平戸島は、古くは志式島(ししきしま)と呼ばれていた。松浦明神の島。 長崎屈指の格式をもつ古社。 志々伎神社は壱岐・対馬を除く長崎県内では唯一の延喜式内社で、さらに全国285座の明神社のひとつ「下松浦明神」として朝廷の崇敬を受ける。 景行天皇の筑紫巡幸の際に、宮之浦の「志式島行宮」に滞在し、大値加・小値賀という賊を退治したとある。(風土記では大近の大耳・小近の垂耳という土蜘蛛) 祭神の十城別命は、日本武尊の御子であり、仲哀天皇の弟。神功皇后の三韓征伐に軍大将として参加し、凱旋後は、警備のため、当地に駐留した。別名・松浦明神。 松浦国造 成務天皇の時に、有力な軍事団の長の一つでもある物部氏の祖の伊香賀色雄の子の大水口宿禰(足尼)の孫の矢田稲吉を任命したと記されている。この矢田稲吉は肥前風土記に出る同じ唐津地方の土蜘妹を討滅した大屋田子(風土記では日下部君らの祖とある)と同一人物ではないだろうか 平戸は古くから海外への中継地点となり、真言宗の開祖・空海も入唐の際平戸から海を渡り、宋から帰国した臨済宗の開祖・栄西が日本で初めて禅宗を伝え、平戸の地に初めて茶畑を作りました。 中世になると平戸を支配していた松浦家の庇護のもと中国との貿易拠点となり、1550年ポルトガルの貿易船が初めて平戸に入港し、スペイン・オランダ・イギリスと相次いで入港、キリスト教の布教をはじめ様々な西洋文化や品が平戸から日本へ伝えられた。
空海 遣唐使船松浦郡田の浦より発 す。僧最澄、空海これに従う (804) この頃空海深月に来たとの口 碑あり 遣唐使第三船松浦郡庇良島 (平戸)より発し難風に遭う (805) 空海帰朝平戸に滞在(806) 神社の社号も 「志式」→「志々伎」→「志自伎(志自岐)」と変化しました。 「志自伎(志自岐)」と書いたのは寛元2年(1244年)が最初とのこと 志自岐社の総本宮 志々伎神社 平戸市南端・野子町の志々伎山を神域とする上宮・中宮・地ノ宮・沖ノ宮の四社によって構成される神社です。 主祭神は日本武尊の第6子の十城別命。 鴨一隼と七郎氏廣の2柱を配祀 鴨一隼は小値賀町の神島神社の、七郎氏廣は平戸市の七郎宮(明治13年に同市内・亀岡神社に合祀)の主祭神です。 志々岐神社 しじきじんじゃ 長崎県対馬市厳原町大字小浦308 御祭神 豊玉姫命 境内社山形神社 素盞嗚命 五十猛命 階段の上に境内。対馬の神社の大半がこの形式。本殿はトタン板に覆われていて撮影不能。境内社に名前が無いが、一つだけだったので、多分、これが山形神社。 吉田収郎著の「志々伎神社」では、志々伎神社の創建は西暦332年としています。
福岡県糸島市志摩御床にある志々岐神社の由緒には白鳳元年(7世紀中頃)に平戸・志々伎神社を勧請したとの記載があるとのことですので、少なくともそれ以前の創建になります。 亀岡神社(かめおかじんじゃ) 長崎県平戸市に鎮座する神社。平戸城本丸跡に鎮座 平戸松浦氏歴代当主の霊と、 七郎氏広命 志自岐大明神(十城別命) 神島大明神(鴨一隼戸命) 天照皇大神、表筒男神、中筒男神、底筒男神、天児屋根命、和加宇加乃売神、誉田別天皇、天御柱神国御柱神、倉稲魂命、弥都波乃売神を祀る。 松浦市福島町 町内六社の七郎神社のうち代表的な神社。 祭神は、七郎氏広命、十城別王命、鴨一隼命の三神。社殿は造りが見事でよく保存されている。 ここでは七郎は「十城別王の子」になっている。
【交通案内】 浅谷免字波江崎にあり、福島港から約1.5km。波江崎バス停下車徒歩2分。 七郎神社(針尾東町) 針尾島の南端・西海橋に近く、大村湾に突き出した小さな岬に七郎神社があります。字は崎針尾で、針尾東町に属しています。 昭和十八年に建てられた七郎神社の社殿は、海岸近くにあって堂々としています。石灯籠には天保(一八三〇〜)の年号も見えます。
祭神は神功皇后の時代(西暦三八〇年代?)、十城別王(ときわけのみこと)に従って平戸入りした別七郎氏広(わけのしちろううじひろ)という伝説の武将です。十城別王は日本武尊の第六子で、神功皇后に「九州西端にいて内外の敵に備えます」といって平戸入りしました。七郎は弟の鴨一隼(かもいちはやと)とともに、その片腕となって活躍しました。七郎は君命で出陣中に没したと言われ、平戸では子供が使いに出て、そのまま忘れてしまうことを「七郎さんの使いのごたる」と今でも言うそうです。七郎は平戸亀岡神社に、弟の鴨一隼は小値賀の野崎島に祀られています。また十城別王は平戸南端の志自岐神社に祀られています。 針尾に伝わる伝説は、七郎の乗っていた舟が漂流して流れ着いたとか、北部の有福・安久の浦に立ち寄られたといい、有福には「七郎坊」という字があります。武将だった七郎にふさわしく、七郎神社では毎年十二月十四日、境内で奉納相撲が催されています。子供相撲三十三番のあと、昔は県下一円から集まった力自慢のしろうと力士が「針尾戸」「若剣」「羽根崎」といったしこ名をつけ、ヤンヤの声援の中で大勝負を展開したそうです。七郎神社は、俵ヶ浦半島突端の七郎鼻をはじめ、県北の各地に祀られ、海上安全や豊漁祈願の神さまとして信仰を集めています。 (平2・12 No.306) 『させぼ歴史散歩』 監修:佐世保市秘書課広報係 編集:芸文堂 上五島 有川の太田郷と奈良尾の岩瀬浦郷の2社 志自岐羽黒神社 志自岐神(十城別命)と羽黒神(倉稲魂命)の2柱 神紋はどちらも「丸に花菱」
松浦佐用姫とは誰? 物語の主人公の1人である佐用姫にまつわる物語は、肥前国松浦郡(現在の佐賀県唐津市・伊万里市・東松浦郡)に多く分布しています。その1つ『百済救済を命じられた大伴狭手彦が遠征の途上に佐用姫を妻とし、佐用姫は出征のために船出する夫を見送るため領巾を降り嘆き悲しんだ。その後、あまりの悲しみに石になった』という説や、『沼の蛇に引き込まれ死んだ』などという後日談と結合し、様々な物語を生んでいったようです。 この話は全国的にも多数存在しており、小夜姫、佐夜姫、小夜媛といった字で書かれている場合もありますが、これらの多くは「佐用姫」と同じ人物と考えられています。 537年、新羅に出征するためこの地を訪れた大伴狭手彦と佐用姫は恋仲となったが、ついに出征のため別れる日が訪れた。佐用姫は鏡山の頂上から領巾(ひれ)を振りながら舟を見送っていたが、別離に耐えられなくなり舟を追って呼子まで行き、加部島で七日七晩泣きはらした末に石になってしまった、という言い伝えがある。万葉集にはこの伝説に因んで詠まれた和歌が収録されている。 また肥前国風土記には、同様に狭手彦(さでひこ)と領巾を振りながら別れた弟日姫子(おとひめこ)という娘の話が収録されている。こちらでは、別れた後、狭手彦によく似た男が家に通うようになり、これが沼の蛇の化身であると正体がわかると沼に引き入れられ死んでしまうという話になっているが、この弟日姫子を佐用姫と同一視し、もう一つの佐用姫伝説とされることもある。 鏡の渡 郡役所の北にある。 昔、檜隈の盧入野の宮に天の下を治められた武少広国押楯(宣化天皇)のみ世に、大伴の狭手彦連を派遣して、任那の国を鎮めさせ、かたがた百済の国を救援させ給うた。狭手彦は命を奉じてこの村まで来て、篠原の村の弟日姫子を妻問いして結婚した《日下部君らの祖である》。 この姫は顔かたちは端正で美しく、人の世にすぐれた絶世の美人であった。別離の日になると、〔狭手彦は〕鏡をとり出して愛人に渡した。女は悲しみ泣きながら栗川を渡ると、贈られた鏡の紐の緒が断れて落ち、川の中に沈んだ。そのことによってここを鏡の渡と名づける。 大木足尼命の子に当たるとみるのが適当な者が、末羅国造の初代の矢田稲吉である 建忍山宿祢の娘・弟橘比売は倭建命の東征に随い相模の海に投身したことは有 名ですが、大木足尼命は弟橘比売の従兄弟としてこの東征に同行したものか。駿河の廬原国造も、その初祖が吉備武彦の弟であり、倭建東征に随行したことに因 み現地に土着した。また、末羅国造となって肥前に残ったのも、倭建命の西征に随行したことに因るとみられる。このほか、紀伊国牟婁郡の熊野国造は、初期に 分岐した阿刀連の支族である。 ■伝承神功皇后の鮎釣り 近くの竹林を釣り竿とし、河の中の石の上に登りて、鈎を投げる。“われ、西の財の国を求 めんと欲す。もし、事を成すあらば、河魚、かかれ”と。すると、銀鱗の魚がつれた。皇后 めずらしきものなり、これ時の人その処をなずけて“めずらの国”と云う。今は、訛って松 浦と云う。これをもって、この国の女の人は、4月上旬釣りをする。あゆが沢山釣れる。だ が、男が釣っても、一向につれない。」と。 『魚が釣れるならば新羅の征服が成功するでしょう』大勢の男を引き連れた女王の輝くような神々しい姿と天真爛漫な行動は、村人たちに圧倒的な印象を残した。この時以来、玉島川では男たちの鮎釣りが御法度となった (明治初期まで約1400年、女性だけにしか鮎釣りは認められなかった)。