元伊勢、皇大神社、豊受大神宮

元伊勢に祀られた主な神
内宮 天照皇大神 外宮 豊受大神
外宮相殿 日子番能邇邇芸尊 天児屋根命 天太玉命
内宮
拝殿の右手には、天手力雄神社。
左手には、龍灯の杉と栲機千千姫神社。

栲機千千姫神社、天手力雄神社、熊野神社、興玉神社は別格か
『神社名鑑』には末社八十一社とある。

栲機千千姫
『古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の一書では高皇産霊神(高木神)の娘としている[1]。『日本書紀』第一の一書では思兼命の妹、第六の一書では「また曰く」として高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)、第七の一書では「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子で玉依姫命というと記されている。天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。

佐那神社で手力男神を氏神として祀ったのは佐那氏でした。『古事記』は伊勢 の佐那造と伊勢の品遅部の祖として曙立王をあげています。曙立王は山代の荏 名津比売の子として三兄弟の中に生まれた。父は倭国の丸邇ワニ氏出身です。つ まり山代国の曙立王が伊勢国の佐那造と品遅部の女に兒を生ませたから、彼ら の祖となったということです。おそらく佐那造は品遅部を掌管したのでしょう。

元伊勢内宮 皇大神社
(御祭神)天照皇大神
(御由緒)
 人皇第十代崇神天皇三十九年(紀元前五十九年)に 「別に大宮地を求めて鎮め奉れ」との皇大神の御教えに 従い、永遠にお祀りする聖地を求め、皇女豊鋤入姫命 御杖代となり給い、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑 を出御されたのが、いま(平成二年)を去る二千四十九 年の遥か昔であった。そして、まず最初にはるばると 丹波(のちに分国、当地方は丹後となる)へ御遷幸にな り、その由緒により当社が創建されたと伝えられている。 皇大神は四年ののち倭へおかえりになり、諸所(二十余 か所)を圣て、五十四年後の人皇第十一代垂仁天皇二十 六年に、伊勢の五十鈴川上(いまの伊勢神宮)に永遠に 御鎮座になった。
 しかし、天照皇大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、ひ き続いて当社を伊勢神宮の元宮として「元伊勢(内宮) さん」などと呼び親しみ、いまに至るも庶民の篤い信仰 が続いている。
-境内由緒書-

社伝によると、崇神天皇三十九年、豊鋤入姫が天照大神の神教により神器・八咫鏡を奉じて倭国笠縫邑を発し但波国吉佐宮に還幸し、四年間天照大神を奉斎した。当社は、その吉佐宮跡とされ、古来、元伊勢内宮と称され広く崇敬された神社で、日室岳を神体山とする古社。
享保二十年(1735)の『丹後国加佐郡旧語集』には当所の天照太神は大和国より遷されたとあり、その後、伊勢国高間原へ遷宮されたと記されている。

境内社社殿の大きさ・規模を見ると栲機千千姫神社、天手力雄神社、熊野神社、興玉神社は別格のようで、燈籠・秋葉神社も別にして、七十九末社ということだろうか。また『神社名鑑』には末社八十一社とある。

豊受大神宮 外宮
祭神 豊受大神
相殿
日子番能邇邇芸尊 天児屋根命 天太玉命
別宮
多賀之宮
土之宮
月宮
風宮

境内中央に拝殿があり、後方に茅葺神明造の本殿。拝殿の左右には、別宮の多賀之宮と土之宮が祀られている

境内中央に拝殿があり、後方に茅葺神明造の本殿。拝殿の左右には、別宮の多賀之宮と土之宮が祀られている。
社殿後方には、別宮の月宮と風宮。

四社の別宮と、三十七の末社(合計四十一境内社)がある。

創祀年代は崇神天皇の御代。天照大神が倭国笠縫邑から当地へ還幸の際に創祀されたという。
旧号を与佐宮と称し、御山を比沼の真名井ヶ原と呼ぶ。
伊勢外宮の縁起を伝える延暦二十三年(804)の『止由気宮儀式帳』によると伊勢外宮は、丹波国比治真奈井に鎮座する豊受大神を遷座したものとある。

鎌倉時代の『神道五部書』によると伊勢外宮の御饌都神(豊受大神)は、天御中主神・国常立神と同神で、雄略天皇二十一年、倭姫命に天照大神の神託があり丹波国与佐宮に祀られている豊受大神を伊勢山田原に迎えたもの。

大和国笠縫邑

「古事記」が全く語ろうとしない天照大神の社が立つ「倭の笠縫邑」はどこに在ったのか。古来、正確な位置は「不詳」とされながらも磯城郡田原本町新木(にき)、桜井市笠、桜井市三輪などがある。
「笠縫」という言葉ですが「かさぬい」は神々の物語の中で度々使われており、例えば日本書紀神代下『第九段』の一書第二では高皇産霊尊の大物主への言葉に続けて、

  

すなわち紀国の忌部の遠祖、手置帆負神を以て、定めて作笠者(かさぬい)とす。彦狭知神を作楯者(たてぬい)とす。
  天目一箇神を作金者(かなたくみ)とす。天日鷲神を作木綿者(ゆふつくり)とす。櫛明玉神を作玉者(たますり)とす。

天日鷲神の祖『斎部宿禰本系帳』

神魂命--角凝魂命--伊佐布魂命--天底立命--天背男命--天日鷲命
と続く家系であることが分かっています。

日本書紀の神代下第九段一書第二には高皇産霊尊が天孫に国を譲った大己貴神に対して「汝は神事を治すべし」と宣言した後「住むべき天日隅宮の柱は高く太く、板は広く厚くする。御田も作る。海で遊ぶための高い橋、水上に浮かべる橋そして天鳥船も作ってあげる。また天の安河に掛ける取り外しの出来る打橋も作ろう。更には百八十縫の白楯も提供する」と最大限の申し出を行っていた様子が克明に描写されています。

出雲国風土記は、
  

楯縫と号くる所以は、神魂命、詔りたまいしく『五十足る天の日栖の宮の縦横の御量(みはかり)は、千尋のたく縄持ちて、百結び結び、八十結び結び下げて、
  この天の御量持ちて、天の下造らしし大神の宮を作り奉れ』と詔りたまいて、御子、天の御鳥命を楯部として天下し給いき。

伊射奈岐神社

祭神:伊射奈美命 天兒屋根命 手力雄命 天忍熊根命 蛭子命   
説  明:由緒書を転載します。       「当社は延喜式内社で、延喜式神明帳に、摂津国島下郡、伊射奈岐神社二座云々とあ り一座がこの神社であって、千里丘陵の中間で万国博会場になった地域に隣接する 高庭山に鎮座している。爾来、皇大神御霊と共に内裏に奉斎されていた豊受大御神 の御霊が崇神天皇の御宇、皇居を離れさせられ、後に丹波国与謝郡(現在福知山市)の比治真名井に遷し奉られたが人皇二十二代雄略天皇即位二十二年、皇大神の御神誨により現在の伊勢市山田、高倉山麓の山田ケ原に遷座し奉られたとき、伊勢斎宮皇女倭姫の御示教により、大佐々之命が、五柱の神を奉祀するべき霊地を諸国にもとめ、ついにこの山田の地に奉祀せられたと云う。 又山田と云う地名がこの様な処から山田原と称し、伊勢山田から名を移したのであると伝えられている。        俗に姫神社とも称し、貞観元年正月、従五位上を授けられ(三代実録、貞観元年正 月の条に『二十七日甲申京畿七道諸神進階及新叙惣二六七社云々、奉授摂津国従五 位、伊射奈岐神従五位上』)同十五年、社宮と改称されたと云う。        延喜の制に小社に列し、明治六年郷社、祈年月次新嘗の案上に預った名祠である。俗に五社宮、姫宮とも称し山田町、千里丘、千里ニュータウンを含む産土大神であ る。」
住所:大阪府吹田市山田東2-3-1

籠神社奥宮 真名井神社
京都府宮津市中野
磐座主座(上宮)
豊受大神(亦名天御中主神・国常立尊)
相  殿
罔象女命・彦火火出見尊・神代五大神
磐座西座(日之小宮) 天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神
祝  部  海部氏

広陵町
広陵町の小字(こあざ)は「笠神」であり、讃岐神社(広陵町)と笠神との間には「笠」なる村が存在し、古語拾遺の「崇神天皇」条に登場する笠縫邑(かさぬいのむら)と共に、讃岐忌部氏との関係が示唆される。 …
後年この間に天降りした大国主命(おおくにぬしのみこと)の笠縫として仕えたとされる。
摂社の檜原神社は天照大神をはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、元伊勢の一つとなっている

 桧原神社は、万葉集などに「三輪の檜原」と数多くの歌が詠まれた台地の上にある。大和国中が一望できる絶好の場所に位置し、眼下に箸墓の森が見え、二上山の姿も美しい。 かってこの付近は大和の笠縫邑と呼ばれた。そのため境内には「皇大神宮倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)」と書いた大きな石碑が立っている。

 檜原台地に建つ桧原神社は、大神神社付近の摂社群の中では、最も北に位置している上に社格も最も高く創建も古い。天照大神が伊勢神宮に鎮座する前に、宮中からこの地に遷され、この地で祭祀されていた時代がある。伊勢神宮へ遷されると、その神蹟を尊崇して、檜原神社として引き続き天照大神を祀ってきた。そのため、この神社は広く「元伊勢」の名で親しまれている。

笠縫は「神浅茅原」であり、これに因む茅原の地名がある。

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