孔子(紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日)
仁と礼に基づく理想社会の実現
孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった
孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。
山東省曲阜市には孔廟、孔林、そして孔府(旧称・衍聖公府)がある。(いわゆる三孔)。第46代孔宗願から、第77代孔徳成に至るまで直系の子孫は孔府に住んでいた。
なお、孔徳成は中華人民共和国の成立に伴い、1949年に台湾へ移住している。
『漢書』
倭に行きたいと言った孔子「然東夷天性柔順、異於三方之外、
故孔子悼道不行、設浮於海、
欲居九夷、有以也夫。
樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、説(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆえ)有るかな。楽浪海中に「倭人」あり、 分かれて百余国をなし、 歳時をもって来たりて献見すと云う。
論語
「子欲居九夷。或曰陋如之何。子曰。君子居之。何陋之有。 」
ああああ
孔子が(道義の廃れた国を厭うて)九夷(国)に住みたいと言った。ある人が、九夷は陋だがどうでしょうかと言うと、孔子は、君子が居る国なのだから、君子に対して従順な民を陋として問題視することはできないと応えた。 –
論語子罕第九
漢文
子曰、道不行、乘桴浮于海、從我者其由也與、子路聞之喜、子曰、由也、好勇過我、無所取材。
書き下し文
子曰わく、道行なわれず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従わん者は、其(そ)れ由(ゆう)なるか。子路(しろ)これを聞きて喜ぶ。子曰わく、由や、勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所なからん。
英訳文
Confucius said, “The country is not in order. I’d rather go abroad on a raft. I would be accompanied by Zi Lu, if I went.” Zi Lu were pleased. Confucius said, “Zi Lu, you are more courageous than me. But how do you get lumber?”
現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「天下は秩序乱れて私の理想に程遠い、もう筏(いかだ)にのって海外にでもいこうか。もし行くとしたら、私に付いて来るのは子路(しろ)だろうな。」
子路はこれを聞いて喜びました。孔子はさらにおっしゃいました、
「お前の勇気は私以上だが、筏の材料はどうするのだ?」
大阪府柏原市国分市場の茶臼山古墳出土の海東鏡の
「吾作明竟真大好浮由 天下四海用青同至海東」
浮遊天下
孔子が『論語』で述べた有名な句「子曰く、道行はれずば、桴に乗じて海に浮かばん。我に従う者は、其れ由か。」に対応しています。中国で礼が失われる。孔子が「礼」という場合はただ礼儀のことではなく、周の王室を中心にした大義名分を指すのですが、諸侯は私がいくらその事を言っても聞かない。孔子は絶望しかけている。礼が失われたら、もう中国に私がいる理由はない。東の海に浮かんで中国を離れたい。「由」は孔子の高弟・仲由、字(あざな)は子路のことです。
孔子の弟子の中にはいろいろ居ますが、率直で大胆な元気いっぱいの若者。孔子が亡命者になって、中国を離れたい。そこまで言ったら、付いてくる者はほとんど居ないだろう。いろいろな弟子がいるが、私と一緒に行ってくれるのは、子路(由)、お前ぐらいだろう。お前ぐらいは付いて来てくれるだろう。そう言っている。弟子の子路は喜んだでしょうが。先生は俺をそれぐらい信用してくれている。しかしその後がいけない。「無所取材 材を取るところなし」海に浮かぶためには筏(いかだ)を浮かべねばならない。お前は筏を調達する才能に欠ける。筏を調達するのに、どれくらい才能がいるか分かりませんが、どうも子路は緻密に計画を立てて、それを実行する才能に欠けていたようだ。とにかく元気いっぱいの弟子と思われる子路を持ち上げたり下げたりしている面白い故事がある。とにかく孔子が筏(いかだ)で東に行こう。そう言ったときに出てきたのが由(子路)です。「浮遊」でなく、「浮由」としたのは偶然の一致ではない。当然鏡造師であっても論語を読んでいます。それをバックにして、孔子は願っただけで行かなかったが、私は孔子の願いを実行して東の海に浮かんだ。そういう故事を踏まえた銘文です。
春秋時代の中国の思想家、儒家の始祖。
氏名は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。
孔子とは尊称である(子は先生という意味)。
ヨーロッパではラテン語化された”Confucius”(孔夫子の音訳)の名で知られている。
実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれる。
周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。
3500人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。
すなわち、
徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、
言語に宰我・子貢、
政事に冉有・子路、
文学(学問のこと)に子游・子夏
である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。
孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。
紀元前479年に孔子は74歳で没し曲阜の城北の泗水のほとりに葬られた。前漢の史家司馬遷は、その功績を王に値すると評価し、「孔子世家」とその弟子たちの伝記「仲尼弟子列伝」を著した。儒教では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。
国分神社(大阪府)蔵の海東鏡 徐州・洛陽鏡 青蓋鏡 三角縁神獣鏡の史料批判 –三角縁人獣鏡論 古田武彦 『新・古代学』第5集 新泉社
一
わが国出土の、いわゆる「三角縁神獣鏡」の中の代表をなすとされてきた秀逸鏡として、国分神社(大阪府)蔵の「海東鏡」(写真13)と「徐州・洛陽鏡」が存在する。
「海東鏡」の銘文は左のようである。
A 方格内(右回り)
「君宜高官」
B 銘帯(左回り)
「吾作明竟真大好浮由天下□(敖?)四海用青同至海東」
右には二種類の「主格」が現われている。一は「君」(A)であり、他は「吾」(B)である。それぞれ文頭にあり、まぎれようがない。
「君」の方は「高官に宜よろし」という述語部分が示すように、「豪族、地方権力者の位置にある人」に対する用法である。
これに対し、「吾」の方は「明竟(鏡)を作る」という述語部分が示すように、「鋳鏡者」すなわち「鏡師」の自称である。当鏡の製作者である。
彼はさらに、みずからの「経歴」を述べる。文字通り、“経へてきたところ、歴巡してきたところ”の叙述である。「天下を浮由し」の「浮由」の二字は、この作鏡者の学的素養を示している(通例は「浮遊」)。
子曰、道不行、乗桴浮於海、従我者其由与
論語、第五、公冶長篇
孔子は弟子の由(子路)をつれて海上に浮かび、東方の地(九夷。日本列島はその中の島夷に属す)へ向かうことを夢み、果たせなかった。これに対し、わたし(「吾」。鋳鏡者)は弟子と共に(中国から)出て天下を巡ることとなった、と述べているのである。従来は、この有名な論語の一節との“対応”が必ずしも注意されていなかったようである。
「四海に□(赦、あそび)」は、右の一句の敷衍である。
これも
子欲居九夷(子、九夷に居らんことを欲す。)
論語、第九、子罕篇
が背景にあるであろう。「九夷」の居するところ、それが「四海」だからである。
漢代、儒教は「国教」とされ、一般に流布されていたから、鋳鏡者といえども、その「作文」のさい、『論語』の著名の文節が背景にありと見なすこと、何の不自然も存在しないのである。「浮由」「四海」共に、この鋳鏡者が「孔子の国外(東方)脱出願望」に対し、深い関心をもっていたことを示している。
「青同(銅)を用もって」の「用」字は「もって」以に同じ。
用、以也(一切経者義七、蒼頡篇)