、播磨別等(兵主族の祖先)琵琶湖上を渡り東に移住するに際し、再び大神を奉じて今の地に鎮祭し、御神徳を仰ぎ、稲背入彦尊を乙殿神と崇め同境域に祀り神主(氏上)の祖神と仰いだ。

大和の日代宮近くに穴師坐兵主神社を創始したのも稲背入彦皇子

景行が皇后に選んだのは播磨稲日大郎姫(吉備氏の娘でヤマトタケルの母親、和邇氏の彦汝命が父親)という女性でしたし、彼が都を築いた場所も桜井市穴師という土地でした。その大王を滋賀の「穴太」の地に誘ったのは稲背入彦その人ではなかったのか?(「播磨国風土記」飾磨郡には穴師の里・右、穴師というは、倭の穴无の神の神戸に託きて仕え奉る、故、穴師と号す、とあります)もっと勘ぐれば垂仁が纏向に営んだ都を、眼と鼻の先の「穴師」に移させたのも彼の「提案」だったのではないのか?そもそも、垂仁三年春三月に播磨国宍粟邑にやってきて、
莵道河より遡り、北の方、近江国の吾名(あな)邑に入りて、暫く住んだ

崇神・ミマキイリヒコ、垂仁・イクメイリヒコ、五十瓊敷入彦命・イニシキイリヒコ、五百城入彦皇子・イオキイリヒコと連鎖するイリ王朝の輪の只中に在ったのが稲背入彦命・イナセイリヒコだったと云えそうですね。

  (前略)またの妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ。
  またの妃、襲武媛は、国乳別皇子、次に国凝別皇子、次に国背別皇子、またの名は宮道別皇子、次に豊戸別皇子を生んだ。
  またの妃、美人を御刀媛という。豊国別皇子を生んだ。(中略)
  稲背入彦命[播磨別の祖]。豊国別命[喜備(吉備)別の祖]。武国皇別命[伊与(伊予)御城別、添御杖君の祖]。大稲背別命[御杖君の祖]。
  豊門別命[三嶋水間君、奄智首、壮子首、粟首、筑紫火別君の祖]。息前彦人大兄水城命[奄智白幣造の祖]。櫛角別命[茨田連)の祖]。

息前彦人大兄水城命という名前を見て、はて、どこかで何度も見たような名前だと思われる方も多いことでしょう。先ず「息前」は「息長」の誤植ではなく「おきさき」と読ませるのだそうです。

百済の調賦、常の例よりまされり。筑紫の安致(あち、あんち)臣・馬飼臣ら、船師を率いて高麗をうつ。

息長田別王。
ヤマトタケとオトタチバナ姫の第5子。
★『旧事』息長田別命(おきながのたわけのみこと)。阿波君らの祖

井上正雄の労作『大阪府全志』が世に出たのは大正11年のこと。かつて「東成郡」に属していた喜連村の項には旧家に伝わる一つの「家記」が紹介されている
大阪府全志の紹介
1 武御雷男の子孫が国の名を「大々杼国」、郷の名を「大々杼郷」と名づけたが、神武帝から大々杼の姓を賜った。
2 神八井耳命と孝元帝が、大々杼彦仁の時、行幸された。此の折、孝元帝の像を彫刻し天神社にお祀りした。
3 崇神七年、大々杼名黒が帝の詔を受け、新たに二つの社を建てた。その一つが祖神・楯之御前社である。
名黒が祖宗以来領有している所は、南は多治比、北は浪速、東は味原までに及ぶ。
4 仲哀帝は、大々杼黒城に嗣子の無いことを聞き及び、日本武尊(ヤマトタケル)の子・息長田別王を黒城の娘・黒姫に配せしめられたが、
二人の間には杭俣長日子王が産まれ、田別王は狭山池の水を引いて田を作り、息長河を掘って水を淀川に注がしめた。

これまでの古代史では神功皇后の生家を近江息長氏(父が息長宿禰王)とし、その遠祖を「山代之筒木真若王--日子坐王--開化帝」の系譜にだけ求めてきた訳ですが、上記の家伝によれば息長家そのものが「仲哀帝の異腹の兄弟(タワケ)」と「河内の豪族の娘(クロヒメ)」との間に産まれた杭俣長日子王(クマタナガヒコ、『上宮記』では河派仲彦王)から始まった事になり、息長氏が後世にわたって半ば王家と同等の扱いを受けた(西暦684年『八色の姓』制定時、最高位・真人の筆頭が息長氏)背景が、より鮮明になります。そして上で見てきた人物たち全ての家系図を描いてみると分かるのですが、その中核となる位置に立っている主役がホムタワケ・応神天皇その人に他なりません。

記録によれば
① 皇后摂政11年、皇太子品陀和気命は武内大臣、依羅吾彦などを引きつれ皇后と共に行幸され、息長の姓を与えられた。
② 皇后摂政51年、杭俣長日子王の娘・息長真若中女が皇太子妃となり、56年、若沼毛二俣王が産まれた。
③ 応神8年、杭俣長日子王の求めに応じ若沼毛二俣王が婿入りし、弟女真若伊呂弁王と息長の家を継いだ。二人の間には、
大郎子(大々杼王)、忍坂大中女命、沙禰王、琴節郎女(衣通姫)
など七人の子宝に恵まれた。
④ 長子の大々杼王は仁徳帝の勅命を奉じて淡海の息長氏となり、弟・沙禰王が息長家を相続した。
⑤ 允恭帝の頃、沙禰王の娘・真若郎女を淡海の大々杼王の子・彦主人に嫁がせ、同帝39年、大々杼命が河内の産殿で産まれた。
この王子は、産まれて後も河内で育てられ、8年を経た雄略帝元年、淡海の父親の許に送られた。
⑥ ところが実母の真若郎女が早世したため「異母」福井振姫に随い成長し、越前三国の君と号した。この王子は後、天下を治めた。
⑦ 継体帝2年春、帝は妃・安部波延女と娘・都夫良郎女を連れて御手洗池で「禊祓」をしていた処、娘が池の荒波に誘われて水中に流された。
当主・息長真手王の一人息子・息長真戸王が、その姫を助けようと水中に飛び入り、二人とも亡くなってしまった。帝は、若い二人の死を大変哀れみ、死後ではあったが姫を真戸王に嫁がせ、垣内の御陵に葬った。
更に帝は、自らの王子・阿豆王(「紀」では厚皇子)を真手王の娘・黒郎女に配し、息長家を相続せしめた。
⑧ 息長真手王は継体の諱名をはばかり、大々杼郷の名を廃し、高祖に因み「杭全(くまた)郷」と称した。
⑨ 息長阿豆王の娘・比呂女命(広姫)は敏達帝の皇后となり忍坂彦人太子が産まれた。

息長田別命は武貝児命か
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/inase1.htm
結論的には、応神天皇の祖先は、宇佐国造一族の支流で、火(肥)国造からでて四国に渡り、伊予・讃岐→播磨と遷って畿内に入ったことが推されます。
この一族とみられる大江王(彦人大兄)が生んだ大中比売命(大中姫)が仲哀天皇に嫁して香坂王・忍熊王を生んだことも記紀に記されております。大江王は仲哀の「叔父」だと仲哀紀に見えますが、それが父・倭建命の弟という位置づけだと、景行紀に景行の皇子とされる稲背入彦命に重なりあいます。この者の別名を息長彦人大兄水城命とも咋俣長日子命(くいまたながひこ)ともいい、息長田別命(武貝児命)の子であって、息長君の祖・稚渟毛二俣命の父に位置づけられます。

景行の皇子のなかにあげる神櫛別命、櫛角別命や、倭建命の子にあげる綾県主の祖・武卵王(たけかいこのみこ)は同人です。景行記に、神櫛王は宇陀酒部等の祖とあることで、宇陀の御杖君につながります。神櫛王や武卵王は伝説上の讃留霊王(さるれいおう)にも当たる人物であり、讃岐国造は『百家系図』巻9等に系図が見えますが、神櫛命の子にあげる千摩大別命の子孫として記載されます。また、五十河彦命は、神櫛王か千摩大別命とに重複する

近江の播磨別:兵主大社縁起
皇子稲背入彦尊(日本武尊の弟)をしてこれを祀らしめた。後、景行天皇が近江国滋賀郡に遷都される時、同皇子が社地を宮城近き穴太に求められ、
部属を率いて遷し祀られた。後、欽明帝の御代、播磨別等(兵主族の祖先)琵琶湖上を渡り東に移住するに際し、再び大神を奉じて今の地に鎮祭し、御神徳を仰ぎ、
稲背入彦尊を乙殿神と崇め同境域に祀り神主(氏上)の祖神と仰いだ。