多神社。太氏、多氏

多神社注進状

 磯城の地には三輪山の大物主神を祀る三輪氏と、磯城御県坐神社を祀る磯城県主家があった。三輪氏が磯城氏の後裔としては正嫡とみられるのに対して、磯城県主家は磯城出自の女を娶った饒速日氏の後裔という。
 大三輪神社はもともと纒向の王者磯城氏の祭祀する神社であった。磯城氏が滅びた後、これを祭祀すべく磯城氏の近親から選んだのであろう。磯城県主家は、大和朝廷の六県の一として、支配地たる磯城の地の安寧を祀ったのである。したがって磯城県主がその祖を磯城氏と女系で継いだ饒速日氏とするのは、必然的なものではない。
 この二者が奉祭する神社、大三輪神社と磯城御県坐神社は、それぞれ三輪山の西麓と南麓にあり、互いに二キロと離れていない。

 多神社と十市御県坐神社の関係がすなわちこの関係に近い。すなわち現在の橿原市十市町と磯城郡田原本町多とは隣接し、互いの神社は二キロと離れていない。したがって三輪氏と磯城県主家との差違もここにあるかも知れない。つまり多氏が宗家あるいはその由緒ある後裔で、十市県主が大和朝廷から任ぜられた十市関連氏族であるということが起こりえる。

多氏は後の太氏であり、古事記を編纂した太安麻呂はこの氏族の出であった。いまも城下郡に多町が現存する。
 多・太・大・意富・飫富ともいい、一族は肥・阿蘇・大分・伊予・信濃・駿河・都祁・長狭・印南・石城等国造に分布する。そのために多氏族の意を氏族名としたという説すらある。大族であり後に常陸仲国造となり鹿島神宮を祀る。
 出自を肥前とする向きが多いのは、多氏がうたう杵島節という歌謡があり、これは肥前杵島に発し、付近に鹿島の地名もあるためである。
 その祖は神八井命より出で、十市郡飫富郷を拠点とする「多坐御志理都比古神社」を奉祭する。古事記は神八井命の後として、飫富臣・島田臣・雀部臣の祖という。

多神社注進状

  「大宮二座、珍子賢津日靈神尊、皇像瓊玉に坐す。天祖聖津日嬖神尊、神物圓鏡に坐す。神淳名川耳天皇の御世、二年辛巳歳、神八井命帝宮より降り、当国春日県に居り大宅を造営し国政を塩梅す。ここに皇祖天神を祭礼し、幣帛を陳し祝詞を啓す。県主遠祖大日諸を祀となし、奉仕せしむるなり。
 御間城入彦五十瓊殖天皇の御世、七年庚寅歳冬中、卜により八十萬群神を祭らしむるとき、武恵賀別の子にして神八井命五世の孫武恵賀前命に詔し、神祠を改めつくり「珍御子命皇御命、新寶天津日瓊玉矛等を奉斎し、社地を号け太郷という。天社の封を定む。神地の舊名春日宮、今多神社という」とある。
 二座は夫婦また兄妹を祀る習いであるから、ここでは主神の一座のみ取り上げよう。注進状の表記は「珍子賢津日靈神尊」とあり、また「珍御子命皇御命」ともある。同一神であろう。

多神社は正式名称を多坐彌志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社という。彌志理都比古とは多氏の祖・祭神の神八井耳命(かむやいみみのみこと)だ。

命は神武天皇の第二皇子でありながら弟に皇位を譲り、表舞台から退いた。「身を引いた」ことが“ミシリツヒコ”の由来ともいわれる。

政治を弟に任せ、自らは天神地祇を奉祀する道を選んだ命。社伝には「帝宮から多神社の地に降り、大宅を造営し、神籬磐境(ひもろぎいわさか)を起し立て、皇祖天神を祭礼」したと語られる。

概要
 綏靖の二年、神八井がここ春日の地に住み朝政をみた。また皇祖を祀るに県主遠祖春日大日諸に司どらせた。崇神の七年神祠を改めて立て神霊を祀って、社地を太郷と名づけた。そのため昔春日宮、今多神社という。
 大体この坐神の名「珍子賢津日靈神尊」「珍御子命皇御命」は要するに「珍彦尊」であろう。すると社の名称である「多坐御志理都比古神社」とどうかかわるのであろうか。ほとんど関連がない。
 論理的にはこれがすなわち多氏の祖神であろう。三輪氏の例からしてそうなる。珍彦尊と御志理都比古は本来同一人物でなければならない。
 そこはもと春日宮といったという。皇祖高皇産霊を祀るに、その神八井が県主大日諸を神官としてこれにあてたのだという。書紀にも綏靖の后妃の父としてこの春日県主大日諸が登場する。春日県主大日諸は十市大目と同一人物であろうから、これは考霊・考元の母后たる十市県主太(大)真稚その人である。そしてその後多神社となった。
 十市氏系図もこれに註して、十市県はもと春日県といったが考昭の時代に変更になったといっている。期せずして一致するがどうであろうか。

神八井が祖神高皇産霊を祀るにあたって、祭祀を十市県主太(大)真稚にさせたという伝承は、一体どういう意図をもつであろう。その祭祀の対象も「珍彦尊」と「多坐御志理都比古」という二つ名をもつ祖神であった。
 文脈からすれば、後に多氏と呼ばれた氏族こそ、この時期のこ地に入って祖神を祀り、勢力を拡大していった主人公であった。その地から十市御県坐神社がわずかな距離でしかない。
 神八井が春日宮(多神社)の神官にあてたという十市県主太(大)真稚彦こそ多氏の祖なのである。
 そして神八井が多氏の祖と伝承されるからには、綏靖の兄たる神八井に仮託して、綏靖とともに手研耳弑逆に協力した氏族もまた多氏なのである。
 多氏は太氏・大氏・意富氏・飫富氏ともいった。この際十市県主の宗家たる太(大)氏に倣って、太(大)氏とりわけ太氏に表記を統一しておこう。太安萬侶の太氏である。
 それでもまだその祖神の名称が問えない。神八井ではないのである。「珍彦尊」あるは「志理都比古」なのである。

おなじ神八井を祖とする河内の志紀県主家をみてみよう。
河内の志紀県主家は、雄略のときに初めて挿話に記録される。
 雄略が日下の直越えのとき山上に河内の国を望んだとき「堅魚を上げた舎屋をつくれる家」あって、これは大王のつくる家だとして焼こうとした。家の主を問うと志紀の大県主の家という。この話は大県主が謝して幣物を奉って許されるというものだが、その勢威を誇った挿話のように思える。
 いずれにせよこの志紀県主家は、のち首・宿禰・朝臣となり後世まで栄えるが、その同族とともに神八井の子孫と称する。
 もしこの家がその名の由来たる大和の磯城からでたものであれば、大和の磯城県主とのかかわりが問題になろう。葉江宗家とはもとより関らない。葉江の家は滅びている。
 大和の磯城県主家は前述のように饒速日氏後裔であった。磯城氏の名跡は女系で磯城県主にひきつがれたのであり、河内の志紀県主家がこの同族であれば、おなじくその祖を饒速日氏ないし物部氏としなければならない。そうではない。河内の志紀県主家はその祖を太(多)氏とおなじ神八井という。
 
多神社注進状には、崇神のとき多の宗家は武恵賀別といったとある。武恵賀前という人物も出てくる。この語根はむろん「恵賀」であろうが、恵賀はそもそも買う地志紀の地名であった。恵賀川の地名もある。
 その多氏の祖神として祀る多神社の神が「御志理都比古」ということである。祭神が「珍彦尊」ということである。

大倭氏である。倭氏ともいうが大倭氏が本然である。
その開祖は椎根津彦であった。亦名を珍彦ともいいその出自は山城の内または宇治とみられた。

倭大国魂神は、大水口宿禰に神懸かりしたという。
大水口宿禰は大王氏の一族ではなく、古事記によれば穂積の祖欝色雄の子であり、書紀では物部の祖伊香色雄の子である。

 「太初之時、期(ちぎ)りて曰く『天照大神は悉に天原を治さむ。皇御孫尊(大王)は葦原中国の八十魂神を治さむ。我は親(みずか)ら大地司を治さむ』とのたまふ。言すでに訖(おわ)りぬ。然るに先皇御間城天皇、神祇を祭祀りたまふと雖も、微細しくは未だ其の源根を探りたまはずして、粗に枝葉に留めたまへり。故、其の天皇命短し。ここを以って、今汝御孫尊、先皇の不及を悔いて慎み祭ひまつりたまはば、汝尊の寿命延長く、また天下太平がむ」

 「葦原中国」は大国主が天孫に譲った国である。大和にあっては当然、大国主の幸魂・奇魂という大物主の主宰地をいうであろう。一方「大地(おおつち)」はその範疇以外の国をいうのであるから、磯城と磯城の版図はこれを除くのである。
 契約の内容も領有地についての相互の約束事であるらしい。そして崇神はその約束を破棄してその土地を奪い、そのために命を縮めるにいたった。垂仁はこれをもって改めて契約の施行を求められている。さもないと垂仁の命も永くはないと脅されている。
 文脈からすれば契約した大王は神武である。そして神武とのあいだで交わしたこの契約が、後の大倭氏市磯長尾市にとって祖たる人物の時代にあったというのだから、契約した氏族の首長は椎根津彦にほかならない。
 椎根津彦以外の氏族がありえるかどうかは、一応考えてみるべきであるが、契約の内容からしてこの候補は、当時の大族とみられる磯城葉江宗家氏・長髓彦氏・椎根津彦氏くらいの三者しかない。磯城氏は倭大国魂神とは別神であることはあきらかである。
 長髓彦氏あるいは饒速日氏はその可能性があり得るが、書紀と古事記の文脈からすると帰順したにもかかわらず、その後の活躍は垂仁紀の物部十千根にいたるまで全くない。そもそも書紀が書く長髓彦との最終戦は古事記にはなく、戦闘は唯一孔舎衛坂のそれがあったのみであろうと思う。つまり長髓彦の勢力版図はたぶん生駒から添下に偏っていて、磯城の地とは利害関係からすれば遠かったのである。
 おそらくその後の半世紀、長髓彦氏または饒速日氏は決して降伏も服属もせず、生駒あるいは添下で独自の王権を維持していたのだと思う。
 すると契約者は椎根津彦にほかならない。しかしここにおいてもうひとつの要素があらわになる。この祟った神の力量である。記述からして大物主神に匹敵するかあるいはそれ以上のものにみえる。それだけの勢威は、椎根津彦あるいは後の大倭氏について書紀・古事記が書くところからは読み取れない。

大倭氏は椎根津彦の後裔である
 椎根津彦の背景をいますこしみてみよう。
 椎根津彦は速吸門から神武に従った「海導人」であった。それでも文脈からすると、椎根津彦が単なる海導人であったとは思えない。神武あるいは五瀬が吉備から発って、大和を目ざしたのには、むしろ椎根津彦の存在があったからではないかと思える。単に海人であったら、その役目は大和侵入のまえに終わったのである。そもそも神武が椎根津彦に出あったとき、その様は尋常ではなかった。
 古事記は「亀の甲に乗り、釣りしつつ羽挙き来る人、速吸門に偶いき」と語っている。 

 「汝は誰ぞ」と問ひたまえば、「僕は国つ神ぞ」と答へ曰しき。また「汝は海道を知れりや」と問ひたまへば、「能く知れり」と答へ曰しき。また「従に仕へ奉らむや」と問ひたまえば、「仕へ奉らむ」と答へ曰しき。

 『記紀』には敏達天皇は訳語田(他田:おさだ)幸玉(さきたま)の宮で政を見たとあるが、そこは桜井市の戒重(かいじゅう)付近に比定されており、戒重にある春日神社は他田宮とも称した。一方、他田宮を桜井市大字大田とする説もある。他田→太田→大田と地名が変遷したという。そこには他田坐天照御魂神社があり、二ギハヤヒを祀る。アマテルは自動詞であり、アマテラスは他動詞である。自然の球体である太陽はアマテルであり、地上を照らす支配者の太陽がアマテラスである。それゆえにここではアマテルという神社名が注意されるのである。物部氏の祀っていた日神はアマテルであり、天皇家の日神はアマテラスである。それは物部氏の日神アマテルを天皇家がアマテラスとしてわがものにしたと考えられなくもない。
 用明紀の即位前紀の九月に「酢香手姫皇女(すかてひめのみこ)を以て、伊勢神官に拝(め)して、日神(ひにかみ)に祀(まつり)に奉(つかえまつ)らしむ」とある。用明帝の先帝の敏達天皇の六年(五七七)の春二月に「詔して日祀部・私部(ひのまつりべ きさいちべ)を置く」と『日本書紀』にある。日祀りは太陽を祀ることであって、それにふさわしい地は笠縫邑・檜原神社のあたりしかない。槍原はまえに日原とも記した。また桜井市の草川は日下に由来するのではないかという池田末則の説がある(『日本地名伝承論』)。草川には川は流れていない。日下は河内の草香が日の下であるためにつけられた地名であることは私は明らかにした(『白鳥伝説』)。三輪山のふもともまさしく日の下であり、そこが日祀りの場であったことは想像に難くない。敏達天皇の時に定められた日祀部というのも、日神を斎き祀る集団から出発したにちがいなく、その祭司にたずさわる女性が日の妻であった。