寒川神社

寒川神社
寒川神社は「相州・一の宮」に定められ、相模国を中心に広く関東地方にまで知られ、相模国、関八州総鎮護の神として古くからの信仰が殊に厚い。歴史的にも1500年以上もの昔に、天皇勅願として創建された由緒正しき神社であると言われる。祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)、寒川比女命(さむかわひめのみこと)と兄妹神で、いずれも「水の縁」のある神様である。神社の古い縁起書によると、明治4年國幣中社に列せられたが、明治7年には『特選神名牒』の選があり、その際、皇太神宮儀式帳(伊勢神宮)に所載される末社・牟彌乃神社(むみのじんじゃ)の御祭神が寒川比古命・寒川比女命であることにより、新たに御祭神にこの一説が加えられ、明治9年『官社祭神考證』により当社の御祭神は寒川比古命・寒川比女命の二座とせられました・・とある

寒川神社の創祀年代は不明ですが、雄略天皇(456〜479)の御代に奉幣、また神亀4年(727)社殿建立と伝える記録があります。「延喜式」神名帳(927年編纂)によれば、相模国十三社のうち、唯一の名神大社とされています

寒川神社
大蓑彦神社
 当社は延喜式神名帳に「讃岐二十四座の一」とす、里人蓑神明神と奉称す、神社の北方に寒川渕ありて名水なり、寒川郡名之によって起ると云う。
 御祭神大蓑彦命は上古蓑を作り始め給ひし功績によりて称へし御名なるべしと云う。
 一説には素盞嗚命、又水霊神を祀ると云へり、神名帳考証に「寒川郡大蓑神社水霊郡名寒川郡因此神歟」と云う。
 特選神名牒に「水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なりとある。大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」と記されたり。

寒川神社
(讃岐の少彦名)
その昔、大水上神社に少彦名神が来て、夜毎泣き叫ぶので、 大水上神は桝に乗せて財田川に流したところ、当地に流れ着いたといわれてます。 古事記における、大国主(大己貴の表記は日本書紀)と少彦名による国づくりとの関連があるか; 讃岐の粟島が近くにある。

櫛梨神社:琴平町下櫛梨
祭神 :櫛王命
合祀祭神 :大己貴命 少彦名命 大山亂命 大水上神 天兒屋根命 龍田比古命 龍田姫命 大物主命 祓戸四柱大神 (一に曰八十柱津日神) 八神殿大神 経津主神 武甕槌神 磐長姫神 大雀命 菅原道真公 若御魂命 道反大神 久那斗神 高崖神 闇崖神 足仲津彦命 譽田別命 息長足姫命 神櫛皇子命供奉四十二姓神

寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?、
ここで、讃岐・四国の大川郡寒川町が関連登場してくるのである。 
町域のほぼ中央に「大蓑彦神社」(おおみのひこじんじゃ)というのが鎮座している。
この神社の起縁由緒には「 水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上 児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なり。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし 」とある。

大蓑彦命も大水彦神も水の神であり、その子達が寒川比古命、寒川比女命であるとして、どちらも水に関係する神様だと判る。
そして郡名は寒川としてあり、現に寒川町周辺一帯の大川郡は以前は寒川郡であった。

地理的には讃阿山地の南に面し、中小河川の流域で鴨部川や津田川となって流出している。 又、このあたりは門入池をはじめ無数の池が点在しているし、洪水時には水害の起きやすい地形と想像できるのである。
どうも大蓑彦神社も治水ために勧請された神様らしい。

治水工事というのは当時、最高水準の技術を必要とされ、その技術は呪術にまでも及んでいる。
川を鎮め、土地を太らせ、地域を安泰に導く。
つまり、国家風水技術であり、方位の吉凶を知る技術でもある。合わせて、ここに水の神が勧請されたのも理解でき、国家風水としての役目を終えた神社は、後には民衆を導く八方除けの神教となったのかもしれない。

では相模・寒川町と讃岐・寒川町はどのような関係、経緯があったのだろうか・・?、
古代の讃岐地方(隣国・阿波も含む)は忌部一族(いんべぞく・大和朝廷成立に大きな役割を果たした讃岐忌部氏・農耕の民)が支配していた。 
古代・中世の交通機関は船が中心だったため、忌部一族は黒潮ルートにのって房総半島に先ず渡来したと言われる。 
房州は、古くから関西との関係が強い。因みに、「勝浦」、「白浜」(紀州)や「安房」(阿波)など、以前の土地の名を付けたところも多い。
そして千葉市中央区寒川町にも「寒川神社」が存在し、「寒川比古命、寒川比女命」を祀っている。

39 名前: 名無しさん@chs :2007/12/15(土) 17:35:10 ID:bc01342eed
寒川神社 下総国式内社の論社
本千葉駅より徒歩10分。
千葉県千葉市中央区寒川町
祭神
天照大御神
寒川比古命
寒川比売命

又、古代・平安初期には三浦半島から相模にかけては平氏・桓武天皇の一族である三浦氏が支配し、三浦氏は元々は相模、房州の海をも支配していた海族でもある。
これらの祖先が相容れあって、讃岐から相模へ「水の神」を勧請したことは想像に難くないのである。

ところ変わるが、神代の地・伊勢市の西隣、玉城町・外城田地区に伊勢神宮の摂社「御船神社」がある。 社地は外城田川(別名、寒川ともいわれる)の上流地で、 外城田川が神社の東のあたりを流れている。
この神社の由緒は 垂仁天皇の頃、 倭姫命(ヤマトヒメノミコト:垂仁天皇の皇女で日本武尊の叔母と位置づけられ、神託により大和の国から天照大神を伊勢の地に遷宮され、伊勢神宮、伊雑宮を建立したとされる、伊勢神宮最初の斎宮)が、坂手の国(鳥羽市坂手町、伊勢神宮の御厨・みくりや)から外城田川を遡ってこられたとき、 この辺りの水域は大変荒れてて、 しかも、その水に水難の相が見受けられた為、 この川を「寒川」と名付けられ御船神社を奉じたという。 
倭姫命が名付けられたという寒川の故事により田丸町(現、玉城町)辺りは明治初期「寒川村」と改名を命じられたとも言われる。 だが、直後に再び田丸町に復しているという。 

御船神社の社殿の内に「牟弥乃神社」(ミムノジンジャ・皇大神宮・末社)が同座されている。 同じく倭姫命により祭られたもので、こちらの祭神は御馴染みになった「寒川比古命」、「寒川比女命」である。 
寒川の里(外城田川の上流地区)には、その他に、大水上神(オオミナカミノカミ)、天須婆留女命(アメノスバルノミコトノ)、大歳神(オオトシノカミ)等の神々が祭られ、何れも神格は水神や農神であるという。
地理的には、この地域は外城田川、宮川、櫛田川の上流域にあたり、周辺は斎宮池をはじめ無数の池、沼があり、やはりというか低地・水郷地帯であるようだ。
いずれも克っては水難の地相と想像できるのである。 

斎宮・倭姫命は、この地の洪水、水害を嘆かれ「御船神社」、「牟弥乃神社」を創建し、大水上神の子で兄妹神を「寒川比古命」、「寒川比女命」と命名して奉ったとも想定できるのである。
斎宮・倭姫命が外城田川を寒川や寒川村と称しているように寒川比の両神、そして各地の「寒川」と称する社名、地名は、この地が大元、発祥であるとも想像できるのである。

詰まるところ、伊勢の「皇大神宮・伊勢神宮」に、その古縁を求められることができるのである。
伊勢の地から讃岐へ、そして相模の寒川、房州の寒川、その他の各地へ分社されていったのだろう。
いずれも、水難治水、水防治安のために勧請されたものと想像できる。

これらは、あくまでも仮説であるが・・、
歴史というものは、事実に元ずいているものが理想であるが、事実を集合させて一つの仮説を組み立て想像するのも、歴史の面白さであろう。

寒川神社

 寒川比古・寒川比売とされている相模一ノ宮の寒川神社の祭神は、応神天皇、八幡大神、八幡大菩薩、沢女神、菊理媛、スサノオ・稲田媛、大己貴など諸説あるというが、吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』に諏訪神家の一族で守屋という青年からの情報として、「お前たちに伝え、不幸になってはいけいな。」といって、上古からの伝承を抱いたまま他界してしまった、語り部だったらしい祖母が、たった一つ教えてくれたこととして、天孫族の圧迫を受けた諏訪神家の一部は、相模国に逃れて定住し、寒川神社を建ててタテミナカタの命を祀ったという。それから、自分たちの裏信仰は弁天さんだという。そうすると、寒川神社も出雲神族系の神社ということになるが、相武国の国造の祖は出雲神族の伊勢津彦であるから、これはそれほど奇異な話ではない。

相武国造
成務天皇の五年九月、茅武彦命(かやたけひこのみこと)が国造に任命されたという。これはいわゆる官製の国造の初めであるが、これまでの国造(首長)の子孫がそのまま任命されたものである。
 茅武彦命については、西方より来て、相模国の当時の海岸であった香川・西久保あたり(いずれも現在の茅ヶ崎市の中西部)に上陸し、まず北方近くの芹沢に滞在し、次いで宮原に移り、三転して寒川に赴いて移住したとの説もある。

宇摩郡の寒川町江之元
宮下文書によれば
天照大神が、海守、山守の職をおくや、月読尊は、「総山守頭」に就かれる(これだと、月読命が、大山祇神となる)。葦津比売を娶り、八神の御子がある。(月読の命の)長子が、白玉彦という。諱(いみな)を寒川彦という
天照大神が、寒川比古に勅して、天下四方の国民は『今なお、多く穴居しにけり、吾れ甚だこれを憂う。次々に家屋を建て、以って、居住せしむべし」と詔す。
弟神七柱を連れて山々の木を切り、家作りの事を司る。これにて、四方の国民もようやく、家屋に居住するに到る。大神は大いに喜ばれて、諱を正哉山祇の命を給う。世に大山津見命、これなり。

宮下文書には、何かの古記録が在って、それを元に掛かれたものと思われる。

石戸八幡神社の古記録では、元の神社は、「寒川神社で、寒川比古命と寒川比売命が祭神であった」と言う。
同時に、此の寒川の地が大山祇神の終焉の地??????

 寒川氏は讃岐公凡直千継の一族で、世々寒川郡の郡司を務め、その後裔が寒川氏を称したと伝えられている。大内・寒川の二郡および小豆島を併せ領し、昼寝・挙山・虎丸等の諸城を構えて東讃岐に威勢を振るった。永正の初めごろ大内氏に属していたが、のちに細川氏に属し大内郡内で一万石を領した。
 文明のころの寒川左馬允元家は、文明元年(1469)山田・寒川の二郡の民事で三谷景久と争った。これによって、三谷景久と不和を生じて、同年九月景久は突如兵を起こし来襲してきた。左馬允も兵を起こして三谷氏を攻撃しようとしたが、細川政元の命によって兵をおさめた。しかし、翌年十一月、三谷城を攻め、景久を王佐山に遂い、さらに王佐山をも攻めたが落すことができず兵をおさめた。
 永正六年(1509)、大内義興に従って上洛。同九年、伊予の能島氏より瀬戸内の某小島に明人が逃れてきて盛んに貿易を行っているとの情報が寄せられ、左馬允はこれを攻めて貿易の利を得んとした。大内義興からも許しを得た左馬允は香西・安富氏らと図って引田の浦より備後鞆に渡り能島・因島勢らとともに、明人の島に押し寄せた。明人は和を乞い、以後、明人から多大な貿易の利を得るようになったという。
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寒川=参河か?

猿投神社について(ウィキペディア参照)
 大碓命が主祭神とされたのは近世以降で、それ以前は猿田彦命、吉備武彦、気入彦命、佐伯命、頬那芸神、大伴武日命など諸説があった。元々は猿投山の神を祀ったものとみられる。『延喜式神名帳』では「参河国賀茂郡 狭投神社」と記載されている。

こんな説があるが?
 猿投神社の以前の祭神とされる「気入彦命」は第10代崇神天皇の別名であると解する。古事記の和風諡号は「御眞木入日子印恵命」(ミマキイリヒコ)である。「御真」は「本当の」という形容詞であるから、「御真」を取れば「キイリヒコ」となる。