安部晴明

安倍 晴明(921年2月21日ー1005年10月31日)は、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。官位は従四位下・播磨守。

出自不明
晴明の系譜は明らかでないが、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)あるいは淡路守・安倍春材の子とされる。

921-1005(延喜21-寛弘2)「はるあきら」とも。平安中期の陰陽家。父は益材(ますき)。土御門家の祖。賀茂忠行・保憲父子に陰陽・推算の術を学び、天文博士などを歴任。式神(精霊)を使い、天文を解して事変を予見したという。卓越した卜占(ぼくせん)の技術をもっていたと伝えられ、逸話が説話などにみえる。著書『占事略決』。

式神を使って数々の超能力を発揮し、狐から産まれた出生話は、浄瑠璃「信太妻」や「晴明道満行力諍」「信太森女占」等で流布し、享保19年(1734)竹本座上演の竹田出雲作「芦屋道満大内鑑」の大ヒットで全国に喧伝されていった。
実際の安倍晴明はこの話より20年以上前の延喜21年(921)頃、讃岐国香之東郡井原に生まれた。

各種史書では『竹取物語』にもその名が登場する右大臣阿倍御主人の子孫とする。ほかに、阿倍仲麻呂の子孫とする説話、あるいは、一部の古文書では安倍朝臣晴明ではなく安倍宿禰晴明と記載されるものが散見されること、また当時は「朝臣」を「宿禰」の上位に厳格に位置づけており、朝臣姓の子孫が宿禰姓となることは考えにくいことから、阿倍御主人の子孫である安倍朝臣姓の家系ではなく、同じく阿倍氏の一族である難波氏(難波吉士、のち忌寸、宿禰)の末裔ではないかとする説もある。

幼少の頃については確かな記録がないが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたという。加茂氏の門下生であり、のちに両家は二大陰陽家となる。

陰陽師として名声を極めた晴明は、天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し主計権助を務めた。その後、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、位階は従四位下に昇った。さらに晴明の2人の息子安倍吉昌と安倍吉平が天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明一代の間に師である忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。

阿部一族の氏神
安倍氏の系譜に戻せば、安倍朝臣御主人の父は布勢臣麻呂古で、安倍倉梯麻呂 の女に生ませたのが御主人だから、御主人の子も安倍氏となった。でなければ、 御主人は安倍一族の氏上になどなれない。この御主人から数えて十代目が晴明になる

左大臣安倍倉梯麻呂 (御主人の父 布施臣麻呂古)
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阿部朝臣御主人(妻、阿部倉橋麻呂の女)
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10代目
阿部晴明

比羅夫の子で引田氏から安倍氏となった宿奈麻呂は大納言にまで登った。平城 京の造営にあたって京司長官の一人に選ばれており、土木建築の測量などに詳 しかったのかもしれない。まだ若い藤原仲麻呂=恵美押勝に算学を教えたとい われる

布施臣が出自か?

『古事記』の記事
倭健命の孫の咋俣長日子の女の息長眞若中比売に応神が 生ませた若野毛二俣は、母の妹の弟日売眞若比売に意富富杼王をもうけた。こ の王の末が三国君はじめ八氏の祖とあり、その末席に布施君の名がある。

安倍氏の部民に丈部氏や膳氏がいた。後に丈部氏 は安倍氏になった。膳氏は若桜部から高橋氏となり安倍氏と祖を同じくする。 若桜部は近江と越国に接してある若狭国の国造である。安倍比羅夫も越国守で あった。この越国の現在の福井県遠敷郡名田庄村のさらに奥の納田終に、安倍 晴明の子孫の土御門邸があった。天社土御門神道本庁である。

阿部宿奈麻呂 大納言

阿部比羅夫の子で引田氏から安倍氏となった阿部宿奈麻呂は大納言にまで登った。
平城 京の造営にあたって京司長官の一人に選ばれており、まだ若い藤原仲麻呂=恵美押勝に算学を教えたとい われる。当時の算学は算術だけでなく、代数・三角法などの測量から天文計測 まで含み、天文は占術におよんだはずである。そんな秘術を大納言の宿奈麻呂 が若造の藤原仲麻呂に教授したのは、藤原仲麻呂の母が安倍氏の女だったからで、藤原 氏に媚びたのではない。

藤原不比等の孫の藤原仲麻呂は阿部宿奈麻呂の曾孫でもあった。
安倍宿奈麻呂はそんな秘術を何処の誰に学んだか解らない。同時代、宿奈麻呂 の甥にあたる安倍仲麻呂が遣唐使船に同乗して留学しているが、終生帰朝でき なかった。いっしょに留学したのは吉備真備。

葛城の鴨氏
葛城の鴨神社の祭神は阿治須岐詫彦根神で、この神は記紀神話の天孫降臨に先 立つ国譲り交渉の段で、天稚彦のそっくりさんに間違われた。天稚彦の妻が阿 治須岐詫彦根の妹高比売命またの名を下照比売命にあたり、いっしょに鴨神社 に祭られている。ここも上社と下社に分かれ高鴨社と呼ばれるのにたいし、下 社は鴨都味波八重事代主命神社があり事代主神を祭る。

高魂命----伊久魂命-天押立命--陶津耳命-玉依彦命+生玉但日子命
(高皇産霊尊) (生魂命) (神櫛玉命) (健角身命)    |(賀茂縣主祖)
                        +剣根
(葛城直祖)
陶津耳命こと健角身命が山城葛野縣主の祖とされる八咫烏である。
その孫の代で縣主と葛城直祖の剣根に別れる。
同じ賀茂族として同族だった 。

賀茂朝臣吉備麻呂-子 黒麻呂ー諸雄-人麻呂-江人-忠行-保憲-保遠

晴明の師といわれる保憲の名がある。
子黒麻呂は天文暦数などよくしたのは、おそらく父の吉備麻呂が粟田朝臣真人 を正使とする第七次遣唐使として随行し、正使は早々に帰朝したらしいが副使 以下の吉備麻呂などは丸々六年も唐土に滞在している。
その間に学んでき たと考えられる。

藤原宮子の母の賀茂比売(聖武天皇の外祖母)は、子黒麻呂の子供のようです。

葛城賀茂氏のなかに賀茂役氏という一族がいた。
そして高賀茂役氏から役優婆塞、役君小角が出ている
続紀の養老三年に百六 十人が賀茂役君を賜姓したとある。
古くは、眉輪王が安康天皇を殺して逃げ込 んだ先の葛城圓大臣が、娘の韓媛と葛城縣を差し出したが、眉輪王と共に雄略 の手で焼き殺された。圓は従来ツブラと訓まれているが、エンつまり役ではな いか。

賀茂氏の陰陽道も小角を 外しては語れない。