県神社は『延喜式祝詞』の「御県に坐す皇神等の前に曰さく、高市、葛木、十市、志貴、山辺、曽布と御名は曰して、この六つの御県に生り出づる、甘菜・辛菜を持ち参ゐり来て、皇御孫の命の長御膳の遠御膳と聞こしめすが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称辞竟へまつらく」とあるように大和には六つの御県があって朝廷への菜を調進し、御県神が祀られていた。
まずは、祭神のみ記す。
添御県坐神社
祭神 速須佐之男命 配祀 櫛稻田姫命、武乳速命
武乳速命は津速玉命の御子で、添の御県地の祖神と言う
志貴坐御県神社 大己貴神
葛城御県神社 劔根命 (合祀)天津日高日子番能瓊瓊杵命
劔根命は『新撰姓氏録』には、高御魂命の五世孫の劔根命の名が登場し、劔根命之後也として大和国神別に葛木忌寸、河内国神別に葛木直、和泉国神別の荒田直が出てくる。
高市御県神社 天津彦根命,高皇産霊神
十市御縣坐神社 豐受大神 配 市杵嶋姫命社伝では十市県主の祖大目
久米御県神社 高皇産霊命、大來目命、天櫛根命。
天櫛根命は、久米氏の祖神・遠祖? 大来目命は、古事記に出ている。
大己貴神と高皇産霊命が目立ちます。
古事記では天津日子根命、日本書紀では天津彦根命と書かれている神です。生んだのは、スサノオですが、天照大神の子供という表現が使われています。そして、古事記では、小さな字で
河内国造・額田部湯坐連・茨城国造・大和田中直・山城国造・馬来田国造・道尻岐閇国造・周防国造・大和淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造
らの祖神でありますよと念を押しています。
県主一覧表
畿内
倭(大和) 菟田県主 春日県主 猛田県主 曾布県主 山辺県主 十市県主 高市県主 志貴県主 葛木県主
凡河内(河内・和泉・摂津) 三野県主 茅渟県主 猪名県主 志幾県主 河内県主 紺口県主 三嶋県主
山背(山城) 栗隈県主 鴨県主(山背)
東海道
伊勢(伊勢・伊賀) 佐那県主 度逢県主
尾張 [編集] 年魚市県主 丹羽県主
東山道
美濃 鴨県主(美濃)
高市御県神社
奈良県橿原市四条町761
【祭神】天津彦根命 高皇産霊神
【由緒】創始は明確にしえない
大同年間「高市御縣神社神封二戸」『新抄格勅符抄』
貞観元年(859)正月27日従五位上『三代実録』
【祭祀対象】御県
【祭祀】江戸時代は「高県宮」と称す
近世に苔の宮・高県(こけ)の宮・高木(こうき)の宮と称する
奈良国際交流センター西隣、今井まちなみ交流センター南隣に鎮座する。里中の全くの小社。大和の六か所の御県神社の一である。
本社は元は天津彦根命の一座であり、後に高皇産霊神を別社に奉齋したのを、後代社頭の衰微すると共に本社祭神に混入したものであると思われている。御神体は紙幣と言われている。
葛城御県神社
奈良県葛城市葛木68
【祭神】劔根命 (合祀)天津日高日子番能瓊瓊杵命
劔根命を主祭神とし、天津日高日子番能瓊瓊杵命を配祀する。ただし、元々の祭神は天津日高日子番能瓊瓊杵命であり、劔根命は明治5年に祀られたものである。劔根命は、日本書紀に神武東征の論功行賞により葛城国造に任じられたと記される人物である。
【社格】旧村社
【由緒】創立年代不詳
貞観元年正月27日從五位上
大同元年(806)「葛木御縣神二戸備前」『新抄格勅符抄』
正平15年(1360)兵火
正平24年〈1369〉再建
明治6年(1874)村社
【関係氏族】葛木氏
【鎮座地】延宝8年(1680)八月埴口陵(飯豊天皇ノ山陵)に合祀される
元治元年(1864)9月分離、独立して旧地に鎭座
人家密集のため、旧社地の西100mの現在地に境内地を定め鎮座された
新庄中学の東、平地の神社。
旧桑海村の鎮守として現地より東100mにあった。延宝8年(1680)領主が三才山に諸鍬神社を移した祭当社も同所へ合祀される。元治元年(1864)三才山を飯豊青皇女の墓として修理することとなり、明治2年(1869)当社も式内社として復祀され、旧地に遷すことになったが、旧地には西光寺があったため現地に遷。
この地は大和国に六ヵ所(高市、葛木、十市、志貴、山辺、曾布)ある御縣の一つである。何時頃からか、境内に八王山西光寺が立てられ、神社は衰微し、一小社を留めるのみの有様になつた。明治五年までは、天津日高日子番能瓊々杵命一座であつた。劔根命は葛木氏の祖として祀つたものであろうか
『新撰姓氏録』には、高御魂命の五世孫の劔根命の名が登場し、劔根命之後也として大和国神別に葛木忌寸、河内国神別に葛木直、和泉国神別の荒田直が出てくる。 また、未定雑姓右京に大辛、天押立命四世孫劔根命之後也とある。
高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命-剣根命-夜麻都俾命-久多美命
神代本紀「天神立命、山城久我直等祖」とあるが、神立命は摂津雑姓に「葛城直、天神立命之後者、不見」とあり、河内神別に「役直、高御魂命孫天神(○ 一作押)立命後也」とあって、葛城国造の系である。(高群逸枝「母系制の研究」)
古代の大和国忍海郡の地であり、葛木御県神社(葛木)・葛木坐火雷神社(笛吹)・角刺神社(忍海)などの延喜式内社を残す。また謎の女王・飯豊青尊の忍海角刺宮の伝承地で、北花内には飯豊天皇陵とされる前方後円墳がある。
十市御県坐神社
奈良県橿原市十市町1
【祭神】豊受大神 (配祀)市杵嶋姫命
『五郡神社神名帳大略注解』草神野雷命『特選神名牒』豊宇気毘売神
【由緒】創建年代は不明
天平2年(730)十市御縣神戸『大和国大税帳』
大同元年(806)神封二戸が給された『新抄格勅符抄』
貞観元(859)年正月27日従五位上『三代実録』
【関係氏族】十市県主 、この地は大和の六御県のひとつ
【境内社】玉津島神社・八幡神社・五社神社・八坂神社・金刀比羅神
御神徳 豊受大神は,天照皇大御神に対して御饌都神として食物を司ります。
神代に於いて,陸田種子,水田種子,蚕種子を創められ,国民にこの道を開かせ賜りし皇大神の御饌都神であらせられ,私たちの衣食住をはじめとして広く産業を御守護下さる御祭神で御神徳は普く国民の仰ぎ奉るところであります。市杵島姫命は厳島神社として元磯城郡耳成村大字十市字上ケ田(現十市町)に鎮座,大正5年9月3日本社に合祀される。
寺川の北岸、橿原市福祉センターの西に鎮座する。
北側には巾2m余の堀割があり、清流が道に沿って西流している
この地は大和の六御県の一つで古くより皇室の御料地であった。
この地は十市県と称する前を春日県と称したとし、その県主である春日県主の女は綏靖天皇の妃となっており、古くよりの皇室との密接な関係が察せられ、神社の創建も建国當初にまで遡るものであろう。
この地は十市県主本貫地とし、中世から戦国期にかけて十市氏の本処は現代の十市集落であり、氏神としての本社に対する崇敬は厚かつたものと見られる。
南北朝の対立以降大和武士団の一つとして十市氏がこの地で勢力をふるっていた。中世末には神宮寺東樂寺が存していた。
十市氏は綏靖に后妃を出している。これを鑑みるに十市氏は神武の建国からわずかにおくれて登場した。綏靖がその女を娶って考霊・考元を生んだ。この間神武の治世は六年、綏靖は九年とみられ、またこの間に手研の治世三年があったとしよう。前後十八年である。
しかし綏靖が十市女を娶るのは、神武と手研耳の時代すなわち綏靖治世の前からであろう。即位後であればその後のわずかの間である。即位以前に娶っていれば、神武の時代とは一〇年を降らないことになる。すなわち一世代の違いはない。この間磯城氏の宗家葉江はいわば国を統べていた。神武から綏靖・安寧・愨徳のおよそ二〇年余の期間とみられる。
したがって十市氏は、磯城に弟磯城黒速が威をはった同時代に、その西部一帯にいわば急速に覇権をうちたてていったものと思われる。後の十市郡がこの時に出来ていれば、その版図の巨大さは磯城のそれにも比肩する。そしてこの勢力を指導した人物もまた、葉江はもとより、神武・綏靖とも同世代なのである。黒速とも饒速日ともまた長髓彦とも同じ世代であった。
版図
十市県が古代の十市郡十市郷の十市御県坐神社を中心とした勢力であったことは異論がない。現在の橿原市十市町で、その十市御県坐神社も十市町の東寄に現存する。橿原市としては最東北に位置し、北部一帯は古代の城下郡とみられ、現在は磯城郡田原本町である。
田原本町は十市町の西側で一部南に入りこむが、そこが多町である。かっては多郷も十市郡のうちであった。つまり十市町は多町と東西に隣接して並ぶ。いずれもかっての十市郡の最北西端である。ここを十市県の中心とすれば、そのひろがる範囲は極めて変則的であった
十市郡はこれと違って複雑な範囲と形状をもつ。磯城郡田原本町と橿原市東北部から発して西南を帯状に伸び、香久山・桜井・安倍・多武峰までを含むのである。現在の磯城郡・櫻井市・橿原市の一部・宇陀郡の一部である。
十市の範囲は磐余の地を含んでいた。
古代にあってはもっとおおまかであるから現在の地名では簡単に比定しにくい。ただ十市御県坐神社は古来そこにあって移動は記録されないから、十市の中心がそこにあったことは間違いないであろう。したがってこの変形な版図は、一に十市県主の主体的な商業活動の結果生み出されたものである。拠点を結んでいったとみるのが穏当であろう。
十市はもともと「遠地」または「遠市」で磯城の地または磯城の大市に対してそういったのではないかと思う。大市は箸墓が大市墓とよばれることからも、纒向の中心地にあったらしいことが知られる。
十市県主から十市首・十市宿禰・中原宿禰と名を替え、その後は十市中原とも称しながら戦国時代に至る。祖先伝承は中原氏系図などでは、安寧第三子磯城津彦の後裔ということで一致している。
天神本紀に、饒速日降臨の際に「五部人を副えて従と為し、天降り供奉す。その一、十市部首等祖・富富侶」と書くことである。富富侶は多・大・飫富に似るが、十市氏の係累に後の多氏が入っていることを示唆し、河内の志紀県主ともかかわるようである。
現在の橿原市十市町と磯城郡田原本町多とは隣接し、互いの神社は二キロと離れていない
神功皇后は大目命とある
十市県坐神社の始祖は大目と社伝にある。
ホツマツタエでは磯城県主に大目があるので、十市県の主となったのであろう。
大目。磯城県主。
孝霊天皇の内宮・ホソ姫の父。
磯城の県主は、代々クロハヤの子孫が継いできているから、ナガハヱの子と考えるのが順当だが、アマタラシヒコクニが春日親君となるに伴って、色々変化が生じているかもしれない。
奈良県橿原市十市町、十市御縣坐 (トイチノミアガタニマス) 神社。
★十市県主について、八一五年に編まれた『新撰姓氏録』は、十市県主と同族の中原系図において、十市県主は、磯城県主から分れた旨を記載する。十市県主が、大目の後に磯城県主から別れたのであれば、大目が、磯城県主であり、十市県主の祖であっても矛盾はない。中原系図によれば磯城津彦の後を十市県主とする。そして、先程述べたように磯城津彦と磯城津彦の子の和知都見は磯城県主であったと思われる。したがって、磯城県主であり、十市県主の祖である大目は、磯城津彦の子の和知都見を指すものと思われる。
十市氏系図
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十市氏 大王氏
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事代主命
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鴨王命 神武
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大日諸命(春日県主・武研貴彦友背命) 綏靖
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大間宿禰(春日県主) 安寧
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春日日子(春日県主) 愨徳
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豊秋狭太彦 考昭
| |
五十坂彦(十市県主)考昭時春日改称十市 考安
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大目彦(十市彦) 考霊
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倭彦(十市県主)中原連祖 考元
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志貴御県坐神社
奈良県桜井市金屋896
【祭神】大己貴命
『神道大辞典』天津饒速日命
『大和志料』「御県の霊」
【社格】旧村社 大和国の六つの御県の一つ
【由緒】天平2年(730)神戸の租を神祭料とした『正倉院文書』
大同元年(806)神封二戸『新抄格勅符抄』
貞観元年(859)従五位上『三代実録』
明治40年(1907)村社
【関係氏族】志貴県主
【境内社】春日神社・琴平神社・嚴島神社
初瀬街道の傍、金屋聚落の西北に位置する。崇神天皇の磯城瑞籬宮の伝承地で境内には石碑も立っている。南には海柘榴市(つばいち)がある。
拝殿に向かって右側に磐境、磐座がある。山辺の道からわずかに離れていて、境内に桧、カシ、楠、杉が多い。
大和国の六つの御県の一つで志貴御県の国魂神を、志貴県主が祭つていたものであろう。
磯城郡とくに城上郡の範囲は三輪・纒向・柳本から初瀬・朝倉・忍坂に至っているが、その中心は磯城御県坐神社の所在する三輪町金屋付近であり、地理的にも真中にあるといっていい。
磯城瑞籬宮跡
第10代、崇神天皇の宮跡と伝えられています。
神山・三輪山を背後に歌垣の伝で名高い海柘榴市を却下に控えて、大和平野を見渡す高燥の地です。東へは、泊瀬道、伊勢を経て東国へ。南へは、磐余道、飛鳥を通じて紀伊方面へ。北へは、山辺の道、奈良、京を経て北陸、日本海方面へ。西へは、大和川の水運を利用して難波、瀬戸内海方面に繋がる交通の要衝です。古代大和王権、発展の拠点であったとも言える場所です。
社頭掲示板
後世の磯城の地には、三輪氏と磯城県主家が残っていたが、三輪氏は河内出自の大田田根子の後裔、磯城県主家もまた後述するように磯城の葉江宗家の後ではなく饒速日氏の後裔であった。
大神神社(境内?)から東南
日向神社・志貴御県坐神社は神社というよりは崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)があったであろう場所としての方がわかりやすい
ご祭神は一応現在はオオナムチとありますが諸説あります
磯城郡史などでは天津饒速日命(アマツニギハヤヒノミコト)とあったりします
大和志料には御県(ミアガタ)の霊とあります
神武天皇が東征したときに出てくる大和の豪族に兄磯城(エシキ)・弟磯城(オトシキ)がいてまして日本書紀(神武紀)に「弟磯城・名は黒速(クロハヤ)を磯城県主とす」
旧事本紀(国造本紀)に「志貴県主の兄磯城を誅(つみな)ふ 弟磯城を以て志貴県主と為(な)す」
旧事本紀天孫本紀には、物部祖伊香色雄が磯城の女真鳥媛を娶って一子を生んだとある。それがその後を伝世した磯城県主家である。後世の磯城県主家も饒速日の後裔を標榜している。
さらに河内にも志紀県主があった。志紀郡にて志貴御県坐神社を祀る。これもしかしその祖を磯城県主とするのではない。大田田根子とするのでもない。祖を多氏とおなじく神八井とする。
日本書紀や先代旧事本紀(天皇本紀)などによると、稲背入彦命の母親は「五十河媛」であり、継体帝に妃を出している茨田連の祖は「五十香彦命」という別名を持っていた様なのですが、ここに出てくる「イカ」は、物部氏の祖先「伊香色雄命」の「イカ」に通じる美称であり、また祖先神「五十猛命」の「イ」をも包含した名辞だと言えます。つまり天孫族にとってある意味神聖な名称のはずなのですが、日本書紀の孝安二十六年春二月条には、
己丑の朔壬寅に、姪押媛を立てて皇后とす。一に云わく、磯城県主葉江が女長媛という。一に云わく、十市県主五十坂彦が女五十坂媛という。
とあります。説明を加えるまでも無く磯城県主・十市県主は大物主命・事代主命の直系子孫ですから、その名前に「五十」を冠している事は極めて不自然に映ります。本文の「姪」(古事記にも『姪、忍鹿比売命』とある)とも全く異なる「一書」は吉備氏あるいは磯城氏の伝承から採ったものだと考えられますが、孝安と押媛の長男が大吉備諸進命であり、次代の孝霊と倭国香媛の子が吉備津彦命という系譜からも吉備氏と磯城氏の深いつながりが窺えます。又、名前にこだわれば吉備津彦命の諱は「彦五十狭芹彦」(彦イサセリ)だったようですから、十市氏の娘婿に入った吉備氏の男子が居た可能性も十分あるでしょう。
山辺御県坐神社
奈良県天理市別所町726
【祭神】建麻利尼命
『寺社明細帳』『信友・延経の神名帳考証』建麻利尼命
『大和志料山辺郡誌』山辺御県神
『特選神名牒』豊宇気比売
『神社要録』不詳
【社格】大和の六御県の一
【由緒】
六御県の記事は大化元年(645)紀が初見
天平2年(730)山辺御県神戸『大倭国正税帳』
大同元年(806)神封二戸『新抄格勅符抄』
貞観元年(859)従五位上
【祭祀】江戸時代は「玉垣宮」と称していた
【境内社】熊野神社・春日神社・菅原神社
別所集落の東方、山の辺小学校の西、尾崎山の南麓に位置する。
明治初年迄は本殿はなく、玉垣を設けて後方の尾崎山を御神体として奉齋し、俗に玉垣宮と称したと云う。明治13年頃、玉垣内を発掘した際に刀劔、金環等の残欠が出土した爲、発掘を中止してその上に本殿を造営したという。現在本殿の後方玉垣の外に磐座の遺址が保存され、齋宮と称している。
明治以前に当社を山辺御県坐神社と称した記録はなく、字名を県谷と称する事を論処としての推定である。北方100mには大塚を中心とした所謂北山千塚と呼ぶ大小古墳群があり、当社はこの古墳群中に存在する。
桑内ノ連の祖神 建麻利根命
建麻利根命(たてまりねのみこと)・・・垂仁天皇の皇后日葉酢媛命の石棺を 作り献じて、姓を石作大連とされました。
石作神社[いしつくり] 「建真利根命」石作連火明命六世孫
愛知県海部郡甚目寺町
由緒
当神社は延喜式神明帳延喜5年(905)尾張國中島の条、また國内神明帳に正四位 上石作天神と所載されている由緒正しい古社である。祭神は詳らかでないが(姓氏録 )に石作連火明命六世孫建真利根命で石工に関わる遠つ祖神であると伝えている。尓 来この氏神を祀る石作郷に居住し生活を営む人々と広く崇敬者らが連綿と幾世代に渉 り当代に至るまで神の御恵みに奉賛の祭事を捧げて来た神社である。ゆく先も、ここ の産土の大神と縁を結び地域社会の心の拠り所として生かされる喜びと御加護を只管 に祈りつづける吾が鎮守の神で在らせる。
垂仁天皇の后、日葉昨姫命が亡くなった時、石棺を献上し石作大連公の姓を賜ったとされている(火明命の六世孫、建真利根(たけまりね)命の後なり。垂仁天皇の御世に、皇后日葉酢媛命の奉ために、石棺を作りて献りき。よりて姓を石作大連公と賜ふなり)。
石作連を祀った石作神社は『延喜式』神明帳に記され、貞観元年従五位下に昇格している。『大日本史』に石作神社今灰方村大歳神社内にありと記され、石作氏衰微後、大歳神社に合祀さられたものである。
西京区大原野灰方町に鎮座する大歳神社は、乙訓郡式内社の大社であり、月次・新嘗の祭儀にも奉弊された神社である(社伝には、「代々石棺や石才を造っていた古代豪族の石作連が祖神を祀った」とされ、「石作連は火明命の子孫で、火明命は石作連の祖神という」と記されています)。主神に大歳神(大年神)を祀り、相殿に石作神・豊玉姫命を祭祀し、養老ニ年ニ月の創建という。旧乙訓の古社で、『和名類聚抄』にいう石作郷内にあり、式内石作神社の石作神を併祀しているのも見逃せない。
中田憲信編の『諸系譜』第二冊に記載の「飛騨三枝宿祢」系図や『皇胤志』に拠ると、鐸石別命の後裔は、吉備に残った磐梨別君のほか、東方に移遷して飛騨の三枝乃別や尾張の三野別・稲木乃別、大和の山辺君の祖となったとされる。これは、『古事記』の垂仁段の大中津日子命の子孫とも合致するが、大中津日子命は鐸石別命の別名である。尾張の三野別・稲木乃別は中島県に住み、後に稲木壬生公を出したとの記載も系図にあり、『姓氏録』には左京皇別に稲城壬生公をあげて、「垂仁天皇の皇子の鐸石別命より出づ」と見えるから符合する。中島郡に式内の見努神社(比定社不明で、論社に稲沢市平野天神社〔廃絶〕など)もあげられる。山辺君も、『姓氏録』には右京・摂津の皇別に山辺公をあげて「和気朝臣と同祖。大鐸和居命の後なり」と記される。
添御県坐神社
奈良県奈良市歌姫町999
祭神 速須佐之男命 配祀 櫛稻田姫命、武乳速命
祭神の武乳速命は津速玉命の御子で、添の御県地の祖神と言う。
天平2年(730)の大和国正税帳に記載有り
貞観元年(859)5月 從五位下から從五位上『三代実録』
古代以来、大和の国の中に添(そう)郡といわれる郡があり、古代の文書には「曽布」などとも記されましたが、 今の奈良市、生駒市や旧生駒郡、添上郡を含む地域に当ります。広大な郡で、人口も多くなったので後に 添上、添下(そえしも)の両郡にわかれました。当神社の場所は添下郡(現在の生駒郡)にあたります。
由緒
添上郡の同名の式内社に比定されている。論社は三碓町(みつがらす)の同名社であり、『大和志』は三碓町、『大和志料』は歌姫の当社、理由は三碓町は往時の鳥見庄にあり、鳥見の名は著名であり、よって鳥見御県神社とでも命名されていたのではないか、また鎮座地を御県山と言うことなどをあげている。
当神社は、大和平野中央を貫く古代の下つ道の北端に位置します。そして、大和から歌姫越えて諸国へ旅をする際に、国境に鎮座する手向けの神として尊崇されていました。万葉集に左大臣・長屋王の詠んだ次の歌があります。
佐保すぎて 寧楽の手向けに 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとぞ
この歌には、大和と山城の国境の神添御懸座神社を拝し、旅の安全を祈念したものと考えられます。
当神社は、格のある式内社・御県社の一つとしてだけでなく、農の神、旅の神として崇敬されてきました。江戸時代には「午頭天王社」「八王子社」として、除災・治病の神としても信仰されてきました。
飛鳥坐神社
事代主神(ことしろぬしのかみ)
飛鳥神奈備三日女神(あすかのかんなびみひめのかみ)
大物主神(おおものぬしのかみ)
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
創建の詳細・場所に関しては不明なるも、『旧事本記』に「大己貴神(中略)次娶坐辺津宮高津姫命、生一男一女、児都味歯八重事代主神、坐倭国高市郡高市社、亦云甘奈備飛鳥社」(大己貴神(大物主神)が高津宮命を娶り一男一女を儲け、その子事代主神を飛鳥社の神奈備に坐せて)とあり、また「出雲国造神賀詞」(奈良・平安期の出雲国造がその代替わりごとに朝廷に参向して奏上したもの)には、「賀夜奈流美命能御魂乎、飛鳥乃神奈備爾坐天」(賀夜奈流美命(飛鳥神奈備三日女神)の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて)とある。
『出雲國造神賀詞』には、
倭大物主櫛玉命を大御和の神奈備に、
阿遅須伎高孫根命を葛木神奈備に、
事代主命を宇奈提に、
賀夜奈流美命を飛鳥神奈備に坐して、
皇孫命の近き守り神とさせた、とあり、
大物主命・味鋤高彦神・事代主命・賀夜奈流美命の四座を合わせ祀ると思われる
すなわち大国主神が国土を天孫にお譲りになる際、わが子である事代主神を始めとする神々を天孫の守護神としてその神霊を祭らせた。その際に皇室守護の神として、事代主神とその妹神とされる賀夜奈流美命(飛鳥神奈備三日女神)の神霊を奉斎されたのが当社の起源とされる。
国譲りの神話では、建御雷神に国譲りを迫られた大国主命が子の事代主命に聞くように答えますが、その時事代主命は鳥遊、取魚をしていたと記述されており、またこの神は「八尋熊鰐(やひろのわに)に化為り、三島溝樴姫或いは云はく玉櫛姫といふに通いたまふ。而して児姫蹈鞴五十鈴姫命を生む。これを神日本磐余彦火火出見天皇の后となすなり」と日本書紀にある。
文献による当社の初見は、朱鳥元(686)年7月の『日本書紀』で
「奉幣 於居紀伊国国懸社 飛鳥四社 住吉大社」
とある。
これは天武天皇の病気平癒の祈願のため、国懸神社と住吉大社とともに幣帛が奉られたものである。平安期の書物『日本紀略』には天長6(829)年3月に「賀美郷甘奈備山飛鳥社同郡同郷鳥形山遷依神託也」とありこの時に現在地に遷座した。
室町初期の正平3(1348)年8月、後村上天皇より金五十枚を賜り、
中ノ社を再建したが、その後は足利氏にかなりの領地を没収され、明応期(1492-1501)には嗣子が幼年のため越知氏に併呑されて現在の社地となった。
江戸初期の寛永17(1640)年10月に初代高取藩主となった植村家政は、高取城の鬼門にあたる当社を深く信仰された。享保10(1725)年に
里からの火災により、この時の社殿の大半を焼失し、安永10(1781)年に高取藩8代藩主・植村家利によって再建された。
植村家利による再建から200年以上経過し本殿・拝殿が老朽化してきたことから、平成13(2001)年4月吉野の丹生川上神社上社が
大滝ダムの建設に伴い遷座するに際し、同上社を当地に移築し再建した。
なお当社には氏子がなく、崇神天皇に初代太宗直比古命が「飛鳥直(あすかあたい)」姓を賜って以来、飛鳥家が87代に亘りお護りしている。
宇奈太理坐高御魂神社
奈良市法華寺
【祭神】高御魂尊(中座)・天太玉命(東座)・思兼命(西座)
【境内社】天鈿女・猿田彦・手力雄・大宮媛・豊岩窓
【由緒】持統紀6年(692)12月に新羅国物を菟名足社に献納している
天平2年(730)12月『新抄格勅符抄』には「大和八戸・尾張五戸」あわせて十三戸の神戸とあり
貞観元年(859)4月10日法花寺薦枕高御産栖日神(当社)正三位
正暦2年(991)東大寺春日庄内に大社菟足社があり
寛弘9年(1012)3月の大和國今木荘坪付案に所在あり
弘安元年(1278)7月の仏餉田寄進状に「桜梅天神」
宝暦3年(1753)法華寺支配の一社で、社名を「桜梅天神」とする
明治維新に当つて、法華寺の支配を離れ、法華寺村住民を以て神官に宛てた
平城宮跡の東端に島状の叢林がこんもりと見える。本殿は室町期の重要文化財(重文) 武内宿祢の勧請と伝えられ「日本書紀」によると持統天皇6年(692)2月には新羅の調を伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足の五社に奉るとある。その一社で、この神社の神戸は正倉院文書の天平2年(730)大和税帳新抄格勅符抄に載っているが、何れも神名は菟名足となっている。江戸時代には楊梅神社と呼ばれていた。
この地は楊梅宮が造営された東院の地とされており、当社は東院が使用されなくなった平安遷都以降に勧請されたと思われるが、それが何時の時代かははっきりしない。
平群坐紀氏神社(名神大 月次/新嘗)大和国 平群郡鎮座
奈良県生駒郡平群町上庄3
【祭神】都久宿祢 天児屋根命
『神社覈録』に「祭神紀直祖歟」
『大和志料』には「祭神詳ナラズ」
『神名帳考証』に「紀武内宿禰命」
【社格】旧村社
【由緒】貞観12年(870)4月23日「紀氏神地」『平安遺文』
明治6年(1873)村社に列す
【鎮座地】貞観の頃、紀氏神地は「平群東條一、平群里十三、十四両坪の南」
に接していたから、現在の社の東南ではないか。社地が椿井にあったとの記録もあり、そこから現在地に移された可能性もある当社は元々、現在地より2kmほど南の「椿井」にあったものと見られている。
【祭祀対象】紀氏の祖神
【祭祀】中世に天児屋根命を勧請して春日社と称した
【境内社】春日神社
龍田川東側の丘尾にある。遠くからでもこんもりとした大きい鎮守の杜と背丈の低い鳥居が見える。
紀船守が祖先である平群木菟宿根を祭神として祀ったのがはじまりとされる。
中世に「天児屋根命」を春日大明神として祀り、近世には天照皇大神と八幡大菩薩を祀った。俗称「辻の宮、又椿の宮」である
社名からしても本来は紀氏がその祖神を祭祀したものであろう。
村人の伝承によれば、当社より100mの通称「カライケ」の上にあつた社を合祠したものではないかという。
龍田坐天御柱国御柱神社二座(並名神大 月次/新嘗) 大和国 平群郡鎮座
龍田大社
奈良県生駒郡三郷町立野南
【祭神】天御柱命 国御柱命
級長津彦命、級長戸辺命 『神社覈録』
【社格】旧官幣大社 二十二社の制
【由緒】天武天皇4年(676)4月癸未「祠風神于龍田立野」『日本書紀』
天平2年(730)「龍田神戸」
宝亀9年(778)風雨調和のため遣使『続日本紀』
大同元年(806)「龍田神三戸」『新抄格勅符抄』
承和10年(843)4月遣使『続日本後紀』
嘉祥3年(850)7月丙申従五位下『文徳実録』
仁壽2年(852)7月従四位下『文徳実録』
貞観元年(859)正月27日 正三位『三大実録』
仁和3年(887)龍田祭に奉幣
文禄4年(1595)11月5日 龍田大明神日供米拾貮石
慶長7年(1602)2月12日 片桐且元「前同額」
明治4年(1871)5月14日 官幣大社
【祭祀対象】風神
御殿(向つて左)が天御柱命、二の御殿(向つて右)が国御柱命を祀る
拝殿・神輿庫・社務所
【境内社】龍田比売神社・龍田比古神社・龍田恵美須神社・枚岡神社・白龍神社 神奈備神社・天満宮・春日神社・住吉神社・三室稲荷神社・高望王社 皇太神社・岩瀬杜・下照神社
「千早ぶる 神代も聞かず 龍田川 唐くれないに 水くぐるとは」の龍田川は、この神社の前を流れる大和川の一部分の旧称である。祭神は別名を竜田明神又は龍田風神という。崇神天皇の夢にこの神が出現し創立と伝える。
『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。広い社地。丘の頂にあり。
天武天皇は十九回に亘つて遣使し、持統天皇もまた十六回遣使奉幣をされている
古の龍田川は今の大和川で大和平野の諸川を集めて成れる河にして当地立野の里を流れる流域の沿岸に楓樹多く下流の亀瀬まで約五、六粁を世人が龍田川と称し紅葉の名所と謡はれておりました。
広瀬神社
祭神 主神 宇加能売命。相殿 櫛玉命 。穂雷命。
【境内社】稻荷社、祖霊社、祓戸社、絵馬舎、水分社、八神殿、饒速比女命社
主神若宇加能売命は、別名を、豊宇気比売大神(伊勢外宮)宇加之御魂神
【社格】旧官幣大社 二十二社の内の中七社の一社
【由緒】崇神天皇の9年広瀬の河合の里長に大神の御託宣で社殿を建
白鳳4年4月10日大忌神を広瀬の河曲に祭る
弘仁13年(822)8月3日 従五位
永保元年(1081)7月10日 正一位
永正3年(1506)に兵火焼失
天正年間(1573~92)豊臣秀長により社領没収
稲荷神社 広瀬大忌神とも呼ばれ、総て同神である。龍田風神(龍田大社)と深いご縁がある
神徳 広瀬神社の鎮座地は日本書紀に「広瀬乃河曲」、延喜式祝詞には「広瀬乃川合」ときされており佐保川は初瀬川飛鳥川曽我川葛城川高田川等大和盆地を流れる総ての河川が一点に合流する地に祀られていることから、御主神は水の守り神で山谷の悪水を良水に変え河川の氾濫を防ぐ神であり風雨を調和し苗稼を浸潤して、五穀の豊穰を守ることから朝廷を始め万民の食物を守る御膳神である。又広瀬は、屋船豊受姫神ともよび家屋を鎮め奉る宅神で養蚕をも守る神として古来より崇敬が厚い。五穀豊穣、水難鎮護、産業興隆、河川交通安全、安産、除災招福等、多方面に渡る御神徳がある。
創建 崇神天皇九年(前八九年)、広瀬の河合の里長に御神たくがあり、一夜で沼地が陸地に変化し橘が数多く生えた事が天皇に伝わり、この地に社殿を建てまつられれる様になる(当社延喜)。日本書紀天武天皇四年四月十日(六七五年)には、小錦中間人連大蓋を遣わし、大山中曾根連韓犬を斉主として、大忌神を広瀬の河曲に祭られた事が記されていて、これが毎年四月四日に行われた大忌祭の始まりと伝えられる。
讃岐神社 大和国 広瀬郡鎮座
奈良県北葛城郡広陵町三吉328
【祭神】大国魂命 若宇加能売命 大物主命
御井命『大神分身類社抄』
讃岐公の祖か『神社要録』
散吉大建命、散吉伊能城神の二神『特選神名牒』
【由緒】元慶7年(883)12月2日甲午 従五位下
寿永2年(1183)に荒張郷の藤原康高が再建、後奈良天皇の御宇箸尾城の城主宮内少輔藤原爲春が再建
広瀬川合の若宇加乃売命を勧請して、南川合明神と称するようになつた
慶長19年(1611)正月火災
【関係氏族】讃岐から移住の氏族
【鎮座地】ほぼこの地が当初鎮座の地
【祭祀】江戸時代は「南川合明神」と称した
【境内社】三上神社、沼壱神社、曾根天神社
舒明天皇が高市皇子に詔して大国魂・倉稲魂・大物主の3神を祀ると伝う。讃岐より移住して来た人々がその祖神を祀ると伝う。集落の奥、平地の大社。拝殿・本殿のみが孤立している感がある。拝殿に「広瀬大明神」の額。
かぐや姫の伝説地である。祭神の表示が本殿前と境内説明板で異なっている。
鎮座地名の「三吉」は「みつよし」と読むが、かつては「散吉」と書いて「さぬき」と読んでいた。一帯は讃岐国の斎部氏が移り住んだ地で、讃岐の故郷の神を勧請し創建したものとみられる。
式内社調査報告作成時に「はかつて広瀬社より勧請したので、当社を「南川合明神」とも称している現地についてみるに、社号石も社号額もなく、たゞ玉垣内の石灯籠に「南川合明神」と彫られていることによつて、その所在を知るのみで、荒れ果てた姿で祀られている」とある。